予約席の取り扱い

あれはドイツ国内だけの決まりだったのかヨーロッパ(大陸?)の鉄道全般に通用したのか、そして今もDBはそういうルールが有効なのか、私はよく知らないけれど、留学していた1991/1992年のドイツの列車の座席の予約は、実際に列車が走り出して30分過ぎてもその席が空席のままだと失効することになっていた。コンパートメントの入り口に「Reserviert」と表示がある座席であっても、30分過ぎたら勝手に座ってよかったのです。

どういう理屈でそういうルールになっているのか、大げさにいえば、「場所(座席)の占有」をめぐる法概念の問題であると思えなくもないけれど……、

未だ実現していない未來に運行する列車の特定の座席を確保する、というヴァーチャルな契約が、実際にその列車に乗車してその座席に座るリアルな行動を伴っていなければ失効する、というわけだから、少なくとも、ドイツ人は観念的であるとか、という漠然としたイメージでは説明できそうにないルールだと思われ、私は、なかなか良い制度だと気に入っていた。

コンサートの座席の予約も、同じルールで運用したらいいのに、と思うのです。

というより、一昔前の大らかなコンサートホールであれば、常連客は阿吽の呼吸で、人が来なさそうな座席に途中で移動していましたよね?

コンサートの座席というのは、実際に座ってみないとどんな具合なのかわからないことが多いし、高額の席や招待席が満足度の高い場所だとはかぎらない。未だ到来していない未來を予測して特定の場所を確保する「予約」という行為が、実際のイベントの終了まで一切変更不能に有効である、というのは、あまり健全な場の運用ではないと思うんですよね。

先日、事情があって演奏会の開演に間に合わず、1曲目の楽章間に大慌てで会場に入って、その曲を一番後ろで立ち見することになった。まあ、そういうことになるだろうと思っていたので、それはいいのです。

客席を見渡すと、ちょうど最後列の大半が空席だったので、だったら2曲目からここに座ればいいと目星を付けた。

(渡されたチケットは随分前方の座席だったので、私は、もし開演前に会場に着いたら、どの道、最後列に移るつもりだったので好都合だ、とも思っていた。)

そして1曲目が終わって、さあ座ろうと思ったら、そのホールでは、職業意識に燃えるレセプショニストさんが、どうやら無線か何かで遅刻してきた人間の「正しい座席」の場所を受け付けから伝えられていたらしく、私のチケットには目もくれることもなく、「お席までご案内します」と言うので驚いた。私が「ここでいいです」と言うと、あたかも私がルールをルールとも思わない無法者であるかのように、「そのお席にはあとでお客様がいらっしゃるかもしれませんから」ときっぱり言い放って、さあこちらへ、と誘導するのである。

案内されたのは、最後列から延々通路を下って、客席中央の会場全体から丸見えの座席(初演コンサートで作曲家が座って、演奏後に指揮者から呼ばれて大急ぎで舞台へ駆け上がるのに丁度良さそうな場所)だった。曲間で舞台転換もない時間に、いい晒し者である。(そうなるのがかなわないから、最後列でいい、とこちらは言っているのに。地元のオーケストラの週末の午後の定例的なコンサートで、前半のコンチェルトだけ聴いて帰る人はいるだろうけれど、前半をパスして後半のシンフォニーだけ聴きに来るお客さんが10人以上いるとは思えないし、こっちはそれをわかって言っているのに……。)

コンサートの座席は、特定の人物に「販売」した以上、そのコンサートが終了するまでは、たとえその人物が実際にはコンサート会場に現れなかったとしても、その人物以外が決して座ってはならない。

そういうルールを設定して運用する、というのであれば、それはそれで、主催者やホール運営者の自由ではあるけれど、このルールは、実際に会場にいる者を随分不自由な状態に押し込める。

未來を先取りするヴァーチャルなルール(座席の予約・割り当て)と、実際のコンサート空間の状況は、必ずしも一致しないに決まっているのだから、はじまってしまえば、会場に実際にいる人たちでお互いが納得するように運用すればいいし、そのほうが、はるかに「ライヴ」だと思うんですけどね。

たぶん、コンサートの在り方としては、そっちのほうが本来の姿であろうと私は思う。それは嫌だ、という人が大多数なのだとしたら、ヴァーチャルなルールをどこまでも押し通すローカルな「新しいコンサート」を推進してもいいですけど……。

(コンサートホールは、もはや、コンサートがはじまってしまえば、そこから先何かが起きたら演奏家と聴衆が臨機応変に対応すべし、みたいな自由な個人の空間ではなくなっていて、客室係さんが飛行機の客室乗務員のように「管理」するべきだ、という思想が推し進められて、来るところまで来つつある、ということかと思う。「クラシック専用」を謳うコンサートホールは、今そんな感じですね。実はそれほど古いことでもなく絶対そうでなければならないとは言いがたい慣習を、かくあるべし、と杓子定規に思い込む運用が、局所肥大している感じがします。

契約は明朗にしたほうがいいんじゃないか、という、ひとつ前の記事と逆のことを言っているわけではなく、コンサートのチケット販売は、必ずしも指定された座席の占有権への対価という形じゃないなくてもいいだろうに、ということです。「クラシック専用ホール」は、座席指定へのこだわりが戯画的なまでに強いですよね。あれは何なのか。クラシック音楽はそうでなければならない、というものではなく、20世紀の大衆化した自由市場の機会均等の上に「高級感」を接ぎ木するねじれではないかという気がします。コンサートホールの座席は、飛行機で言えば、全席エコノミーみたいなもので、そういうものが求められた大衆化の20世紀特有の構造なのだから、reserved seat のスペシャル感の演出を過剰にしようとすると無理が出る。)

[追記]

いずれにせよ、暗い客席での一瞬の微妙なやりとりへの違和感ではあるわけですが、私は遅刻していたので、場の雰囲気を壊さないようにほぼ間違いなく空席のままになるであろう最後列でいいだろうと示唆したわけで、いわば、それがその時その場にいる「お客様」の意志だったわけですね。

「このお客様を指定の座席まで誘導するのが私の務めである」とか、「もしかするといらっしゃるかもしれないお客様のためにこの席は空けておくべきである」とか、と言うときの「お客様」は、その場に実在しないわけで、客室係さんの脳内には、目の前にいるお客様とは別の次元で、抽象的な「お客様」像が巨大に君臨していている感じがした。彼女は、目の前のこのお客様ではなく、脳内の不在の抽象的な「お客様」への心遣いを優先する不在の抽象的な使命感で動いていたんでしょうね。そのような「極上のサーヴィス」で「よろしかったでしょうか?」と念押しされてしまいそうな状況は、いかにも現代日本らしいことではありました。