お金と数字が他力本願な文系人のお務め

その1:

大学改革が難しい理由 - みたにっき@はてな

大学教員は自営業に喩えられると言うが、大学という施設の土地・建物・すべての資財と消耗品の維持管理費を含めた経理、監督官庁とのやりとり等を大学教員が個人がやっているのだろうか? 大学という法人は、その程度の規模なのだろうか?

大学教員は、商店街の自営業者(はそういうことをぜんぶ自前でやるよね)ではなく、大学というショッピングモールの店子に過ぎないと思うのだが、違うのか?

その2:

その1で述べた構図は、

「フィボナッチ数列をありがたがる人は、たいてい、自分で数えてはいない」

という「神秘のからくり」と何かが似ている。

もちろん、数学的なアイデアが、生物学の問題の解決、それも非常に根本的なレベルでの解決につながることは十分にありうる。
生物学史上最大の発見であるメンデルの法則は、歴とした数理モデルであるし、チューリングの反応拡散モデルは形態形成の理解に必須のものになりつつある。
しかし、そういう極めつけの成功例には、前提として「現象の本質を見抜く目」が必須であり、道具としての数学の役割はそれほど大きくはないのだ。
そこんトコロを解っているのだろうか?

[……中略……]

ヒマワリの種の場合、らせんの数が少ない時(40以下)は大抵フィボナッチになっています。それ以上の場合は、らせんが途中で乱れ、数えにくくなります。筆者の知人の数学科の先生が、学生に数を勘定させてところ、1000ぐらい数えて、ほとんどフィボナッチになっていた、という結果だったそうです。しかし、話をよく聞いてみると、数えにくい花、すなわちらせんが乱れた花は全て「数えにくい」と言う事で除外していた事が解りました。筆者がネットで見つけた「大きなひまわりの花」で試したところ、どれも一部にらせんの分岐があり、正確にフィボナッチ数であった物は10%以下(0/10)でした。

http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/skondo/saibokogaku/fibonacchi.html

その3:

学問は宗教として生き残るしかないのではないか、というつぶやきを少し前に見つけたが、

それは本当に、知と信念が深い絆で結ばれているということなのだろうか。

日本の現在の状況では、知・学問が「経済効率」の旗印で攻撃されている一方で、宗教を名乗るとそこまで攻められないから、相対的に有利である、ということではないのだろうか? 大学人が、実際には自営しておらず、自分でお金と数字を管理しない他力本願なものだから、羽振りの良さそうなテナントとしての宗教に頼りたくなってしまう、というだけのことではないのだろうか?

(桑原武夫の蔵書1万冊の話だが、図書館が自前の「蔵書」として環境を整備しようとするとラベリングして目録に登録するだけでたぶん数百万かかるだろう、という指摘があった。信仰心が濃いか薄いか、の話ではなく、こういうときに数百万をポンと出せるのは、いまでは宗教法人くらいだろう、ということだと思う。

あと、京都府立図書館の人が「うちではそういうやりかたはありえません」とコメントしていたが、京都市と京都府は伝統的に不仲で張り合っているので、これは、敵失を捉えた京都人らしいイケズだと思う。)

舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

山崎正和が、職人は仕事の成果を「稼ぎ」と言うが、サラリーマンの仕事は「お務め」と呼ばれる、そして「お務め」は、もともと宗教行為ですよ、と言ってますね。

大学教員は研究をなりわいとしているが、だからといって研究で「稼いで」いるわけではないですよね。問題は、研究という「お務め」が既にサラリーマンの「お務め」と同等に世俗化しているのに、あたかも「宗教的なお務め」であるかのように装ったり、「お務め」とは異なる何かであろうとすることでしょう。

「世俗化したお務め」をそうではないと言い張ろうとするから、意固地になったり、日々歯を食いしばったり、酒を飲みながら愚痴を言ったり、キモさをひけらかしたりしなければならなくなるのではないだろうか。