受肉の作法

メシアンのアッシジはイエスの受苦を真の奇跡と位置づけるカトリックの信仰があって、色彩や鳥や愛は、ムシカという観念・抽象の受肉を実践したんだなとわかってくる。

三輪真弘のモノオペラの長ゼリフは、ほぼムシカの観念を語っていて、やはりこの人も池内フランス派に制圧された時代の東京芸大を背負っているんだなあ、と思わざるを得ないわけだが、

14歳の天才、という少年ジャンプ的、サブカル的な主人公の声のリアルタイムのフォルマント解析によるポリフォニーは、現代のムシカというべき計算機情報の神(コンピュータを神と崇めるのはあまりにもスペースオデッセイ的、60年代SF的な意識高い系エリートおじさんの発想と思えなくもないけれど)の受肉と言えるのだろうか。これは、メシアン的受肉への対案なのか、それとも受肉の不可能性の告発、シニカルな断念なのか。

個人様式の完成形ではあるとは思うが、アクチュアルかと言われると、むしろ2017年の舞台としては、アナクロになりかけているような気がしました。

あるいは、アナクロニズムのアクチュアリティ、という池内/メシアンへの歩み、だったりするのだろうか。

塔の中の音楽

梅田の高い塔の中のホールが主催する意識高い系の演奏会に行くと、かなりの確率で元阪大院生たちが昆虫のように群れていて、なかなかに不快である。

ドイツのカンタータ交響曲の曲目解説

1994年末に当時の音楽監督井上道義が指揮した京響の第九の曲目解説が、わたくしの原稿料をいただくプロオケ曲目解説の初仕事でした。まだ大学院生で非常勤の仕事をいただいた最初の年でもあり、京都人の岡田暁生や伊東信宏より先に京響から声をかけていただいたのは、ささやかに誇らしかったものです。

(いちおう、この仕事が翌年から京都新聞で批評を書くことにつながった、という流れになります。)

その後、井上道義は大阪フィルの首席指揮者になったわけだが、大阪フィルでは、初代音楽監督の朝比奈隆が亡くなった当日および翌日2001年12月29、30日の若杉弘が指揮した「第九の夕べ」の解説を、(もちろんそういう特別な日になるとは思うことなく)書かせていただく巡り合わせになった。

朝比奈と井上の間をつなぐ大植英次は第九を恒例行事にするのを嫌って、特別な意味のあるときしか第九を振らなかったが、2011年末のシンフォニーホールでの第九は、2011/12年の大植英次音楽監督ラストイヤーの流れで第九の解説も書かせていただいたので、結果的に、朝比奈が振れなかった死の年、大植のラストイヤー(同時に朝比奈隆没後10年でNHK-FMの生中継つき)、そして道義の大フィル指揮者就任前、という微妙な距離感で、3人の大フィル指揮者の第九演奏会の解説を書いたことになるようです。

ただし、大植英次のカンタータ交響曲というと、彼がフェスティバルホール改修中の2010年にマーラーの4番、2011年にマーラーの3番を新ホールへのカウントダウンとして「大阪国際フェスティバル」の看板で指揮した演奏会の解説を書いたことのほうが、私としては思い入れが強い。

京響でも大阪フィルでも、どういうわけか、ブルックナーの解説は回ってくるのにマーラーを解説する機会はこれまであまりない。特にマーラーの3番は、我ながらうまく書けたと思っております。

で、2013年には、新しいフェスティバルホールができて、国際フェスティバルとして大植英次・大阪フィルがマーラーの2番を演奏したわけだが、この演奏会の解説は回ってこなかった。

こっちは、2番まで書いてカウントダウンが完結すると思って楽しみにしていたのだが、どうやら、それまでの経緯を知らない朝日新聞東京本社が国際フェスを仕切ることになって、東京本社もしくはその下請けの編集プロがプログラムを作ったらしかった。

