逆も真/頑固と自由

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/26461962.html

「楽譜が存在することで音楽にアクセスする敷居が下がり、裾野が広がったのではないか」

という意見は、日本の洋楽受容でもおなじみですよね。

それから、

ゲオルギアーデスなどが書いていたかと思いますが、

楽譜と照合することで鳴り響きをチェックして、その次に今度は鳴り響きを耳で体験することで楽譜の読み方が更新される、という相互作用によって、音楽の視覚的把握・聴覚的把握双方の精度を高めるようなモデルがしばしば提唱されてきたことを見落としてはならないと思う。

音楽の広がり(裾野)と高さ(特定の方向を目指す質的向上)の両面で、楽譜の意義は功罪半ばだと思う。

誰がどういうときに「罪」を強く告発したい思いが募るのか。上手に論点を特定して話を進めないと、一方的な極論になるでしょうねえ……。

[付記]

ちなみに、

「もっと多面的にものを見るべき」という指摘は「俺の見方が取り入れられてない」をしばしば意味します

という状態は、たとえオコチャマにとってはウザいことであったとしても、世の中とはそういうものである、という条件として受け入れざるを得ない。

多くの選択肢があるなかから何かを選ぶときにはじめて「自由」を言いうる。多様性・多面性を知らずに限られた選択肢にしがみつくのは、「自由」ではなく「頑な」と呼ばれる。

「自由」には、多くの選択肢がある状態で、そこにおぼれないだけの知力体力が要る、ということだと思いまする。

コピペと言われないレポートの書き方教室: 3つのステップ

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まだ読んでないけど、断片的に伝えられる評価から察するに、こうした本もおそらく、「頑な」な多面性拒否を推奨しているはずがなかろうと思うのだが、どうか?

そして、ハンバーグを出す寿司屋が街角に出来たとしても、私はいっこうにかまわないと思う。誰が何の権利で文句を言える筋合いのものでもない。

そういう民間の個人の営みと、公権力がいかに行使されるべきか、という話が二重三重に混同されてしまうから、話がおかしくなるのだろう。公人が私見とみまちがわれそうな不見識な発言をしたときには、公人が公論として反論したほうがいい。同じ土俵で私見とごっちゃになった「口論」を仕掛けると、ヤクザが因縁つけてるみたいなことになるぜよ。

(今日明日、私は、待兼山の麓、北摂の良心みたいな街の公共ホールで地方自治体のお仕事をしておるところなので、フェアネス成分の取り扱いには敏感ですよ(笑)。)