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新日本音楽の戦後復興:長唄交響曲の1960年再演について

山田耕筰 長唄交響曲《鶴亀》

山田耕筰 長唄交響曲《鶴亀》

  • 作者: 山田耕筰,日本楽劇協会,久松義恭,クラフトーン
  • 出版社/メーカー: 東京ハッスルコピー
  • 発売日: 2016/07/20
  • メディア: 楽譜
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山田耕筰の長唄交響曲「鶴亀」のポケットスコアが届いた。

既にナクソスのCD等があるけれど、巻末の解説で、戦災を逃れたパート譜からスコアを再構成して、山田耕筰の晩年1960年に再演されたことを知る。歌劇「黒船」が大阪国際フェスティバルで再演された年で、しかも、このときの指揮が森正だったらしい(国際フェスの黒船の指揮は朝比奈隆)。翌年、芸術祭に朝日放送が出品した大栗裕「雲水讃」の放送初演を指揮したのも森正なので、とても他人事とは思えない。

ただし、この関連を解きほぐすには、何段階かの手続きが要りそうだ。

山田耕筰:長唄交響曲「鶴亀」/交響曲「明治頌歌」/舞踊交響曲「マグダラのマリア」

山田耕筰:長唄交響曲「鶴亀」/交響曲「明治頌歌」/舞踊交響曲「マグダラのマリア」

さしあたり、1961年に「雲水讃」を指揮したとき、森正には、邦楽器と西洋管弦楽を組み合わせたり、日本の民謡や近世邦楽を管弦楽に編曲したりするときの具体的な諸問題について、一定の経験があったことになる。

大栗裕の作品は作曲者自身が芸能を五線に採譜して管弦楽に編曲しているので、長唄交響曲のように、邦楽器の演奏を把握するために既存の演奏譜を参照しつつ(長唄交響曲の解説では、具体的にどの演奏譜が作曲・演奏のレファレンスになったのか、ということまで特定されている)、そのうえで、目の前の邦楽器の共演者の実演との食い違いを調整しながら合奏を進めていく、といった問題は生じないが、そういうことを既に経験していた森正であれば、作曲者から提供された五線譜(指揮者用の総譜)の手前にある芸能の実際がどういうものだったのか、というところまで遡って情報を得ようとしたとしても不思議ではない。「雲水讃」の森正による初演と朝比奈隆による再演のテンポ設定の違い(森正の演奏のほうが元の芸能のテンポに近い)は、このあたりを手がかりにして、説明できるかもしれない。

ただし、長唄交響曲と大栗裕の「雲水讃」を関連づけようとすると、大栗裕自身が、この作品以前に邦楽器と管弦楽の合奏(しかも山田耕筰と同じく邦楽古典曲の編曲!)を手がけていることを踏まえる必要がある。

大栗裕が、古典曲に管弦楽をどのように組み合わせているか、その場合、指揮者用の総譜(朝比奈隆などが振った)に邦楽器パートをどのように記載しているか、山田耕筰の例と比較してどういうことが言えるか、要調査である。

しかしそうなると、これはもう、山田耕筰と大栗裕の直接の比較ではなく、邦楽器と管弦楽の合奏、大正期以来のいわゆる「新日本音楽」の潮流の全体像を視野に収めて考えないと仕方がなさそうだ。(大栗裕に邦楽器とオーケストラの合奏曲の編曲を依頼したのは、関西の宮城流の邦楽団体です。)

邦楽器と管弦楽の合奏では、指揮者が両者をつなぐ蝶番の位置になる。指揮者用の総譜を準備したり、実際の演奏を進めるときに、邦楽器パートがどのように記譜・把握されていたのか、そういう視点で、長唄交響曲からノーヴェンバー・ステップスまでを串刺しで比較・概観しておいたほうが良さそうですね。

