知と契約

書く時間がなかったが、遊牧と僧院の比喩の件には私なりの続きがある。

知・学問が社会・共同体とは本質的に適合しない営みであり、だからこそ、外部へ出たり、山奥に引きこもるしかないのだ、という判断が、私には実はよく理解できない。むしろ、知や学問は、社会・共同体にそこそこ役に立っているし、これからも役立てたいと考えている人が大多数なのではないか。

例えば、大学を設置し運営する人たちが、日本でも最近は明文化された雇用契約を教員・研究者と交わすことになっていて、これが体の良い首切り・リストラ、経営陣の独断専制の武器になる、というので概して評判が悪いようなのだが、契約を交わすことは、雇用される側の義務を明文化するだけでなく、雇用する側の義務を明文化することでもあるのだから、利害が真っ向から対立する敵対関係にあるのでない限り、むしろ、協力・協働関係を明確化して、おおむね、いいことだろうと私には思える。

遊牧や僧院にこだわるのは、社会・共同体との利害の対立を和解しえない不適合へと一足飛びに過激化する物言いで、あまり生産的ではないと思うんですよね。

知を契約に落とし込むために知性を働かせる、ということがあってもいいんじゃないか。高等教育機関における雇用契約の在り方が、その国のどの法人よりも先進的で、あらゆる勤め人の規範になる、そういう状態を知識人が目指すことは、十分ありうるだろうと思う。

現時点で知識人がいまいち尊敬されていないとしたら、それは、まっとうな勤め人であれば顔をしかめそうな雇用形態に唯々諾々と従ったり、契約関係がいいかげんな状態を放置しているからなのではなかろうかと思うのですが、どうなんでしょう?