婦人ピアニストの系譜

ポストモダニズムを物理学者がからかった90年代の事件と同じ次元で、2017年のフェミニズムへの悪戯に快哉を叫んでいいはずだ、という判断に私はどうにも同意できないのだが、いまのところ、これは直感的なことで、うまく説明できない。

鍵盤音楽史の授業で、ベートーヴェンを「ピアノによる他の楽器やジャンルの模倣」という発想の代表として扱い、シューベルトのソナタの巨大でシンフォニックなヴィジョンは、ベートーヴェンと違って生前に本格的なシンフォニーの上演を実現できなかった若者の屈折とみなすことにした。シューベルトは、ベートーヴェンと同じく「ピアノによる模倣」という手法を基礎にして、その発想が鬱屈してこじれている、と診断していいのではないか、というアイデアです。

90年代以後のドイツ語圏で量産されたシューベルトの器楽曲に関する研究は、おおむね、こういう方向でシューベルトを分析していると思うのですが、どうでしょう。

(で、ベートーヴェンにせよシューベルトにせよ、「ピアノによる模倣」は主題の造形や変奏の段階で起きることが多いので、これは、19世紀のドイツ音楽の最大の特徴だとされる「主題の展開」という音楽のシンタクスが、ピアノ音楽においては「他の楽器の模倣」というセマンティクスと組み合わさるシステムとして稼働したのではないか、ということでもある。チャールズ・ローゼンがソナタ諸形式で詳細に語っていそうな話題を思い切り簡略にすると、そういう説明モデルを取り出すのは、あながち的外れではなさそうに思うのです。)

ということで、古典派のピアノ音楽をとりあえず片付けて、この順番でピアノ文献を読み進めるとしたら、ドイツ語圏では次にシューマンが出てくるわけだが、シューマンを1830年代ドイツのピアノ音楽の代表と見るのは、何か違うような気がしてならない。

(西原稔先生の連載をまとめたシューマンのピアノ作品全解説も取り寄せましたが、総論をざっと見る限りでは、19世紀前半のドイツのピアノ音楽に関する総論があって、その「実例」としてシューマンの個々の作品を語る、という社会科学風の構成では、シューマンがロマン主義文学を読みふけることで身につけていたであろうユーモアとアイロニーであるとか、最近の「感性学」で話題の感覚の錯乱であるとか、といった、シューマンの作品を読み解くときに欠かせないと思われるツールキットが、西原流音楽社会学には、うまく装着されていない印象を受けました。)

むしろ、19世紀ドイツのピアノを語るときの「代表的人物」は、夫ロベルトではなく妻クララのほうではないか。彼女が期を画したのであろう「女性と音楽」、女性にとってピアノを弾くとはどういうことであったのか、という話題を太い幹として立ててから、その夫である「作曲もする奇矯な音楽評論家」の話をする、という順序にすれば、ロベルト・シューマンのアイロニーや錯乱がどのような局面でどのように作動したのか、語りやすくなるのではないか?

小岩信治さんがロベルト・シューマンのイ短調の協奏曲をクララ・ヴィークの同じ調の協奏曲から説き起こしたのをヒントにして、シューマンのピアノ音楽全体をクララの音楽活動の「オマケ」として語ってみると、面白いのではなかろうか、と、考えたりしております。

(とはいえ、クララ・ヴィークが、アルゲリッチの登場以前と以後で何かが変わったのであろう20世紀の女性ピアニストや、ユジャ・ワンのように「21世紀の音楽の国」で活躍するアジア系女性ピアニストと、うまくつながるのか、つながらないのか、不勉強で、今の私にはものすごくおおざっぱな話しかできそうにないですが。)