大きな会社にありがちな気の利かないやり方だと当時随分を腹を立てたし、この演奏会は、直前まで本番を聴くことができるかどうかすらよくわからない状態で、本当にドタバタしていた。

以来、私は、新体制の大阪国際フェスティバルの運営を信用していないし、この音楽祭は許せん!と思って今日に至っております。

ということで、わたくしは、気の利かない朝日新聞東京本社のせいで、いまだに、ドイツのカンタータ交響曲の要の位置を占めるマーラー「復活」の解説を書く機会がないまま今日に至っておりますが、

「第九」については、この年末の尾高忠明第三代音楽監督就任プレ企画とも言えそうな大阪フィル恒例「第9の夕べ」に寄稿させていただくべく準備中でございます。

ヘンデル「メサイア」からハイドン「天地創造」そしてベートーヴェン「第九」というカンタータ交響曲誕生の経緯については、大阪音大の授業で昨年から何度かお話する機会があって、メンデルスゾーン「讃歌」についても同じく音大の授業で今年取り上げたので、あとは、マーラー「復活」の位置を見定めれば、ほぼ、ドイツのカンタータ交響曲の系譜を押さえたことになると思いますが、さてどうなることやら。

カンタータ交響曲という祝祭的なジャンルは、こっちから無理矢理売り込んで書く、というのは違う気がしますので、いつか「機が熟する」ことになればいいけれども、先のことはわからないですからね。

(ちなみに、大日本帝国が誇る国産カンタータ「海道東征」は、産経新聞主催で来年2月に3度目の大阪公演があるようですね。こちらは、ありがたいことに、初回からずっとわたくしの解説を掲載していただいております。)

19世紀後半の知性:音楽的教養(傾聴)と様式批判

小岩信治『ピアノ協奏曲の誕生』を今週も学生さんと一緒に読む。

そして気がついたのだが、

小岩さんは、フンメルがベートーヴェンのライヴァルであり、a-mollのピアノ協奏曲の終楽章の主題(ソ#ラ ミ in a-moll)がベートーヴェンのc-mollの協奏曲の終楽章の主題(ソ ラb シ シ シ ド)を踏まえているのではないかと指摘するときには、音型・音程構造の類似に着目している一方で、通常ベートーヴェンの影響下にあるとされるブラームスのピアノ協奏曲第1番が実は「モーツァルト的」に構成されているのではないかと指摘するときには、ブラームスの協奏曲の「第九」風の身振りとサウンド(執拗に持続するd音上の堅苦しい分散和音主題)の「類似」に惑わされることなく、

(1) 第1楽章の主題が単一のモチーフを発展させる(これを小岩は「ベートーヴェン的」とみなす)のではなく複数のモチーフ・楽想の組み合わせであること(これを小岩は「モーツァルト的」、具体的にはモーツァルトのc-moll協奏曲を踏まえた手法とみなす)
(2) 第3楽章のソナタ風ロンド(R-C1-R-C2-R-C1-R)で、クプレ1(C1)の再現が長調ではなく短調(d-moll)であり、最後のルフラン=コーダの長調(D-dur)との間で「影から光へ」のコントラストを演出していること(これを小岩はモーツァルトのd-moll協奏曲終楽章を踏まえた手法とみなす)

この2点を指摘している。

何が起きているかというと、19世紀初頭の音楽では「音型の類似」に着目して、19世紀後半の音楽では「共通の構造」に着目している。

ひとつの方法論で書物や論文が統一されているべきである、と考える教条的な人(音楽学会とかにはこういう人が結構いる)ならば、これを方法の不統一と言い募るかも知れないけれど、そうではなく、19世紀初頭の音楽と19世紀後半の音楽では、扱い方・聴き方が違っていいのだ、ということじゃないかと思う。

