事実と伝聞

官公庁(警察・消防など)の発表をもとに事件の概要を記述したり、主催者のプレスリリースをもとにイベントを紹介するのも、「伝聞のみによる報道」に分類されるだろう。

人間が把握するこの世界は、「伝聞」を取り去ったところに「事実」という直接体験が姿を現す、という風にはできていない。

新聞というメディアも、このような世界の構造の外部にあるわけではないし、でも、だからこそ「事実」という審級が立てられねばならないのだと思います。

かつては「事実」が実体として存立しており、情報社会の果てに「フェイク」がこれに取って代わった、と言ってみたり、世界の堕落・世も末、という通俗的な認識のもとで、報道は(かつてのように)「事実」に向き合え、とdisるのは、警世の言葉というより、現実逃避(もしくは「事実からの逃走」=事実逃避)だろうと思う。

世界の共同主観的存在構造 (岩波文庫)

世界の共同主観的存在構造 (岩波文庫)

共同主観、というような議論は、話の結論というより、とっかかりに過ぎなかったはずなのに。