邦楽器を用いない管弦楽編曲における日本の民謡・伝統音楽の採譜の特質は、そのような取り組みの系譜を踏まえたうえで考えた方がよさそうだ。

(邦楽器との合奏を interpreter(解釈者の意味と同時に翻訳者の意味がある)としての指揮者はどのように処理したか、そういう視点から、山田耕筰、近衛秀麿に遡って、尾高尚忠、森正、外山と岩城、小澤と若杉を概観する指揮者論、というのも、ひょっとするとあり得るかもしれませんし。)

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そしてそのような技術論とは別に、長唄交響曲の再演が1960年だった、というのが気になる。

山田耕筰にとっては、何かの記念年だったかと記憶しますが(手元の資料をあとで確認します)、戦後、文部省(のちに文化庁)の芸術祭があったりして、邦楽界には、かつての新日本音楽の蓄積を原資とする「戦後復興」的な動きがあったように思えるのです。たぶん、長唄交響曲の再演は、単独にポツンとあるのではなく、周囲の動きのなかに置いて考えることができるトピック、という気がします。

芸術祭は、立ち上げから今まで、ほぼジャーナリズムに誉められたことは一度もないんじゃないかと思える「鬼っ子」ですが、実際には、そうした息の長い/気の長いてこ入れがあって、そのインフラの上に武満徹や諸井誠の「前衛邦楽」が出てきたのではなかろうか、と思うんですよね。現在の芸術祭音楽部門では、そのような「前衛邦楽」が、いわば現代の古典として頻繁に取り上げられますし……。

(リサーチの効率という観点では、こういう課題こそ、プロジェクトチームを組んで集中的に「共同研究」するのにちょうどいいんでしょうけどねえ。東大で貴志康一や朝日会館に取り組んだグループの皆さんとか、時間とやる気のある若い人が、勝手にどんどんやっちゃってもいいんじゃないかと思います。)

情宣

Google の広告手法はどういう風になっているのだろう?

リアルなご当地ゆるキャラを公共団体が売り込むときのように(親戚がある自治体でいまそういう仕事の担当になっているのだが)代理店が間に入って……というダイレクトな手法とは何かが違うのかもしれないけれど、このあまりにも効率的な情報の流れ方は、ユーザの口コミにまかせている、というのとは違う感触なのだけれど。

位置情報

庄内でFlightrader24を起動すると、どっちの方角からあと何分でどういうヒコーキが飛んでくるのかわかるので、カメラをその方角にかざして写真を撮る。

そうすると、写真アプリはいつのまにか国内線旅客機図鑑になっている。

なるほど、これがGPSを利用した拡張現実ゲームというやつですね(笑)。

もはや十二分にあたり一帯をロケハンして、どこでどういう写真が撮れるか、わかってきたので、最近は、遠方から接近して去って行く30秒のプロセスをいかに美しく撮るか、動画に凝っている。動画だと音も一緒に記録できますしね。

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[追記]

立ち入り禁止区域に入らずにベストスポットを見つけるべく工夫するのは、ヒトとしての基本だよね。瞬間風速の大きさとか、そこから巻き起こる様々な反応とか、Google が新しい領域に手を突っ込んだときに起きるいつものパターンだなあ、という感じがします。

Google が書物を膨大にスキャンしたときは出版業者や図書館に諸々の面倒事を請け負わせたし、スマートフォンに色々な技術が搭載されたときには通信業者やハード会社が面倒事を引き受けざるをえない形になっていて、今度は、その役目をゲーム会社が請け負うわけですね。

そういう風に考えると、期を画したというよりも、Google はどこまでいっても Google である、ということのような気がします。ゲームを含む他業種が、あの会社の掌の上で転がされている。新しい技術が社会に刺激を与えている、ということなのか、Google という面倒を他者に丸投げする体質の会社に振り回されているだけなのか、そろそろ学習して切り分けた方がいいんじゃないか。

芸術という規範はポピュラー音楽を虐げてきたのか?