そもそも、ブラームスの協奏曲の分析は、ここではじめてコンチェルトが「傾聴」されるようになったことを論証する文脈に置かれている。

どういうことかというと、(もしかしたら小岩さんは自覚することなく実践してしまっただけかもしれないけれど)「傾聴」という作法が、ほぼ同時期19世紀後半から音楽論の主流になる様式史・様式批判の作法と表裏一体ではないか、ということだと思う。

「こっちの曲と、あっちの曲はよく似ている」ということを言い募るだけでは、音楽的教養とは言えないのではないか、ということです。

一見無縁に見えるところに「共通の形式/構造」を見ようとする態度は、両生類とは虫類、ほ乳類とそれ以外を見た目の異同とは異なる水準で区別する生物学を思わせる。おそらく、芸術の様式批判(音楽の様式論は美術の様式論の影響下で発展した)と生物学は、同じ時代の「知」なのだと思う。

教養が没落した、とか言い募るのはいいけれど、そこで没落した教養がどのような姿をしているのか、ということが、少なくとも音楽(や芸術)の議論では、あまり問題にされないまま今日に至っている気がします。(例えば渡辺裕とその一派は、「傾聴」を目の敵にするくせに様式批判の素養も力量もない人たちだと思う。様式批判という態度を抜きにして、いったいどうやってハンスリックの「形式」概念やアドルノの「素材」概念を理解するのか、ということでもあるし。)

19世紀をスキップしたり、いいかげんに扱うと、20世紀を語る視座まで一緒におかしくなる一例かもしれない。

小岩さんは、もうちょっと書き込んでくれないと一般読者に伝わりづらいかもしれないけれど、やっぱり、音楽の取り扱いがちゃんとした人ですね。

フォーレのオルガン、ドビュッシーのガムラン、ラヴェルのクラヴサン

ホルチャンスキーという学者が、ピアノという楽器には「オリジナル・トーン」の追求と並行して、他の楽器の「模倣」で表現の可能性を拡張しようとする傾向がある、と指摘したのは、さしあたり、ベートーヴェンに影響を与えたと思われるクレメンティなどロンドン派の意義を再評価するための仮説だったが、「オリジナル・トーンと模倣」という論点の射程ははるかに長いかもしれない。

ドイツの音楽は、19世紀後半から20世紀前半に不協和の解放、発展的変奏の徹底といった理論的・作曲技法的な成果をあげたが、こうした音楽のサウンドは幅広い聴衆の支持を得ているとは言えない。「特殊音楽的な論理」という絶対音楽風の理念は、ニュートラルで無色透明の「オリジナル・トーン」を磨く発想と癒着して、先細りになったのではないかと思う。

オルガンの伝統に依拠したフォーレ(やメシアン)、ガムランのような東洋・非西洋に待避したドビュッシー(やプーランクをはじめとするゲイの音楽家たち)、チェンバロ/クラヴサン風の浅いタッチで点描風のスーパーリアリズムを実現するラヴェルは、ピアノでちゃっかり他の楽器を模倣して(もしくは他の楽器のノウハウを盗んで)生き延びたと見ることができそうに思う。

20世紀のピアノ音楽の「拡散」(小岩信治)は、「模倣」(もしくは「盗み」)の肯定という半ば帝国主義風で、半ばポストモダン風な衝動に駆動されていたのではないかと、鍵盤音楽史でフランス音楽のことを説明しながら思う今日この頃です。

不死のドラマの最終回

なるほど、あのドラマでまだ患者役をやっていないのは彼女だけだが、そこはストーリーの軸にはならないだろう、という感じが予告編に漂っていますね。このシリーズは、毎回、2つか3つの話を重ねながら進むし、初回から現在まで、医療ドラマなのに決して人が死なない。

「私失敗しないので」とは、すなわち、登場人物が決して死なない、ということだと思う。

(そういえば、ポケモンGOもモンスターの「死」を実装していないですよね。「博士におくる」とそのモンスターはトレーナーの手元から消える(実質的には「Delete」機能だ)が、手元にあるモンスターの「げんき」は、何度ゼロになってもアイテムで回復できる。)

