古代の個人:叙事詩・哲学・告白

少し中断しましたが、極私的古代ローマ探訪に戻ります。

アウグスティヌス―“私”のはじまり (シリーズ・哲学のエッセンス)

アウグスティヌス―“私”のはじまり (シリーズ・哲学のエッセンス)

ローマ帝国とキリスト教は、色々なファクターがありすぎて難物だとつくづく思いますが、富松先生のアウグスティヌス論では、「個人」(ほぼ「私」)概念が、ホメロスの叙事詩とソクラテス対話篇とアウグスティヌスの告白の3者では違っている、という整理が面白かった。

ホメロスの叙事詩では、アキレウスとヘクトールのような英雄、傑出した人物だけ「個人」扱いを受けて、その他大勢が「個」として焦点を当てられることはない。

ソクラテス対話篇では、ソフィストたちが「私」として語り、考えているけれど、そこでしばしば話題になるように「魂の不滅」が信じられているのだとしたら、語り合う「私」たちは、ちょうど鏡に映った像によって己の姿を探るように、私と相手がともに宿しているに違いない魂のありようを対話によって探り当てようとしているのではないか、と著者は言う。

つまり、「私」の内側には不滅の魂が宿っている、「私」とは不滅の魂の器である、というような人間観がそこにあって、ギリシャ哲学は「私」が「私」にしか知り得ない「内面」を見つめ、管理する、という設定には(まだ)なっていない、と著者は見ているようだ。

で、著者はアウグスティヌスの神と私が対峙して、ひたすら神に向けて語るときに、はじめて、私の内面・内省が成立したのではないかと言うのだけれど(つまり、ホメロスやソクラテスを引き合いにだすのは、アウグスティヌスの画期性を言うための前振りになっているのだけれど)、

でも、これはちょっと言い過ぎではないか、と読みながら思った。

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

アウグスティヌスの告白の文は、読んでみると、必ず「主よ」の呼びかけではじまっていて、すべては神へ語りかける言葉の体裁になっているんですよね。それが告白ということなのだと思いますけれど、これは、胸の内で「思ったこと」を綴っている、と見なしていいのでしょうか。

文字を黙読する/心に浮かんだことをそのまま文字にする、という文化がアウグスティヌスの時代に既に確立していたのかどうか、が問題になりそうな気がしたんです。

中世の俗語の成立とか、説教文書の研究とかでは、黙読の成立をもう少しあとに想定するみたいですよね。

声と文字 (ヨーロッパの中世 第6巻)

声と文字 (ヨーロッパの中世 第6巻)

私のこのあたりの知識は全面的に大黒先生の『声と文字』に頼っている状態なので、やや心許ないですが。

で、もし黙読や内省は中世後期以後の文化なのだと言えるとしたら、アウグスティヌスの告白、「主よ」という神への語りかけは、「思う」ではなく、声に出して「語る/言う」行為と考えるほうが確からしいのではなかろうか。キリスト教の門外漢が勝手にこんなことを主張してはいけないのかもしれませんが、神に語りかける告白というのは、宗教行為のひとつの様式だったのではないか、告白という行為に「内省」「内面」を想定することは、まだ必須とは言えないことになりそうですが、この解釈はトンチンカンの的外れなのでしょうか?

内面・内省ということを言わなくても、宗教行為としての神への告白は、それだけで、十分に画期的だったんじゃないかと思うのですが……。

(アウグスティヌスのあとにグレゴリオ聖歌が広まることも、告白のような「語る言葉」が、次の段階で musica として組織化されたと考えると、わかりやすくなりそうに思うのです。)

キリスト教は、どうして「内面の宗教」と呼ばれるのか?

アウグスティヌスの告白という話法だけを云々するのではなく、教義等に踏み込まないといけないのだろうと思うので、これだけでは、素人の頭に素朴な疑問が浮かんだに過ぎませんが。