前の記事の続きです。

90年代にポピュラー音楽研究の旗を掲げた人たちは、ちょうど60年代に民族音楽学を立ち上げた人たちがそうだったように、音楽研究は西洋芸術音楽のことしか眼中になく狭量である、門戸を開け、と、やたらに攻撃していたわけだが、

学問の方法論の更新が慎重で緩やかなのは、まあ、どの分野でもそういうところがあるだろうし、いきりたたなくても、20年経ったら、漸進的に状況が変わっていますよね。

で、芸術雑誌ではミュージカルが演劇に入っている、というのは、さらに別の可能性を示唆しているかもしれない。

1960年代70年代、あるいはもっと前から、自宅の蓄音機や高性能ステレオではもっぱら泰西名曲(クラシック音楽)ばかり聴いているけれど、ラジオから流れてくる聴覚文化のコンテンツは何でも面白がるし、映画のサウンドトラックや演劇のBGMにジャズやロックが鳴っていても顔をしかめたりはしない。そういう風なライフスタイルが、むしろ普通にあったのではないか、ということです。

受容論として言えば、19世紀の美学に「E-Musik(まじめな音楽=芸術)」と「U-Musik(楽しむ音楽=娯楽)」の区別というのがあるわけですが、これは、作品の美的な質の違いではあっても、聴衆が2種類に分断されていたわけではないとされます。都市生活者ブルジョワは、コンサートでシンフォニーを鑑賞して、カーニヴァルの舞踏会ではワルツを踊り、自宅で娘たちに「乙女の祈り」を弾かせた。同一の階層が、「E」と「U」を使い分けて平行して受け入れたと考えられています。

同じことが、アートとポップスに言えるのではないか。

また、これは「音楽」という概念の問題でもあるように思います。

音響再生産技術の登場や制作者の理念・美学の変化で、20世紀の「音楽」はサウンドの制御・操作・洗練の飽くなき追求の場になったように見えます。「音楽鑑賞」とは、そのようなサウンド制御の成果物を享受することであり、「音楽」と言ってはいるけれど、そのなかの特定の領域に対象を絞り込んで先鋭化する傾向があったようです。

当然、サウンドの制御というベクトルからこぼれ落ちる「音楽」が出てくるわけだが、でも、そのような「その他の音楽」は、捨て去られたり無視されたわけではなく、「音楽鑑賞」とは別の回路に回収されていたのではないか。

諸民族の音を用いた営みが人類学的関心の対象になるのはわかりやすいところですが、ポピュラー音楽の場合は、鑑賞の対象というより流行・風俗であり、だから、「音楽」としては「その他」扱いされるけれど、ドラマ(ミメーシス)の領域では、むしろ、積極的に推奨された。

これはこれで、それなりに安定した文化システムだったのではないかと思うのです。

(蓮實重彦は、ヴィム・ベンダースを追っかけのように観ていたのだからライ・クーダーのギターを聴いていないはずがない、とか、そういうことになる。コーンゴールドのことは80年代の武満徹や淀川長治らとの対話でも話題にしているし……。)

21世紀になって、「音楽」の複数化を否定するのはもはや愚かだと思いますし、クラシックコンサートにおいても、オーディオ器機に関しても、サウンドの制御・操作・洗練を特権的に追求することはなくなっているように思います。「音楽専用ホール」なる建築物はむしろ次第に使いにくいと思われつつあるようだし、シリコンオーディオをイヤホンで聴いてもノープロブレムな雰囲気がある。

音楽研究が民族音楽やポピュラー音楽に門戸を開け、という主張は、どこかしら、最高級オーディオ器機でガムランやビートルズを大音量で鳴らす「成り上がり」的な欲望を学問の装いで充足しようとする感じがあったわけですが、これもまた、今ではもう過去の過渡期のエピソードだろうなあ、と思うのです。

「音楽に政治をもちこむな」、音楽鑑賞の楽園を守りましょう、と叫ぶのは、その欲望がよってたつ土台を忘れている点で愚かだろうとは思います。その欲望は、露骨に政治的です。

