シューベルトに魅せられた人々、受容史の万華鏡(2023年版)

(東京交響楽団「SYMPHONY 2008年4月号」に寄稿した同名のエッセイを2023年の視点から加筆・改稿)

 シューベルトはヨハン・シュトラウス父子と並ぶ生粋のウィーンっ子、古都の秘蔵っ子として愛されているが、小鍛冶邦隆が『作曲の思想』で「悔悟するペテロ」と評したように、人なつこい外見の裏に未完成交響曲や「冬の旅」の荒涼とした闇が口を開いている。同主長短調のポジとネガのような反転は、優しさと孤独が背中合わせであることの端的な表現に聞こえる。しかも31歳で生涯を終えてから10年以上、重要な作品が埋もれていた。没後の評価を含めてのシューベルトであり、実像と後世の虚像を簡単には切り分けられない。以下、その概略を復習してみよう。

●「歌曲王」とビーダーマイヤー

 フランツ・シューベルト(1797〜1828)の父親はウィーン近郊で小学校長を務める名士で、フランツ少年は王宮礼拝堂の合唱団員に選ばれて、宮廷音楽家サリエリから特別レッスンを受ける優秀な生徒だったが、ナポレオン戦争後の不景気もあり定職が見つからず、友人の家を転々とする。
 ただし歌曲や舞曲、ピアノ小品は生前にウィーンで順調に出版・演奏されていたことがわかっている。岡田暁生は片山杜秀との「ごまかさない」対談で、三大歌曲集の「失恋する私」を「弱さをウリにするナルシスティックな男」と一刀両断するが、この弱々しい自己愛はドイツ文化史で言う「新興市民の微温的ビーダーマイヤー」なのか、凡庸を嫌うロマン主義の価値反転なのか。そして交響曲やソナタを書き続ける諦めの悪さは、弱々しい自己愛と順接するのか逆接するのか。シューベルトの「実像」のわかりにくさは、このあたりに帰着する。

●ロマン主義の熱狂

 シューマン、リスト、ベルリオーズなどシューベルトの没後1830年代にデビューした若い世代の態度は明快で、彼らはロマン主義の名の下に、シューベルトを独創的な「器楽」の先駆者として評価した。
 リストは歌曲のピアノ・トランスクリプションを量産して、「さすらい人」幻想曲を華麗な協奏曲に作り替え、ベルリオーズは「魔王」を管弦楽伴奏に編曲した。歌曲から言葉を引きはがし、圧倒的な超絶技巧や極彩色の楽器法でシューベルトを「絶対音楽」「言語を越えた王国」に迎え入れる。ライプツィヒでは、シューベルトの「大ハ長調」交響曲発掘・初演(1839年)に関わった2人が、「大ハ長調」と同じように金管楽器の主題ではじまる「春の交響曲」(シューマン、1841年)と交響曲カンタータ「讃歌」(メンデルスゾーン、1840年)を書いた。パリのドイツ派、ドイツのベートーヴェン主義者は、いずれもシューベルトに敬意を払った。
 ブラームスが「未完成」交響曲初演(1865年ウィーン)の11年後に完成した最初の交響曲の第2楽章に、「未完成」第2楽章を思わせる虚ろなシンコペーションを忍び込ませたのは、恩人シューマンをなぞるかのようで微笑ましい。「ベートーヴェンのあとで何が書けるか?」 - 「影響の不安」を乗り越えるにはシューベルトのDNAが必要だった。

●最後の「古典派」

 1850年没後100年目のバッハ全集を皮切りに、19世紀後半、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社は大作曲家の作品全集を次々出す。シューベルトの作品全集は生誕百年の1897年に完成した。
 ブラームスは傑作と凡作をいっしょくたにする「作品全集」という出版形態に懐疑的だったとされるが、案の定、量は質に転化する。室内楽や宗教音楽の全貌が知られて、シューベルトの評価は、「ロマン派の先駆者」から「最後の古典派」、ベートーヴェンに匹敵する「本格派」へと塗り替えられた。そして「シューベルトはロマン派か古典派か」という果てしない議論がはじまるのだが、「古典的vsロマン的」のヘーゲル風観念論はともかく、シューベルトが18世紀の音楽文化と地続きの素養を持っていた可能性は考察に値するだろう。寄宿学校時代にサリエリの個人指導を受けたとき、その場にどんな楽器があったのか。フォルテピアノかチェンバロか、あるいはクラヴィコードだったのか・・・。ヴァイオリンとクラヴィアが親密に語り合う初期の愛らしいニ長調ソナタ(二つの楽器は室内楽としても異例なほど「距離が近く」感じられる)や、指先が鍵盤上を転げ回る変ホ長調の即興曲(指先で愛でる無窮動のミニチュア感はショパンの即興曲につながる)は、ずんぐりしていたと伝えられるシューベルトの体型だけの問題ではないかもしれない。