実際の最終回は、相棒とかに似たテレ朝の作法で正面突破しましたね。しかも、ここで終わることもできるし、事情が許せばさらに続編も作れそうだし。

  • 医療の本分を忘れた白い巨塔=放送の本分を忘れた放送局(クライマックスの手術のくだりは報道ステーションの時間帯で話を切り刻んでCM連打(笑))
  • 患者を絶対に見捨てないオペができるのはあなただけ=看板ドラマで主役を張って「絶対失敗しない」のは米倉だけ=どうすれば彼女がオペをやってくれるか/続編制作をOKしてくれるか、あらゆる手を尽くして周囲の人たちが彼女を担ぎ出す!

ということですね。

妻は音楽家 - 戦後日本の音楽一家の構造

尾高尚忠が1951年に36歳で急逝(N響が忙しすぎて過労で倒れたように見える)したとき、次男の忠明は1947年生まれだから3歳か4歳だったことになる。次の大阪フィルの音楽監督に決まっている指揮者で、兄は作曲家だ。

私の印象では、尾高家の家族構成が辻井市太郎家とかぶる。尾高尚忠が戦中戦後の大変な時代のN響を指揮者として支えたように、辻井市太郎はクラリネット奏者から指揮者・楽団長になって、大阪市音楽隊(大阪市音楽団)が野外演奏主体の軍楽隊スタイルから戦後のコンサートバンドに脱皮する舵取りをした。で、兄は作曲家、弟は吹奏楽指揮者になった。

戦後の「民主化」された日本に、洋楽を家業とする一家が厳然・公然と存在する。尾高家と辻井家は、東と西の戦後音楽一族のシンボルに見える。

(尾高家は、尾高尚忠の上の代まで遡ると、柴田南雄の家に似た、ずっと話が大きくなりそうなエリート一族でもあるけれど。)

辻井市太郎は長生きして、長男英世の吹奏楽作品を大阪市音楽団で初演したこともある。まるで、朝比奈隆が息子千足をクラリネット奏者/指揮者として「七光り」で後押ししたのと同じようなところがあるわけだが、尾高家では、尚忠の妻が音楽家だったらしいとウィキペディアには書いてある。

大澤壽人や大栗裕の遺族から音楽家は出ていないけれど、尾高家から音楽家が出た。

音楽家が惜しまれつつ早くに亡くなった場合、そのパートナーが音楽家かどうか、というのが、死後の顕彰や引継ぎで鍵を握る印象がある。どちらが良いか悪いか、という話ではなく、戦後の日本では、音楽が「家業」になっていくかどうか、音楽家のパートナーの振る舞いがキーポイントになったように見える。

そんなの当たり前じゃないか、と言われるかもしれないが、そうでもない。

オペラ作曲家のウェーバーは妻がプリマ・ドンナだったが、子どもたちから音楽家は出ていない。(妻カロリーネ自身は、ドレスデンで長生きして、のちにマイヤベーアやマーラーにウェーバーの未完のオペラの補作を依頼するなど、音楽の世界とずっとつながっていたのに、である。)シューマン家も、クララがブラームスと一緒に夫ロベルトの没後、その顕彰活動に努めたけれど、たしか、子どもたちは音楽家にはなっていないですよね。

ワーグナー家のように、19世紀も終わりになってから、妻・子・孫で劇場を運営するのみならず、演出家として遺族が舞台に直接かかわるのは、ドイツでも随分特殊なことだったように思えます。バイロイトの劇場と巨大な作品群を「遺産」として継承してしまったから、ということが大きいとは思いますが、劇場の運営方法がこういうことになったのは、ひょっとすると、リヒャルトの妻コジマがマリー・ダグー伯爵夫人とリストの娘でベルリンのビューロー伯爵家に預けられた貴族の子だったせいではないか。