でも、あらゆる音楽を「音楽」に成り上がらせようとする愚かかもしれない欲望がなければ、「音楽」概念の複数化が進むことはなかったかもしれない。

政治を忘れることが愚かなのではなく、政治的アクションの先にしか自由はない、ということを忘れているのが愚かなのではないでしょうか。

ロックと演劇:芸術雑誌のなかのロックンロール

芸術新潮は当初からミュージカル・コメディを演劇の枠で扱っている。オペラは音楽だが、ミュージカルは演劇、ということである。この島での慣習に従えば、まあ、そういうことになるでしょうか。

そうして1973年には、劇団四季による「ロックオペラ イエス・キリスト=スーパースター」の初演が演劇欄で取り上げられている。アンドリュー・ロイド・ウェッバー作曲のジーザス・クライスト・スーパースターを浅利慶太が独自に演出した出し物ですね。

この芸術雑誌でロックがはじめて取り上げられたのは、音楽欄ではなく演劇欄においてであった、ということです。(詳しく調べていないので、誇張した言い方である危険はあるけれど、これまでジャズを取り上げることもほとんどなく、ロックを音楽ジャンルとして語る前提が、芸術新潮という雑誌には、ほぼ皆無だと言ってよいと思う。その事情を印象的にキャッチフレーズ化するとしたら、「芸術新潮において、ロックはミュージカルの劇伴であった」ということになりそうです。「ロックは劇伴としてしか聴いたことがない」というのが、1970年代初頭の中高年芸術愛好者の平均値であったかのようです。)

創刊当初の1950年代にはミュージカル映画が映画欄で取り上げられ、東宝和製ミュージカルが演劇欄で取り上げられて、1960年代のウェストサイド・ストーリーを取り上げたのも演劇欄なのだから、ロック・ミュージカルが演劇として論じられるのは、芸術新潮という「雑誌のなかの世界」では、ごく自然なことだと思いますが、フェスに通ったり、音盤を聴き込んだり、ライブで跳ねておられる洋楽ファンな方々は、これをどのように受け止められるのでしょうか?

ロックというジャンルの社会性については、ポピュラー音楽研究花盛りの昨今、実に多様に語られているのだろうと思いますし、ロックと政治、というお題も、ほぼ、その音楽ジャンルの社会性という案件に回収して処理されているようにお見受けしますが、演劇のなかのポピュラー音楽とその取り扱いは、音盤や放送やライブとは、また違っているようです。

ロックが反抗・反体制であるとは限らない、という風に立論するとしたら、ロックを商業ミュージカルに取り入れることを「敵としてのブルジョワ」による「俺たちの音楽」の「簒奪」とみなすのは難しくなると思うのですが、どういう風に説明したらいいのでしょうか。

(ハリウッド映画においてすら、ポピュラー音楽がサウンドトラックに本格的に使用されたのは、ミュージカルのシンフォニック・ポップスを除けば1960年代のニューシネマからなのですから、ミュージカルがダサダサに遅れている、ということでもないように思うのですが……。)

ロックを、洋楽ファンと一部のボスキャラ言論人の権力闘争から自由な場で語らせて欲しい。

「音楽に政治をもちこむな」はちょっと暴投気味の議論ではあったが、「音楽を党派的なイデオロギーに染めて語るな」というのは、あっていい立場じゃないだろうか。

オペラ演出の1973年世代:芸術新潮で三谷礼二を推したのは誰なのでしょう?

