反証としての分析、例示としての分析

Film Analysis 映画分析入門

Film Analysis 映画分析入門

映画のスナップショット満載で、さすがフィルムアート社!という感じの造本だが、「○○は××を意味する」とか、「××であることによって○○という効果が生まれている」とか、意味作用と因果関係の安直な断定が連打されることに辟易させられた。

film の analysis を名乗っているが、分析という行為は、静態的に要素や部品に分解して、その関係を観察・記述したり、動態的に傾向を指摘したり、構造の整合や不整合を仮説的に提示したりすることはできるが、そのような行為は「意味」にはたどりつかないし、見いだされた関係や傾向や構造を「因果論」、原因と結果という枠組に固定することはできない。

できないことを、あたかも、できるかのように書くのはよくないのではないだろうか? 記述のエコノミーと、初心者向けの入門書という言い訳があるのかもしれないが。

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分析が「意味」にたどりつき、原因と結果を特定する強力な武器であるかのようにデモンストレーションするレトリックは、確かにある。

分析によって、既存の命題への反証を突きつけるのである。

先行研究では「○○は××である」とされているが、分析の結果、××ではないことが明らかになった

とやればいいのである。

そもそも芸術作品の分析は、「美はいわく言いがたいものである」という19世紀の芸術観に対して、美の出所が芸術作品であるならば、当該作品の分析によって、これだけのことを語りうるではないか、と反論する20世紀の芸術運動とリンクしていると思う。

(音楽で言えば、プフィッツナーがシューマンのポエジーを「いわく言いがたいもの」として礼賛したことにアルバン・ベルクが反論した論文がある。)

作品分析と反証主義は、たぶんとても相性が良い。

おそらく、哲学における概念の分析が、20世紀に論理学の刷新とともに台頭したのは、似た事情によるのだろう。

でも、分析が「突撃隊長」として脚光を浴びうるのはそこまでだ。

先行の議論を退けた先で、ポジティヴに何かを立てようとするときには、分析にできることは、せいぜい、提唱された仮説や命題の例示・例解、イラストレーションに留まる。

だから普通に資料研究や文献調査や哲学的考察をやるしかない。(過去へ逆戻りして復旧する、という意味ではないし、的確な反証は、適切な例示と同じく常に有効で、それができないと話にならないとは思うけれど。)

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壊すのは一瞬だが、壊れたものを作り直すには時間がかかるし、学問のリソースの大半は、たぶん後者のために割かれる。

で、壊すものがなくなると、手持ちぶさたになった者は所在なげに周囲を見回して、「え、オレのせいなの、でも、それって分析の責任じゃないよね、オレ悪くないよね」とか訊き回るのだけれど、まあ、誰も相手にしないよね。