「本論文は」という無生物主語

真田丸総集編を少しずつみて、上手に編集するものだなあと感心するが、考えてみれば、ドラマ本編がストレートプレイ風の小さなシーンを有働さんの語りでつなぐ形式だから、語りによるつなぎをちゃんとやれば再編集しやすいのかもしれない。

ストレートプレイに「語り手」が無策に割って入ると安直・通俗と言われるし、小説では、語り手を視点人物として物語に埋め込む様々な技法が開発された。語り物・叙事劇は、そのどちらでもない物語の形だということですね。

論文はどうなのだろう?

「私は」と書き手がダイレクトに前に出てくるのを避けることになっていて、どうしても、というときには、「著者は」と書いたりするが、「本論文は○○××を目指す」等と書くときの「本論文」という無生物主語は、「私」や「著者」の言い替えなのか、そうではなく、無生物主語を置くことが、集合知・共有財としての知、という理念の実装だと言って良いのか。

論文・研究に対して、書き手の意図や素性に遡ったり(いわゆる属人批評)、書き手が設定した領域の外(いわゆる右斜め上)から論評したりするのは、学問ではルール違反だ、という言い方があるけれど、そういう風に安心・安全なルールで学問を囲い込もうとするのであれば、「本論文は」という無生物主語の地位を、一度、文章論として明確にする必要があるかもしれない。