芸術新潮1974年7月号の短信欄に、三谷礼二の演出による関西歌劇団「蝶々夫人」の評が写真入りで出ている。

関西歌劇団の歩みのなかでの三谷礼二の取り組みの意味、東京公演が松竹との確執の煽りで実現しなかった1954年の武智鉄二演出との関係など、押尾さんが最近掘り起こした関西オペラ物語と照合すれば、これが驚くほど正確に情報を押さえた記事だとわかるはずだ。

朝比奈隆のオペラの時代―武智鉄二、茂山千之丞、三谷礼二と伴に

朝比奈隆のオペラの時代―武智鉄二、茂山千之丞、三谷礼二と伴に

同じ公演について、吉田秀和が音楽展望に書いて全集に収録されている記事より、むしろ、こちらのほうが正確で、思惑による情報操作の跡がない。逆に言えば、この記事と照らし合わせることで、吉田秀和の関西に関する情報や視線の歪みを正確に検出できる。この記事が匿名で、誰が書いたのかわからないのは、実に惜しい。執筆者はただものではないと思います。

また、この時期の芸術新潮を見ると、匿名の短信執筆者は、毎回実にこまめに三谷礼二の東京での仕事を追いかけて、彼の才気に注目していることがわかる。「三谷礼二は東京で不遇だったから、まるで都落ちのように関西で仕事をするしかなかったのだ」という風説があり、吉田秀和も、この風説を踏まえて、音楽展望で「こんな逸材を放っておくとは、東京のオペラ団体は何をしているのか」と叱るのだが、それは事実ではないようだ。

なるほど、音楽ジャーナリズム(音楽之友社系の)やそれと骨がらみの既存の大手音楽団体・興行関係者が三谷礼二に気付かないボンクラであった可能性はあるかもしれないが、おそらく読者層という点では、音友や音楽芸術(70年代に入ってもクソ真面目な「前衛」の夢を捨てきれないカルト)より、芸術新潮のほうが上等だろう。その網にかかっているのだから、不遇というのは当たるまい。

ここでも、一連の記事を書いて三谷礼二をフォローした人物は誰なのか、ということが鍵を握る。

芸術新潮の匿名短信の歴代執筆者が誰だったのか、掘り起こすことはできないものなのだろうか?

匿名の文芸時評の執筆者の特定は、全部ではないにしても、それなりにできつつあるわけですよね。芸術新潮もどうにかならないのでしょうか?

この時期の芸術新潮音楽短信欄は、毎号のように東京でのオペラ公演を取り上げており、武田泰淳・団伊玖磨の「ひかりごけ」大阪での初演と東京での再演、ミュンヘンの「ばらの騎士」(シェンク演出、カルロス・クライバーの初来日)など、日本のオペラがいちおう軌道にのりはじめたのかな、という感じがある。

どうして日本のオペラがこの時期に新たな段階へ進んだ感じになり得たのか、公共ホールの充実と補助金行政の始まりゆえなのか、歌手・オーケストラの世代交代なのか、もっと別の何かが鍵なのか、そしてそこに三谷礼二はどう絡むのか。私にはわからないことが多すぎるのだけれど、蓮實重彦が映画作家について1973年世代を言ったのに倣って、オペラにおいても1973年は何かの転機であったと、とりあえず、仮に目印を付けておいてもいいんじゃないか、という気がします。

おしゃべりで声が大きい左翼・リベラルな方々がシラケてそっぽを向いてしまったせいで、私たちは、1970年代について、知らされずに放置されたまま今日に至るデータを膨大に抱えているんじゃないかという懸念がある。

70年代はサブカルとオカルトだけで出来ているわけでもなさそうだ。

ベートーヴェンと石田純一

前の記事の補足だが、

ベートーヴェンがナポレオンに交響曲を献呈する計画を立てて、あとでそれを撤回したのは、「音楽による政治」というようなことではないと思う。

実際にそれをやったらどうなるか、可能性をおそらく具体的に水面下で探っていたのだろうけれど、そうこうするうちに当初の前提とは政治情勢が変わったから、なかったことにした、という話だ。

石田純一が、平素から色々自由にモノを言う人で、都知事選に立候補します、と華々しく宣言してすぐに撤回したのと似ている。

当時のウィーンの貴族たちから見たベートーヴェンは、カツラを付けない最新ファッションで態度がデカくて、尊敬する人はモーツァルト、とか言っちゃって、騒々しくチャラいわけだが、そこが珍しくて面白いとかわいがられたのだから、政治の駒としては石田純一みたいなものだろう。

