典型の考察

山田治生が気になるのは、ひとつの典型に見えるからである。何かから距離を保つデタッチメントと、何かに介入するコミットメントの境界を踏み越えるか否か、そこに異様に神経過敏に拘泥して、言説がこのこだわりを起点に組み立てられているように見える。これがひとつのスタイルなのか、SNSで素でつぶやくくらいだから習い性のように染みついているのかは不明だが、なんとなく、村上春樹を好みそうなこの島の大都市生活者のひとつの典型・類型という感じがする。

その種の言説に日本のクラシック音楽が染め上げられてしまったら悪夢であることだなあ、と、私は思う。そうは思わない人もいるだろうし、それはもちろん自由だが、私が私の感想を述べることも自由だろう。

私には、妙な拘泥で風通しが悪くなっているように見える。デタッチメントと言っても、西欧近代の都市文化の特性だと言われるようになった「観察者」(ジョナサン・クレーリー)と呼ぶには不徹底だし、ひとたび何かにコミットすると、妙にドメスティックなことを口走ってしまったり……。

東京のクラシック音楽には、「いかにも山田が好みそうな部分」というのが否定しがたくあるよなあ、と、私は勝手に思っております。(お望みならば、ドルトムントにはドルトムントのカラーがあるように、と言い添えましょうか?)