子育て・滞納・批評 - 「願い」について

子育ては費用対効果の悪い贅沢なのか、そうではない、驚異的に費用対効果の良い投資かつ遊びなのだ、という話題が拡散しているのを見て、そこに、自らの意志でコントロールできない存在の行く末に対する「願い」の視点が欠けていることにぎょっとした。

私には子どもはいないが、父と母の子どもとして生まれてきたので、何かを「願われ」ながら育ったと認識している。父や母の「願い」を受け止めることもあるし、受け止めないこともあるし、受け止めようとして受け止められないこともあるし、彼らにとっては望外であったろうと思われる何かを(ひょっとすると)もたらすことがあったかもしれない(少しくらいは何かあっただろうとやや楽観している)。

「願い」の領域をばっさり切り捨てるのは、「他者を道具として扱う」(カント)の極北に見えるので、最も近い他者としての子どもについて、そういう議論が普通に流通するのか、とかなり驚いた。

(なお、「願い」の語は英語にしようとするとひとつの単語とうまく対応しない心の動きであるようで、からりと明るい善意の喜捨としての wish (I wish you a merry christmas!とか)なのかもしれないし、依頼を受けた側が事務的・機能的に諾否を表明できる request の場合もあるだろうし、hope と言うと未來へのヴィジョンが含意されていそうだし、desire と言うと、(抒情詩によくあるような)容易に手が届かぬものにそれでも手を伸ばす感じがする。とりあえずここでは、諸々ひっくるめた「願い」を丸ごと考えることにして先に進む。)

最近、日本音楽学会の会員への一斉配信メールには「会費納入のお願い」が毎回載っているが、先日、確定申告のために領収書を整理していたら、私は既に年度初めに所定の用紙で会費を振り込んでいることがわかった。振込用紙が届いたのですぐに払って、そのことをすっかり忘れていたので、学会からメールが来る度に、自分もまだ未払いでお願いされる側のひとりなのかと思い込んでいたが、違ったようだ。

誰が誰にいつどのような方法(・径路・メディア)で何を「願う」のか。

十把一絡げの「お願い」は、やっぱり、願いの作法として粗雑過ぎる気がします。

他方で、子育ての費用対効果という話題を眺めて連想するのは、ポケモンGOに最初から実装されている進化による「わざガチャ」や、あとで追加実装された「わざマシンスペシャル」だ。

ポケモンがどの「わざ」を覚えるか、スロットマシン風の確率が設定されているに過ぎないので、確率論的な費用対効果を話題にしてよさそうなシーンではあるけれど、それなりに手間をかけて捕獲・育成したこの個体の「わざ」がどうなるか、画面をタップするときは、つい、「お願い」のモードになってしまう(のは、たぶんわたくしだけではないと思う)。

確率的な操作なので、実際には、その1回がダメでも、しつこく何度もやれば、たいがい、欲しい「わざ」を得ることはできるし、それはわかっているわけですけどね。

よくわからないのだが、子育てを「遊び」(費用対効果を語りうるような)と形容するとき、子どもの行く末もまた、「わざガチャ」や「わざマシンスペシャル」のように、確率論的にどこかへ収束するとみなされているのだろうか?

だとしたら、それはクールでドライというより、あまりに楽天的な世界観ではなかろうかと思うのだが……。

それなりに気持ちを整えながらコンサートの開演を待つとき、あるいは、ロビーで顔見知りとその日のコンサートについて何かを語り合うとき、あるいは、演奏が終わってから感想を批評にまとめるとき、その都度、何らかの「願い」の構えがあるように思う。

開演前は、いい音楽でありますように、と願うし、ロビーで何かを語るときは、そこでの会話が私にとって、あるいは、話し相手にとって、公演をより楽しむことに役立てばよいのだが、と願いながら話題を選ぶし、批評の言葉は、届くかどうか定かではないけれど、読んだ人(編集者や演奏者・主催者を含む)に何かが届きますように、と願う。

蓮實重彦は観客席から選手に必死でサインを送る、と野球に喩えて語り、浅田彰は文化人類学風に「投げ瓶」、東浩紀はコミュニケーション論(脱コミュニケーション論?)風に「誤配」と言うが、いずれにせよ、「願い」のモードを取り去ったところで費用対効果や顧客満足度を語る風土は、ずいぶん野蛮なことだなあ、と思わざるを得ない。

費用対効果や顧客満足度を語るな、というのではないけれど。

ビジネスメールの定型には「よろしくお願いします」が乱発されるので、経済活動が「願い」と不可分であることは、むしろビジネスパーソンのほうがよくわかっているんじゃないかと思う。

学者が経済人めかして語る、というのが、タチが悪い。何かを「切断」しようとしているのだろうけれど、東アジアの言論空間には、近代化の過程で、実体ではない観念としての経済(まさしく「経済観念」)が亡霊のようにさまよっている感じがします。