そういえば、ベートーヴェンのライヴァルだったフンメルは、音楽家として盛りを過ぎた1848年の革命騒ぎで国民会議に担ぎ出されたわけだが、なんだかそんな感じのポジションの統一候補さんもいるようで……。東京は19世紀のウィーンに何かが似ているのでしょうか? 帝都の大日本帝国憲法は、伊藤博文がウィーンの法学者に教わって作ったそうですが。

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)

音楽のTPOと政治談義のTPO

増田は、いつどこでどういう音・音楽を鳴らすかということは常に潜在的・顕在的に政治的であり得る、というTPOの話をして、辻田は、今では政治的背景に思いを馳せることなく享受されている音・音楽のコンテンツが成立時には特定の政治的文脈に置かれていた、という風に音・音楽が機能する文脈の話をしているが、

しかし、SEALDsの人や津田大介の件は、別に彼らが集会で楽曲をプレイするわけじゃないのだから、これは音・音楽(楽曲・コンテンツ)の政治性の話ではない。だから増田の論は、あさっての話をしていることになる。

また、辻田は、クラシック音楽も政治的である、例えばベートーヴェンはナポレオンを意識して……、と言うのだが、しかし、仮にエロイカ交響曲が当初の計画のままナポレオンに献呈されて、ベートーヴェンが実際にパリに行って、成り上がり皇帝に閲見して、そこで、共和主義についての自説を演説したとしたら、おそらく「音楽家は黙っていろ」と言われただろう。

(もしかすると、革命後のパリでは誰もが政治的に発言するチャンスがあって、ベートーヴェン氏が制止されることなくそのまま発言・行動することができたかもしれないが、それは、音楽家の政治的発言ではなく、むしろ、「ベートーヴェン氏の政界進出」「音楽家から政治家への転身」であり、やはり、別の話になる。)

クラシック音楽から例を挙げるのであれば、革命前夜のウィーンの啓蒙君主がモーツァルトにフランスの貴族風刺劇のオペラ化を鷹揚に許可したり、

モーツァルトの台本作者 ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯 (平凡社新書)

モーツァルトの台本作者 ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯 (平凡社新書)

ナポレオンを押さえ込んだあとのメッテルニヒの王政復古期に、シューベルトが足繁く通った文学や音楽の集会でスイスの革命家と共鳴して、彼の詩に作曲したりして、

〈フランツ・シューベルト〉の誕生: 喪失と再生のオデュッセイ

〈フランツ・シューベルト〉の誕生: 喪失と再生のオデュッセイ

それでもウィーンではそのあと何も起きなかった、せいぜい1948年に奇妙な乱痴気騒ぎが起きた程度で、オーストリアは政治的に凋落の一途をたどった、という話のほうが、フェスの政治性を考えるうえでは、参考になるんじゃなかろうか? (増田が後半で示唆する「ロックと政治のトホホ感」は、左翼の挫折を意識してはいるのだろうけれど。)

青きドナウの乱痴気―ウィーン1848年 (平凡社ライブラリー)

青きドナウの乱痴気―ウィーン1848年 (平凡社ライブラリー)

音楽の政治的TPOや政治談義のTPOに思いを馳せるのはいいけれど、粗雑な論議で相手を無理矢理押さえ込む風土は、民度が低いよね。相手が納得しているようには見えないし……。

古代史ブームと芸術新潮

1973年の芸術新潮は、判型とページ数は従来とほぼ同じだが、写真がきれいに印刷できるツルツルの紙に変わって、分厚く重たい雑誌になる。そして巻頭グラビアは、古代史ブームの立役者、邪馬台国の松本清張と騎馬民族征服王朝説の江上波夫の対談で、天皇陵を検証する、みたいな話になっている。