●実証と分析

 19世紀の「大作曲家」の作品全集(いわゆる「旧全集」)はケルンの大聖堂やベルリンのフリードリヒ大王馬上像と同根で、「音楽の国」ドイツ帝国のナショナル・アイデンティティの誇示(吉田寛)と総括されても仕方がない面がある。
 一方、第二次大戦後に出版社と研究機関が総力をあげた「新全集」は、CERNやNASAの大規模プロジェクトを連想させる。O. E. ドイチュの一連の「ドキュメント」は、足で稼ぐ犯罪捜査に似た実証主義の極みだが(楽譜の年代特定には新バッハ全集でおなじみの筆跡鑑定・透かし調査が威力を発揮)、膨大なデータを蒐集したのは、その先に19世紀的観念論とは水準の違う理論的・美学的「発見」があると信じられていたのだと思う。
 事実、新シューベルト全集の編集主幹W. デュルは、「声楽における言葉と音楽には不可避的なズレがあり、それが声楽に豊かさをもたらす」という主張を言語学で補強しながら展開して(『19世紀のドイツ独唱歌曲』『言語と音楽』)、音楽評論家K. シュトゥッケンシュミットからベルリン工科大学音楽学講座を引き継いだC. ダールハウスは、「主題的コンフィギュレーション」というドライな言い回しでシューベルトのト長調の弦楽四重奏曲を分析した。極端に鋭い付点リズム、ゼクエンツ風の半音下降、同主和音への反転などの特徴的なパラメータの束が、まるでデジタル機器の「カスタム設定パネル」のように舞台裏で楽曲を制御しているという見立てである。この分析はダールハウスが準備中だったベートーヴェン論(『ベートーヴェンとその時代』)の副産物で、後期ベートーヴェンとシューベルトがほぼ同等の抽象度で音楽を捉えていたという歴史的な見取り図が議論の背景にある。
 戦後西ドイツ学派の楽曲分析は(なぜか久保田慶一『音楽分析の歴史』で完全に無視されているが)ちょっと偏屈で高精度な職人芸、ライカのレンジファインダー機のようなところがある。シューベルトの「冴えない豊かさ」は楽曲構造、音楽思考の問題でもある。

●シューベルティアーデ

 20世紀末から音楽論・音楽研究の焦点は社会史とメディア史(音が織りなす構造体としての音楽というより、人間たちの行為・交流としてのミュージッキング)に移っている。シューベルトを取り巻くウィーンの音楽サークル「シューベルティアーデ」の人脈に着目した堀朋平の大著はその好例だが、帝国のエリートたちを夢中にさせた詩と音楽の会とは、具体的にどういうものだったのだろう。サリエリの弟子シューベルトと引退した宮廷歌手フォーグルがそれほどおかしな演奏をしていたとは思えないが、衆人環視のショウアップされた「本番」ではなかっただろう。現在の音楽会にその空気感を蘇らせることはできるのか。歴史情報化(Historically Informed)されたシューベルティアーデを体験してみたい。私のまだ叶えられていない願望です。

[付記]
大井浩明氏がご自身のブログ(https://ooipiano.exblog.jp/)に私名義の文章を公開していらっしゃいますが、私が大井氏に送った文章のオリジナルは上に掲載したとおりですのでご参考まで。

なお、大井氏から、原稿改変の理由として、以下の説明をいただいております。

[2023/12/28 15:40]

大変恐縮ながら、以下の箇所は当方(私)の判断により、割愛させて頂きます。
(a) 小見出し
(b) 日本人研究者への言及(誰もシューベルトの専門家はいないので)
(c) 改稿である事(それぞれ読者数が限定的なので)

どうぞ宜しくお願い申し上げます。
大井浩明拝


[2023/12/29 3:04]

> それを言いだせば私自身もシューベルトの専門家ではありませんし、

え~、でも専門は初期ロマン派って書いてあったし~w

> そもそも、シューベルトクラスの誰もが何かを言及する(できる)音楽家で、「専門的な話題」とは何か、それ自体大問題だと思いますが、

●堀朋平を合理的に叩き潰す論点でもあれば、と思いましたが、小鍛冶邦隆にしろ岡田暁生にしろ、「わざわざ名前を引き合いに出す」ほどの意義は無いのに名前をクレジットするのは、あたかも彼らに媚びる理由があるかのように見られなくもない、と思ったからです。(ゆえに全カット。)
(毎日新聞編集委員が書いた五嶋みどり母子の本では、なぜか後書きで吉田秀和やら江藤淳らの名前が意味なく列挙されてました)

[メールの引用ここまで]