ワーグナーは「劇場の王」になった(バイエルン国王やプロイセン皇帝をひざまずかせるような)と岡田暁生は言うが、それは、王様とその家名を継承する貴族の作法を知る女性が彼のパートナーだったからじゃないかと思うのです。

こうしたドイツの19世紀(教養市民の時代と言われるけれど、なかには貴族的な遺産継承をする家もあったわけだ)のケースを踏まえたときに、それじゃあ、戦後日本はどういう社会だったことになるのか。

作曲家のパートナーが、その作曲家の死後どのように振る舞って、遺族はどういう人生を送ったか。「そんなことは、作品そのものと無関係なのぞき見趣味だ」と言われるかもしれないが、戦後日本の文化としての音楽(最近の流行り言葉を使えば、ミュージッキング=動詞としての音楽)の一面を見る恰好のトピックではないかと私は思う。

(ちなみに、息子を音楽家に育てた朝比奈隆のパートナーも音楽家、元大阪音楽大学教授のピアニストですね。)

大阪にオーケストラはいくつあるのか?

「4大オーケストラの饗宴」という大阪国際フェスティバルの企画は来年の4回目で一旦完結するそうだが、大阪のプロオケは4つだ、ということでいいのかどうか。

読売日本交響楽団が数年前から大阪で年3回「大阪定期」として東京の定期演奏会と同じプログラムで公演していて、先のびわ湖ホールでの「アッシジの聖フランシス」(こちらはホールと共同主催の特別公演という位置づけらしい)の圧倒的な成果も含めて考えると、大阪で定期的に公演している一番上手なオーケストラは読響だ、と言われるようになる日が来ても不思議はない気がします。(そうなると、大阪で読響の公演を定期的に聴きたい人が出てきて、「大阪定期会員」のような制度ができるようになるかもしれない。)

あと、広島交響楽団が今年だけのことでなく今後大阪でも定期的に演奏会をしたっていいかもしれない。関西から広島は新幹線でぎりぎり日帰り可能ですから、内容が良ければ、大阪公演だけでなく、関西から広島へオケを聴きに行く人が出てくるかもしれない。

そう考えると、現状で既に、大阪にオーケストラは6つあると言えるかもしれない。

(さらに山形交響楽団も、少なくとも飯森範親が大阪と山形の両方にポストを持っている間は大阪公演を続けるでしょうから、これを入れると7つですね。)

読響は、東京でどういう位置づけなのか私にははっきりしたことはわかりませんが、少なくとも「大阪の7つオケ」のなかでは圧倒的にうまいし、広響や山形響もいいところへ行きそう。選曲や演奏スタイルに惹かれて、「大阪の四大オケ」よりこっちを聴きたいというお客さんが、現状でもいるかもしれない。

「失われた20年」なデフレ・マインドの時代には、「大阪にオケが4つあるのは多すぎる、統合しろ」とか言われていましたが、むしろ、本当に上手だったり、向上心があったり、はっきりした個性をもっていたりする団体を加えて、いわばインフレ誘導気味にオケの数を増やすほうが、「オーケストラ地図」を組み替えるには有効な感触がありますね。

既にオペラのほうは、びわ湖ホールが東京どころか欧州の劇場やスタッフと提携して色々な企画を打ち出していますし、オケは4つ、「四大オーケストラ」という呼称を使っていられる状況ではなくなりつつあるのだとしたら、「四大オーケストラ」企画に一区切りを付けるのは、ちょうどいい頃合いかもしれませんね。

(その大阪国際フェスティバルは、ホールのリニューアル後は、ほぼ2年に一度のペースで東京都交響楽団も招聘していますしね。)

ただし、こういう状況は「新しい事態」かというとそうでもなくて、大阪フィルができるかできないかの頃までは、いや、できたあと70年代くらいまでは、オケの自主公演だったり、労音やホールの招聘事業だったり、オペラ団体にくっついて来たりで、結構、関東のオーケストラが関西でも公演していたことが記録を見るとわかります。