何事かと思ったら、どうやら前年3月に発掘と学術調査が行われて極彩色の壁画が発見された高松塚古墳の余波であるらしい。

以来、梅原猛の連載はスタートするし、廃仏毀釈を考える、とか、在日外国人を感動させる密教(東寺)、とか、古代史がらみの記事がほぼ毎号どこかに載っている。(晩年の菅原明朗は美術に凝っていたようで、数年前1965年にはイタリアの古都巡りの紀行文を連載して、1973年の廃仏毀釈特集にも寄稿している。)

どうやら古代史ブームは、万博で前衛芸術が一段落して鮮度を失い、目標を見失った1970年代の芸術ジャーナリズムを蘇生もしくは延命させる救世主、有力かつ強力な鉱脈になったようだ。

ひとまず古美術、ということになるかと思うけれど、それだけではなく、考古学ということでポンペイやシルクロードの古代遺跡を紹介したり、石造りの建築や廃墟を楽しむ観点から西洋中世を取り上げたり、発掘された「モノ」の写真を多用するところから、石像・仏像・各種骨董への関心が活性化しているようにも見える。

秘境チベットと幻のアトランティスの話題も提供される。

草むす遺跡から栄華を誇った文化・文明を偲ぶ趣向は、オリンピック・万博の「夢のあと」、ポスト・フェストゥムな時間意識にぴったりだったのかもしれないし(高名なコレクターの膨大な遺品が国に寄贈された話が大きく紹介されているのは高度成長の豊かさの後始末、ということだろう)、同時にこれは、オカルト・ブームと接続しているようでもある。(古代の呪術とかいうことだけでなく、「滅びた者たちの怨念」というのも、古代史とオカルトを結びつけそうな感じがある。芸術新潮はもともと保守系だし……。)

山口昌男、中沢新一の登場は、こうして着々と準備されているようだ。

それから、高松塚は奈良で、千里丘陵の万博とは違う角度から関西が脚光を浴び続ける追い風になったようだ。梅原猛とか、シルクロードの井上靖とか……。(さすがに芸術新潮に司馬遼太郎は登場してはいないけれど。)

そして遺跡・古美術・骨董は、列島改造「地方の時代」ディスカバージャパンとの相性もぴったりですよねえ。棟方志功が再び脚光を浴びるのは、この流れだろうという気がします。

わかってしまえばあっけない話ですが、大栗裕がちょうどこの年、1973年秋に、天の岩屋戸の物語による「神話」を書いたのは、反時代的なことではなく、当時の中高年芸術愛好者の趣味関心の直球ど真ん中だったようですね。

(山登りというのも、古代史・山岳信仰・地方の時代で説明できてしまいそうですし……。)

それにしても、1973年にいきなり雑誌が重たくなって、いきなり古代史・古美術路線にシフトするのは、びっくりします。ジャーナリズムは、世間の風を読む、ものなのでしょうけれど、この激変はすごい。

後始末

吉田秀和が20世紀音楽研究所の所長という肩書きで現代音楽祭をやった、とか、『音楽紀行』で1953/54年当時の欧米の現代音楽事情が詳細にレポートされている、とか、というのは、1960年代に生まれた私たちにとってはもはや伝説のようなもので、物心ついた1970年代には、過去の「祭り」の痕跡を示す楽譜や音源や回想録のようなものしか周囲には見当たらなくなっていたように思う。(70年代に入って、かつての現代音楽の闘士の多くが身辺雑記風のエッセイで日銭を稼いだ。)

そんな1970年代に、今やFMラジオと新聞・雑誌の看板コラムで名曲名演奏を解説する大御所になった吉田秀和と「現代音楽」のつながりを確認する手がかりになっていたのが『現代音楽を考える』という単行本だと思う(本屋で普通に売られていた)。

これは万博が終わったあとで芸術新潮に書いた連載だったんですね。

吉田秀和は、1970年と翌年に芸術新潮にベートーヴェンのことを書き(1970年はベートーヴェンの生誕200年)、そのあと2年間、現代音楽の連載が続く。これが『現代音楽を考える』にまとめられるわけだが、祭りの後始末、という感じがします。