わたくしは、大井氏によると「あたかも彼らに媚びる理由があるかのように見られなくもない」文章を書いたそうです。

「・・・のように見られなくもない」という不確定な話はともかく、大井氏の改変では、私が引用した岡田暁生氏の対談での発言が私自身の言葉とされています。

大井氏にも伝えましたが、私は、私自身の言葉としてシューベルトの「三大歌曲集」を「弱々しい自己愛」と総括したことは、これまでの生涯で一度もございません。

なお、大井氏が、私のクレジットを、私の原稿にあった「音楽学・音楽評論」から単に「音楽学」としたことについては、一切説明をいただいておりません。

[補足]

大井浩明さんのシューベルト・シリーズは日本の新作とシューベルトを組み合わせる構成になっていますが、関連原稿については、日本人の発言を排除して「舶来の言説」で埋め尽くすことを希望しておられるようです。

私は、日本に生きる人間が、--ときには舶来品に魅せられつつ--ものを作る(場合によっては非合理のパワーを発揮して)だけでなく、ものを考えることもできると普通に考えおりますので、便利に利用できる他人の言葉は舶来であろうとMade in Japanであろうと、積極的に(出典を示したうえで)引用・活用しますから、彼の企画意図(ブランディング戦略?)を外れる書き手だったのでしょう。

ライカ・ショップがNikon製品を展示したり、アップル・ストアがSONYのVaioを取り扱うようになったら画期的ではあるかもしれないけれど、その店が日本人お断りだったら、わざわざ他の国籍を偽装してまで入店しようとは私は思いません。(そもそもそういう類いの西洋vs日本の線引きは、21世紀の価値観とは思えないし。)

公演のご成功を遠くからお祈りしております。

19世紀の芸術は20世紀のエンターティンメントの前史に過ぎない

そして21世紀には、20世紀が熟れた果実の中身を食べ尽くしたあとの抜け殻が実質のないレガシーとしてブランディングされて残っているだけなので、よほどの暇人以外は誰も芸術を顧みないだろうし、だからこそ、芸術は誰もが安心安全に弄ぶつまらない領域になったとも言える。

……とつぶやいている令和元年のわたくしは、バレエとミュージカル、そしてその「前史」としての西洋芸術音楽史を授業で日々楽しく語っております。「20世紀=エンターテインメントとしてのクラシック音楽」の終わりを音楽評論家として見届ける幸運を享受した「その後」の人生の過ごしかたとして、おそらくこれは、かなり幸福なことだと言えるでしょう。

良質のエンターテインメントではなくなった「業務」としてのクラシック音楽には、ほぼまったく興味が湧かないからね。

P. S.
1月末のエントリーで京フィルがやったグレツキのことを書いていますが、斉藤一郎が京フィル指揮者を退任したのはとても残念なことでした。エンターテインメントとしての現代音楽ができる逸材だったのに。

あと、日本の前衛音楽運動の「業務」としての一面については、少し前にこういう作文をしました。

10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update) : Blog | Hiroaki Ooi

連絡先

飲み会のお誘いであれ、仕事のご依頼であれ、(もしそういうことに私を巻き込みたいのであれば)裏情報・裏取引等であれ、私に連絡を取りたい場合は、既に随分前からWWWでアクセス可能な複数の場所に(「肩書き」なるものとは無縁なやり方で)公開しているメールアドレス(tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)にお願いします。

ご対応は個別に判断させていただきます。

グレツキ、シュニトケ、ペンデレツキ

「悲歌のシンフォニー」(当時指摘した人が既にいたかもしれないけれど、おそらく佐村河内を売り出したチームのなかには、グレツキのシンフォニーが1990年代に「ヒットした」(本当に英国のアルバム売り上げチャートの上位に食い込んでしまった)ことを知っていて、似たことを仕掛けようというアイデアがあっただろうと思う)のグレツキは、80年代ポスト・モダン音楽の旗手としてもてはやされた(そして井上道義が好んで取り上げていた)シュニトケ、「広島に捧げる哀歌」のトーン・クラスターからシンフォニーを自作自演する新ロマン主義に転向したペンデレツキとまったくの同世代なんですね。

これはどういうことなのか?

