人文学のミクロとマクロ

「かたち」の哲学 (岩波現代文庫)

「かたち」の哲学 (岩波現代文庫)

「かたちの哲学」を読んで、「主観・客観」系で世評の高い哲学者が、デカルトやフッサールのように知覚・認知問題で軒並み間違ってしまうのは偶然なのか、そうじゃないとしたら、どうしてなのか、と考えた。

哲学のみならず、人文科学を人文科学とひとくくりにするには一定の根拠があると思うのだけれど、そこでなされている取り組みのなかには、「主観・客観」問題のように社会科学と相性のよい領域と、知覚・認知問題のように自然科学と相性のよい領域があって、変に混ぜると失敗する、ということなのかもしれない。

で、これはどこかしら、経済学にマクロとミクロの区別があるのと似ているかもしれない。

歴史もマクロに物語るときと、ミクロに資料・文献を取り扱うときは、何かしらモードが変わりそうですよね。音楽研究も、それをマクロに語るときには、音楽美学も音楽史もどんどん社会科学っぽくなっていて、ミクロに語るときには、作品論も感性論も自然科学っぽくなっている。

しかしそうなると、私たちが問わねばならないのは、しばしば言われる「文系と理系は何が違うか」(人間と自然、演繹と帰納、法則定立と個別記述、存在者と存在などなど)ではなくて、「自然科学と社会科学は何が違うのか」ということかもしれない。

なんとなくですが、物事の特性を切り分けて追い詰めていくときと、物事を集合・集団として一括して取り扱うときでは、思考のモードが切り替わっていて、今の世の中で物事を考えるときの焦点は、対象が人間であるか自然であるかの区別(=文系vs理系問題)よりも、それが個体弁別に関わるのか、それとも、集合・集団を把握しようとしているのか、そこに焦点が移っているのかもしれませんね。

人間界のミクロな問題は自然科学に傾斜して、マクロな問題は社会科学に傾斜する。

これってひょっとすると、既に今の世の中は、「人間」が「砂浜に描いた顔のように消えている」ってことだったりして。

言葉と物―人文科学の考古学

言葉と物―人文科学の考古学

(だから、宗教の「肯定する力」で下支えしないとマズい、という話になるわけか。)