大阪のオーケストラとは大阪に本拠をおいて、関西でのみ活動するオーケストラである、というような考え方が成り立った時代(1970年代から2000年代まで)のほうが、むしろ特殊な時期だったのかもしれません。

逆に朝比奈さんは、定期的に大阪フィル東京定期演奏会をやっていましたしね。

で、音楽雑誌に「関西の演奏会」コーナーがあって、オケの定期なんかが全部レビューされて、ほぼそれ(東京の雑誌のいわば通信員的な仕事)をやる関西在住音楽評論家がいたのは、まさにその1970年代から2000年代のことであって、割とはっきり、このあたりもいま組み変わりつつあるように見えますね。

(関西では、関西のコンサートと音楽事情についでだけ詳しいおじいちゃんがいて、その人たちが「音楽評論家」を名乗っている、みたいな状況は、ほぼ命脈が尽きていると思う。おじいちゃんたちは、それがおじいちゃんのおじいちゃんたる所以ですが、なかなか自分たちの活動の意味を定義しなおさなければならない、みたいなことには気付かないみたいですけどね。)

17、18世紀のオペラにおける宮廷歌手と劇場歌手と喜劇役者

今年のオペラの歴史の授業は、水谷彰良『プリマ・ドンナの歴史』を参考にしながら、歌手のプロフィールと作品の特徴を付き合わせることでオペラの歴史を考え直そうとしております。

たとえば、フィレンツェのカメラータのエウリディーチェではローマから来た宮廷歌手(貴族のお抱え)が歌っているけれど、その後ヴェネツィアで誕生することになる商業劇場には、当初は宮廷歌手は当然ながら出ていない。たぶん、この段階では、同じオペラといっても、宮廷歌手たちと商業劇場の歌手たちでは、唱法等がずいぶん違っていたんじゃないかと思う。

宮廷歌手が劇場で庶民の前に姿をさらしたり、逆に、劇場で成功した歌手がそれを足がかりに各地の宮廷で地位を得るのは17世紀終わり頃、ヘンデルやスカルラッティの時代以後のことであるようです。

(おそらく、そのように劇場と宮廷で人材が交流するようになったことが、作曲家=宮廷のエリートと女性歌手=劇場たたき上げの間に男女関係のスキャンダルが発生する温床になったのでしょう。ヴィヴァルディが司祭なのに女性(プリマ)と同棲していると批判された話が有名ですね。宮廷の作曲家たちは、マイ・フェアレディさながらにこれと見込んだ女性を手取り足取り指導してプリマ・ドンナを育てなければならなかったし、劇場と宮廷の交流が実現してはじめて、そういう環境が整ったんだと思います。そういえば、マイ・フェアレディの元ネタになったルソーのピグマリオンは18世紀のドラマですしね。)

そして誰が歌ったか、というプロフィールを見ていくと、オペラ・ブッファをセリアと並ぶ18世紀宮廷オペラの二大ジャンルと見るのはちょっと違うんじゃないか、という気がしてきますね。

ブッファの発祥であるナポリのインテルメッツォは、要するに、コメディア・デラルテ風に定型化された若い女性と老人の喜劇で、女性を庇護して育てる話が流行るのは、なんとなくバックステージでの台本作家や作曲家と主演歌手の関係を思わせますが、そういう出し物にスターは出なかったわけですよね。(神なき現世のドラマだから、オペラ・ブッファにはカストラートの役もないですし。)

そしてその後も、オペラ・ブッファ歌手がスターになった形跡はなく、モーツァルトの場合も、水谷彰良さんがざっくり言ってしまっていますが、ヨーゼフII世肝いりのウィーンのオペラ・ブッファ団は大したキャリアのない人たちばかりで「レヴェルが低かった」(と思われる)。モーツァルトの作品が異彩を放つのは、小物歌手(なかには歌手として訓練されていなかったり、その後役者に転向したヒトもいるみたい)のチームワークで人間臭いドラマが展開するからで、オペラ・ブッファとはそういうものだったように思われます。

