ニワカ

私はニワカだから、と謙遜してコアでファナティックなファンたちのコミュニティの攻撃を予防する話法があるらしい。

FF外から失礼します、に似た処世術、という理解でいいのだろうか。

response と reaction

増田先生は、人間的な「応答」とリトマス試験紙が変色するのに似た「反応」の区別が肝要だと教え諭すが、これは、情報社会(ネットのコミュニケーション)の勘所というより、大衆社会論に先祖返りしている感じがある。

真田父子の「兵を塊と見てはならない。一人一人が思いを持っている」という山賊的な教訓が観客の共感を呼びつつ近代戦で敗北する、みたいな小劇場出身の三谷幸喜が好んで描くドラマの構図のメタ・ヴァージョンだろう。

で、増田先生ご自身の人生は、「反応」をエレガントにかわしてきたというより、人間的な「応答」をフィジカルもしくはケミカルな「反応」だと誤認して取りこぼす、みたいな誤爆でガタピシしてきたように見えるわけだが(そしてだからこそ、彼は21世紀を見通す情報社会の住人というより、20世紀大衆社会(=集団を塊 mass と見る世界観)への郷愁で生きる人に見えてしまうわけだが)、そこはつっこまないお約束になっているのであろうか。

形式論はfundamentalか?

このあたりのことは学生時代に随分考えたのでとても懐かしい気がするし、こういうことを一度徹底的に考えざるを得なかったのは80年代を学生として過ごした世代の巡り合わせだったのだろうと世代論的共感のようなものを覚えますが、

でも今は、そういう風に「自分たちの学生時代の苦労をそのまま語る」というのではダメなんじゃないかと、少なくとも私は思うようになった。

音楽形式論を独立したストーリーにまとめようとすると19世紀をスキップせざるを得ない、というのは、20世紀の「新音楽」が悪しき19世紀を捨てて、「アーリー・ミュージック」や「エスノミュージック」と「現代」を直結しようとする運動で、形式論がそのイデオロギーだったことの裏返しではないかと思う。「ニュー・ミュージコロジー」の論客たちの形式論への批判は、fundamentalというより、この20世紀的な世界観のなかでしか成り立たないなれあいのようなところがあって、それではもうダメなんじゃないかと思うのです。

19世紀をスキップせずに音楽の形式を語ろうとすると、言葉や舞踊やドラマや社交込みの、音楽が自律していない状況での音のありようが問題になる。でも、おそらく、そっちのほうがfundamentalなんだと思います。

ファンダメンタルな楽曲分析入門

ファンダメンタルな楽曲分析入門

(そういう風に論が進むのかと期待して買ったので(Amazonで間違えて2冊も注文してしまった……)、ちょっと残念でした。19世紀を丸ごと「なかったこと」にしないとストーリーが成立しない形式論は、「現代音楽」というムーヴメントに忠実に寄り添って音楽を語ろうとするとそうなるのだろうけれど、さすがに運動が末期症状を呈しているように思う。現実に依拠して理論を組み立てるのではなく、現実を否認して強引にねじ曲げて運動の綱領を維持しようとしていると言わざるを得ないのではないでしょうか。)

そしてこういうところに絡んでくるのが「フルート奏者(笑)」の奥泉光先生なのですねえ。帯で名前を見てびっくりしたよ。

Three little maids from school are we

「学校帰りの……」と訳すのは誤りで、「わたしたちは学校を出たばかりの(=若いピチピチの)3人のメイドなの」という意味になるらしい。

(と小谷野敦のtwitterで知った。だからオリジナルが「学校帰りの……」という意味だとみなしたうえで、「あたしたちはJKなの!」と演出した先のびわ湖ホール/新国のミカドは、ちょっと困ったプロダクションということになるようだ。)

ギルバート/サリバン「ミカド」の有名なナンバーで、その後のミュージカルの曲作りの規範になったとされますが、それはつまり、この三重唱が、ジークフェルド・フォーリーズのような若い女の子のお色気ありなレビューの原点なのではないか、ということですね。

オッフェンバックの「地獄のギャロップ」がムーラン・ルージュのフレンチ・カンカンになったことを考えても、オペレッタの熱狂にエロチシズムが含まれているのは否定しがたいと思う。

