歴史哲学と劇場の世論

フォルケルのところで、いきなり「進歩史観」の語が出るとぎょっとするが、我慢して読み進めると、「音楽におけるドイツ」の史的展開とでも呼ぶべき論考に歴史哲学をどう絡めるか、ということであるらしいとわかってくる。

一般的な説明……というかダールハウスがしばしばそういう書き方をしていたのは、

18世紀啓蒙主義の人類学的な「お国柄」論(いわば地図を眺めながら、この地域の特徴はこうで、あそこはこう、と列挙する態度)から、19世紀の音楽論は、観念論の歴史哲学をいわば議論のエンジンとして搭載する形に転換した

ということだと思う。

で、「音楽におけるドイツ」をそのもっと前まで遡り、18世紀から19世紀への転換については、フォルケルの音楽史の見取り図に着目することで、この本は、記述が格段に緻密になっている。たぶんここが、この本の一番の「売り」なのだと思います。

例えば、前の巻の混合趣味がドイツの音楽家の国際的成功のスプリングボードになったのではないか、という話は、そこで直接の話題にはなっていないけれど、どうしてドイツでオルガン(ハーモニーを製造する鍵盤楽器です)が大規模化して定着したか、ということについても考えさせられる。

また、

フォルケルの音楽史 → 1800年代ロマン主義文学者の器楽論 → 1830年以後のベートーヴェン主義

というストーリーはクリアでわかりやすいですね。フォルケルの音楽史は、18世紀啓蒙主義の人類学から19世紀観念論の歴史哲学への転換の蝶番になっている、ということで。

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とはいえ、しかし、「進歩史観」とは何なのか。

学際的に、色々な人がよってたかってどうにかしようとしている熱いトピック、熱すぎて容易に手が出しがたいトピックのような印象を受けます。

啓蒙主義人類学と観念論歴史哲学もしくはロマン主義器楽論という、いずれも、相当な研究史の厚みのある概念を「進歩史観」というホットな部品でつなげた状態は、ここをきれいにつなげること自体が研究上のイノヴェーションなのだと思いますけれど、やや「仮留め」感があるなあ、とは思う。

独仏で議論してきた事案に、新興の英米アングロ・サクソン文脈をひっつけたようにも見えるし……。つなぎ目をなじませるには、もうすこし議論を深めた方がいいのかもしれない。

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もうひとつは、王政復古期における歴史哲学的・ロマン主義的器楽論の意義の見積もりです。

1820年代の音楽生活については、ようやく allgemein っぽい姿が見えて来つつあるところだと思うんですよね。ヴィルトゥオーソたちのコンチェルトがリバイバルしたり、ロッシーニ・ルネサンスと言われるベルカント・オペラの再評価が進んだり……。

で、西原稔が「暗黒大陸」と呼びそうな19世紀の音楽生活の「埋もれてしまった音楽たち」が発掘されるにつれて、「自堕落vs愛国」を「フランスvsドイツ」と重ねて議論するのでは不十分ではないか、ということになりつつある気がします。

ホフマンの教会音楽論の読解は、アンチ・フランスではあるけれどもナショナリストとは言えない、という結論になっていますが、たぶんこれは、ほぼ同時期のベルリンで「魔弾の射手」が人気沸騰していたウェーバーの立場と対になると思います。

ウェーバーは、プラハからドレスデンに移るとベルリンとの関係を深めて、ミュンヘン・マンハイムの南ドイツ派からプロイセンの北ドイツ派に転向した、と言われたりします。バッハを「ドイツ的」と賞賛する事典項目が紹介されていますが、彼はかつて、マンハイムのフォーグラーの助手として、「いかにバッハの和声法が理論的に間違っているか」というバッハ批判のプロパガンダ記事を書いていました。ウェーバー研究においては、彼のバッハ像は、その愛国的音楽観を示すというより、「転向・変節」の証拠とみなされるようです。

でも、北ドイツ派に転向したあとで、オペラ作曲家としてのウェーバーは、むしろ「汎ヨーロッパ」指向を強めて、ウィーンでフル・サイズの通作オペラを書いたり、ロンドンへ行ったりしています。

そして彼の劇場指揮者としてのレパートリーは、「ドイツ劇場」と言っても、大半がフランスの作品のドイツ語訳詞上演なんですよね。

何が起きているかというと、ホフマンはアンチ・フランスだけれどもナショナリストではなく、ウェーバーは、ナショナリストとして発言するけれども、一貫して親フランスである、という捻れが生じているようです。

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で、ヘーゲルやショーペンハウアーを含めて、1820年代のドイツの音楽論は、何やら複雑に捻れているかのように思えてしまうわけですが、

では、いったい何が彼らをそうさせたのか。

教養市民の音楽観(ほぼ大学人の音楽観でもある)と劇場の音楽観がシンクロしていなかった、ということじゃないかと、今回改めて思いました。

1820年代の教養市民(もしくはこれから教養市民になろうとするビーダーマイヤーたち)は、既に歴史哲学やロマン主義の言葉で音楽とドイツを語ることを覚えていたけれど、同時に彼らは、ロッシーニが大評判である劇場にも通っていた。そして大学やジャーナリズムの美学・哲学とは別に、劇場人には劇場人の趣味判断とメチエがあったんじゃないか。

そして俺たちのためにドル箱作品を書いてくれた大恩人のカペルマイスター、マエストロ・ウェーバーが「ドイツのみなさん、我々はフランスのオペラから学ぶべきです」と演説すると、王政復古のご時世なのでおおっぴらには言えないかもしれないし、思想史的には古くさい混合趣味の焼き直しの主張ではあるけれど、劇場人たちの賛同・共感を得ていたのではないか、劇場経営において彼の発言は有効に機能したのではないかと思われます。

一方、気鋭の作家ホフマンが「フランスは軽薄だ、ヨーロッパを荒廃させたのは彼らの責任、あやまちは繰り返しません、これからはロマン主義で反戦平和を貫きましょう!」と書いているのを劇場人たちは楽屋で回し読みして、「インテリさんはこれだから困る、何もわかっちゃいねーんだよ、そういやあ、あのウンディーネって退屈な芝居だったよねえ、劇場が火事になったりして、不吉だよねえ……」と言い合っていたのではないか(もちろん証拠のない想像ですが、笑)。

ヘーゲルがウィーンのロッシーニ熱を通じて遭遇したのは、おそらくそのような「劇場の世論」であり、彼は、そこに看過できない理論のバネを探り当てたと思ったのではないか。

1820年代をどのような時代と見るか、私には大学と劇場の決して一枚岩ではない齟齬こそが鍵ではないかと思えてなりません。

そしてこの大学・劇場問題の渦中から出てきたのが、次の時代のワーグナー(劇場人の家で育った教養市民)という事案だったのではないでしょうか。