セリアとブッファが二大ジャンルと言うようになったのは、ひょっとすると、モーツァルトがリバイバルした第二次世界大戦後のことなのではないか。

オペラ・セリアは17世紀初めのモノディ・オペラや商業劇場の流れを汲む出し物で、19世紀のメロドラマ的なオペラもセリアを継承しつつ作り替えたところがあるわけだから、オペラ・セリアはオペラの誕生から現在まで、いちおう歴史が連続しているけれど、オペラ・ブッファはそんな風に19世紀につながってはいないですよね。辛うじてドニゼッティまでは続くけれど、オペラ・コミック/ジング・シュピールやオペレッタは別の所から出てきている。

セリアとブッファの関係を、能と狂言のようなもの、と言ったりすることがありますが、出演歌手たちに着目すると、むしろ、舞台役者とテレビ・タレントくらいに格や歌唱に違いがあったんじゃないかという気がします。

ペダル・トレモロ・高音域 - グラントペラ時代のピアノの技術と効果

小岩信治「ピアノ協奏曲の誕生」のリトルフの章を学生さんと読んでいて、学生がこの章の筋立てをつかみにくそうにしていたので、一緒に考えているうちに、そういうことかと思いついた。

この章はピアノの改良が協奏曲のピアノ書法を変えて、その到達点として、シンフォニックな協奏曲というアイデアが生まれる、という立論になっている。そしてその前提になるのは、音楽の新しい効果は「作者の意図」や「表現意欲」によって生み出されるのではなく、技術革新の結果に過ぎないのではないか、というプラグマティックな態度(おそらく渡辺裕「音楽機械劇場」あたりに触発されたアイデア)ではないかと思う。

でも、もしそのようなプラグマティズムを採用するとしても、小岩さんの説明では問題の切り分けが十分ではないかもしれない気がしてきたのです。

小岩信治が具体的に取り上げる技術革新は、(1) イギリス式ピアノの重い音 (2) ダブル・エスケープメント・システム (3) 金属フレームの採用による高音域の充実の3つで、(1)がベートーヴェンの中期以後のサウンドを生み出し、(2)がアルカンのすさまじい同音連打を可能にして、(3) がエルツのきらびやかなコンチェルトの前提になったとされている。

そしてたしかに、ピアノの改良の(いわゆる進歩史観的な)説明では、

イギリス式ピアノ + ダブル・エスケープメント + 金属フレーム = 現代のピアノ

という足し算もしくはかけ算が成り立つことになっているけれど、ピアノ音楽・ピアノ書法の歴史的展開は、必ずしもこのような足し算orかけ算で「進歩」したとは思えない。

中期以後のベートーヴェン + アルカン + エルツ = シンフォニックなピアノ

とはならないと思うのです。

(1) イギリス式ピアノとベートーヴェン

ベートーヴェンの中期のピアノの目立つ特徴として、後世ではありえない「ペダルの踏みっぱなし」が月光やワルトシュタインで指定されていて、これは、弦の張りが安定して、ペダルを長く踏み続けたときに弦が振動しつづけることを前提しているのだから、イギリス式ピアノに触発された新技法だと思うけれど、それじゃあ、この技法がどのような効果をもたらすかというと、「輪郭のぼやけた遠くの響き」だと思う。月光ソナタは、第1楽章のもやのかかったサウンドのあとに、朝の目覚めのように爽やかなメヌエットが来て、終楽章の、あらゆる音型の輪郭を耳にたたき込む嵐(スタッカートで刻む音楽)で終わる。ワルトシュタインの終楽章は、まるで遠くから次第に何かが近づいてくるように、同じ旋律が3回、次第に強く大きな音で繰り返される。ベートーヴェンは、ペダルによる音の重なりを、ちょうど遠近法絵画で遠くの景色をぼかすような、音の遠さ/近さの演出に組み込んでいる。