そしてアイドル興行というのは、何もニッポンの特産品ではなく、ブロードウェイ・ミュージカル立ち上げ時の有力なアイテムだったということにもなりそうだ。

このあたりを本格的に整理したら、「創られた日本の「萌え」神話」のカルスタができるんじゃないか。「萌え」もまた「演歌」と同じく日本の特産品ではないかもしれない。


Three Little Maids From School Are We

ミカドからオリエンタリズムを取り去って演出したら、ほぼミュージカルになりそうですね。

個人と集団

西欧は個人主義の社会で日本は集団主義の社会だ、という言い方はあまりされなくなったけれど、「西欧の政治家が当然のように学位を取得している」というのが本当なのだとしたら、それは、個人がスキルアップのために大学で何かに取り組む時期をもつ、ということで、一方、日本の学位がそういう風に意味づけられていないというのは、大学院改革によって、むしろ、学位が大学や学会といった組織・集団へのパスポートの意味合いを強めて集団主義を助長している、ということではないだろうか。

最近、コンサートの主催者が招待状の出欠の問い合わせに必ず「所属」なるものを書かせるようになりつつある。どうやらコンサートというものは個人が己の耳で聴く場ではなく、何らかの経済原理に従って、座席をしかるべき「団体」に割り当てるほうが合理的である、ということになっているらしい。

「音楽の国」に参入して卓越した個人を輝かせるのだ、という理念が、この島では、むしろ集団主義の体の良い口実になっているように見える。

追加:

日本人の気質は西洋人とは違う、というような雑な話をしたいわけではないので、とりあえず、タイトルの個人主義、集団主義から主義を外した。

削る人々

最近ようやく黄色いの(cp3000前後でデンとジムに構えているあれ)をどうにか突破できるようになって、先日は12人がかりで「伝説」を倒す、というのに参加してしまいましたが、ゲームで破格に強いラスボスを連打でコツコツ攻めるのを「削る」と言ったりするようですね。岩盤を掘り進むような感じでしょうか。

(ゲームは、事前の下準備とわざと根性が全部必要になるようなハードルを設定するものなのですね。そのような「総合力」は「人徳と見識を備えた人材」なる伝統的な観念とゲーム論的に等価である、とみなしていいのか、その判断は保留したいですけれど。)

ブラタモリの黒部ダム探訪を視ておりまして、ダム建設/資財輸送トンネルの掘削は、石原プロの映画やNHKプロジェクトXの題材になった「昭和」のシンボルみたいなものになったわけですが、関西交響楽団/大阪フィルをはじめとする関西のクラシック音楽は、安定した電力を得るためにこういう巨大なものを造った関西電力のサポートで成り立っている(いた)んだよなあ、と思いました。

海はすべての生命の故郷で、一方、山は、人が挑戦するターゲット、みたいな言い方ができるかもしれず、朝比奈隆がシュトラウスのアルプス交響曲を十八番にしていたのは、「昭和」らしいことだったのかもしれませんね。

黒部の太陽 [通常版] [Blu-ray]

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(発電事業は、「山」(ダム)の水力と「海」(タンカー輸送)の石油の火力の次に「げんしのちから」に手を出して大変なところへ来てしまっているわけですが。)

学位と人徳

ヨーロッパにおける学位もちの政治家の活躍を眺めていると、あたかも、学位授与制度が人徳と教養を備えた人材を選別認定する仕組みとして機能しているかのように見える。それにひきかえニッポンは……。

というつぶやきをみかけたが、円満な人格と幅広い教養を備えた人物にのみ学位を授与する、というような発想を止めちゃおう(そんなことをしていると60過ぎたジイサンしか学位をもらえないことになっちゃうから)というのが大学院改革だったわけで、その新制度化で学位を得て、高等教育機関での一定の仕事を得た者がそんなことを言いだすのは、アホちゃうか、という感じがする。

特定分野の専門家としてのスキルを認定するしくみとして学位制度があることは別にどの国でも変わるまい。付加的に、学位申請者が人徳と教養を備えた人物であればなるほど幸運なことではあるが、ヨーロッパがそうなっている(ように見える)としたら、それは、制度の問題ではなく、制度の周囲に幸運を引き当てる知恵が蓄積されている、ということだろう。

幸運を引き当てられるように制度を改革しよう、というのは、チート行為で手駒を豊かにしようとするゲーム脳の暴走だろう。

まあ、しかし、もうそんなことはどうでもいい。

たわごとを口走ることで人徳と教養がいまいちであることを日々露呈している人であっても、学位を得るスキルとそれに見合った仕事を割り当てられて、その仕事を十二分にこなせることは当然ありうるのだし、現実に、既に所定の仕事がその人物に割り当てられており、あと5年か10年は頑張ってもらわないと他に代わりはいないのだから、仕事をちゃんとやってくれたらそれでいいよ。

おそらく、幸運を引き当てる知恵がこの島に蓄積するとしたら、それは今すぐではなく、この先ちょっとずつのことで、わたしやあなたが引退した先の話になるのでしょう。

「かつてこの島には、学位というものに奇妙な付加価値を期待する者たちがいた」

というのは、あとで振り返って憫笑されるエピソードなのでしょう。

リセット

言葉ではなんとでもいえるが、国政はファミコンと違ってリセットを実装してはいないのだから、別にファミコンは勝利などしていない。

ペーリ/カッチーニ「エウリディーチェ」の日本での上演

学生時代、国立音大の高野先生の集中講義が阪大であって、そのときに、先生が国立音大で「エウリディーチェ」を(たぶん演奏会形式で)上演したときのビデオを見せていただきましたが、

記録としては、ペーリ「エウリディーチェ」は1970年の東京室内歌劇場(第一生命ホール)が日本初演で、一方、カッチーニ版「エウリディーチェ」は2016年のアントネッロによる上演が日本初演

ということでいいのでしょうか。

1600年フィレンツェの「エウリディーチェ」は、ペーリ作曲分とカッチーニ作曲分を混ぜて上演されて、ペーリ版、カッチーニ版は、おそらく、それぞれがのちに出版した楽譜にもとづいているのでしょうか、どちらも1600年フィレンツェでの上演を再現したわけではない(再現できるだけの史料情報が揃っているのか、ということも、私は専門外でよくわかっていませんが)、と理解したのですが、それで正しいのかどうか。

ネットを検索すると、アントネッロが2016年の上演を「最古のオペラ譜による上演」という微妙な言い回しで宣伝しているのが見つかって、古楽運動も、そういう風に、自分たちの上演がいかに貴重なものであるか、というアピール、プレゼン、書類上の体裁を最優先するご時世なのだなあとウンザリするのですけれど。

いずれにせよ、ペーリ/カッチーニの「エウリディーチェ」のことを思えば、「白狐の湯」の音楽様式は、地味でオペラとしては成功していない、と簡単に切り捨てられないと思うんですよね。

ペーリ/カッチーニの「エウリディーチェ」を舞台で誰かが決定的な形で上演して欲しいです。各地で当然ながら色々な試みがあるはずで、どうして、日本でできないのか、と思うのだが。

客演指揮者たち

国際的には9月から10月が新しい音楽シーズンのスタートなのだし、9月末のオーケストラの定期演奏会は、やはり、常任指揮者で開幕を飾るのが本来の姿なのだろうと思う。

7月にインバルのマーラー、9月にスダーンのシューベルト、10月にエリシュカのドヴォルザークというのは、国内の他のオーケストラでかつて看板を張った人たちの十八番の演目なのだから、品揃えが悪いわけではないけれど、フルシャとかウルバンスキとか、大植英次時代に来ていた生きの良い若手指揮者たちのほうが新鮮でスリリングでアクチャルに思えてしまうのは否めない。

(こうした若手の末席に加わるようにして、定期演奏会ではないけれど、山田和樹が、かつては大阪フィルと数回共演したわけですよね。)

資金源を絞られると音楽的なチャレンジが難しくなる。そのことが、客演指揮者のラインナップにあらわれているような気がします。

(スダーンは、リズムの扱いやサウンドへのこだわりにそれ以前の世代とは違う主張があり、ピリオド・アプローチへ向かう時代の流れをキャッチアップして地位を築いたのだろうとは思うけれど、ハーモニー、音楽の土台を組み立てる力が弱い指揮者のような気がします。音楽家としての基礎体力で上回る若手が既に台頭している今聴くと、一時代前の人だなあと思ってしまう。

ベルリン・フィルのラトルからペトレンコへの交替も、一点豪華主義ではない総合力を誰よりも楽員自身が望んでいる、そういう時代になったということだと思う。情報社会という名の宣伝スタッフによる書類上の辻褄合わせ(「子ども」が有力強力な市場として「発見」されてオトナたちが自信を失う80年代以前にはそういうのが「子供だまし」と呼ばれていた)を実力で正面突破しようとしたら、そういう選択になりますよね。)