イギリス式ピアノによって、ベートーヴェンは、音の遠近を発見したのだと思います。

(2) 19世紀の音楽におけるトレモロ

同音連打によるトレモロはピアノの専売特許ではなく、ギターやヴァイオリンでも使われる。でも、それじゃあピアノがギターやヴァイオリンを模倣するためにトレモロ・同音連打を使用するかというと、それは、むしろ例外的な特殊事例だと思う。(リストがパガニーニ練習曲でヴァイオリンのトレモロを模倣する、とか、バラキエフが、サントゥールか何か中東あたりの民俗楽器のトレモロをイスラメイで模倣する、とか。)

そして、そもそもギターやヴァイオリンがトレモロを多用するのは、たぶん19世紀になってからだと思う。(マンドリンも、例えばヴィヴァルディのマンドリン作品にはトレモロは出て来ない。)ピアノが他の楽器の奏法を模倣してトレモロで弾くのではなく、トレモロという技法とその効果そのものが19世紀に「発見」されたのだと思います。

ひとつは、ヴィブラートに似た音の持続に特別なニュアンスを加えたい、持続音に着色したいということだろうと思います。18世紀までの音の句読点・アーティキュレーションで音楽を作るやり方にかわって、長く伸びるレガートが好まれた時代なので、持続音がオルガンのように一定の音色・音量で伸びる、というのでは具合が悪かったのでしょう。

そしてもうひとつは、既にそれ以前のオペラの嵐の場面などの例もあるけれど、ざわめき・ゆらめきの効果は、ロマン主義時代にますます需要が高まって、何かというとトレモロで演奏されるようになったように見えます。(ワーグナーの音楽劇やブルックナーの交響曲はトレモロだらけですよね。)

(3) 高音域の燦めき

で、高音域の効果は、サロンのピアノの定番になっていくのでいちいち説明するまでもないように思いますが、メロディーの回りに香水を振りまいたり、舞台に金粉を降らせるのに似た手法ですよね。

そしてこのように考えていくと、

ペダルによる音の遠近 + トレモロによる持続音の陰影 + 高音域の燦めき

この足し算orかけ算の結果として弾き出される音楽は、20世紀への道ではなく、同時代の劇場、パノラマ式の背景で目を楽しませて、プリマ、プリモの声で耳を楽しませて、香水やワインの香りが漂っていたであろう客席が華やいでいるグラントペラに似た何かだと思うのです。

おそらく、ピアノの「技術革新」なるものは、こうした19世紀前半の社交界の環境、そこに最適化していたであろうピアノの諸技術・諸効果を、19世紀後半以後に語り直した後付けの物語なのだと思う。そしてそういう立論にしておいたほうが、小岩さんのピアノ協奏曲史も、次のリストやブラームスへのつながりがスムーズになるんじゃないかと思います。

(ただしそうすると、リトルフの「交響曲 - 協奏曲」という、まるでオール・イン・ワン家電製品風にひとつの作品で二倍お得な音楽を書く発想はどこから来たのか、それと、グラントペラ時代のピアノという話がどうつながるのか、もうひとつ、考えないといけないことが出てきそうですが。

でも、ショパンの「ポロネーズ - 幻想曲」(いわゆる幻想ポロネーズ)のように、ひとつの作品がジャンルAであり同時にジャンルBでもある状態を目指す傾向は、19世紀に確かにありますよね。

あれは、おそらく統合・融合・弁証法とは違うと思う。Aが同時にBであってもいいじゃないか、二重国籍状態をそのまま肯定して欲しい、という欲動のような気がします。なぜ19世紀の都市でそういう欲動が顕在化したのか、そこはよくわかりませんが。)