京フィル定期演奏会の解説を書かせていただいて、とてもいい勉強をさせていただきました。(「ポストモダン」や「グローカリズム」という語彙を曲目解説で使ったのは、たぶん、今回がはじめてではないかと思います。)

本番の演奏も、京フィルが指揮者なしの弦楽オーケストラ(シュニトケの合奏協奏曲)を立派にやりとげておりました。

芸術祭審査員の「打ち上げ」 - 受賞の差配をめぐる談合・裏取引の温床を憂う

リーガロイヤルホテルでの文化庁芸術祭授賞式に出た後、肥後橋にある関係者オススメの隠れ家的イタリアンで遅くまで呑んでました。京都には無い感じの(いい意味で)カジュアルなお店で、すごく気に入りました。

今年は立命館大学院の吉田寛先生が文化庁芸術祭音楽・関西部門の審査員に加わって、公演審査の終わり頃から「審査員で打ち上げとかはないんですか」と言っており、審査会終了後には審査員同士でメアド交換をしていたが、本当に「打ち上げ」をやったらしい。

(1) 公的機関が主催する行事に第三者機関として関与している役職にある者が、その公的行事の主催者が関知しない場所で極秘裏に意見交換等を行うことは、「談合」の疑いをもたれても言い逃れできないのではないでしょうか?

(2) その「打ち上げ」に参加した「関係者」は、審査員だけなのでしょうか。もし、受賞者もしくはその周囲の今後の審査対象となる可能性がある団体・個人等がそこに含まれている場合、裏取引等の疑いが生じるのではないでしょうか?

(3) 大きな行事が開催されたときに、その主催者・関係者が互いの労をねぎらう場をもつことは、社会的慣習として認められると考えます。しかし、文化庁芸術祭の場合、

  • a) 公演審査員という立場にある者が、つつがない行事の終了について「労をねぎらう」としたら、それは、内輪で集まる、のではなく、芸術祭という行事を円滑に遂行してくださった文化庁職員の皆様をはじめとする主催者に我々が感謝しつつ、お互いを慰労する、というような形になるのが順当ではないでしょうか。
  • b) そして、文化庁芸術祭は、既にそのような慰労の場として、授賞式のあとに同じ会場で受賞記念パーティが設定されています。多くの参加者の「目」がある公然の場所です。もし、審査員が相互に、あるいは、他の関係者と非公式に意見交換を行うとしたら、このパーティの場こそが安全でもあり、ふさわしいのではないでしょうか。この記念パーティに加えて、さらに「打ち上げ」を設定するのは過剰であり、社会的慣習として認められた範囲を逸脱する意図・目的を疑われるのではないでしょうか。

私は、所用で今年の(今年も)授賞式は欠席しています。

(例年、授賞式は授業のある平日の午後に設定されています。)

「打ち上げ」については、最初に話が出た段階から何かおかしい、と感じておりましたので、メアド交換等も行っておりません。

芸術祭の審査員は、これまでの慣行では3年程度継続して務める例が多いようですので、なおさら、「今後への影響」を考えるべきであったと思います。

もし、私が来年度以後にお話をいただいた場合には、この件について、事務局としてどのようにお考えなのか。確認させていただこうと思っております。

談合・根回しの温床であったと今から振り返ると言わざるをえないかもしれない昭和の自民党の職員さんのご子息で、現在は私立大学に勤めていらっしゃる先生と、南九州で親も親戚も、ほぼ全員が公務員で民間企業に勤めている人間が誰もいない環境に育ったわたくしでは、「公共性」に関するコンセンサスにズレがあるのかもしれませんが、だとしたら、公然と、順を追って、問題点を明確にしておくべきかと思いましたので、以上、敢えて、公然と書かせていただきました。

白石知雄

情報源の秘匿とオープンソース

演奏家に焦点を当てて、音楽を「イベント」化する動きに違和感があるのは、演奏家が拠り所にしている情報源(クラシック音楽流の楽譜=テクストであれ、邦楽流の伝統であれ)を聴き手から隠そうとする感じがするからではないかと思う。「イベント」で「プレイヤー」へと注意を集めると、まるで「プレイヤー」がイベントの中心であり、出来事の源泉(光源)であるかのようだけれど、実際には、プレイヤーは楽譜/テクストであれ伝統であれ、背後の光源によって輝いているに過ぎない。「プレイヤー」の存在だけをクローズアップするのは、光源をプレイヤーが聴き手の視界から隠してしまう皆既日食のような感じがする。

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でも、通常、聴き手もまた、プレイヤーを介することなく、自力で情報源にアクセスできる。自力で楽譜/テクストを読んだり、当該の伝統に知的もしくは体験的にアプローチすることが可能ですよね。そしてそのような知見を前提にして、目の前のプレイヤーのパフォーマンスを、様々でありうる実装のひとつであると受け止める。ソース・情報源に対して、プレイヤーとリスナーは同格だと思う。

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おそらく、オープンソースではない芸能は衰退する。

演奏家重視への違和感だけでなく、多くの芸能が一般人の「お稽古・習い事」に門戸を開いているのはどうしてなのか、アマチュア/ディレッタントとは何なのか、ということも、観察モデルを変更することで、説明が容易になるのではなかろうか。

20世紀にアンプで増幅したり、電波で放送(散布)したり、音楽をめちゃくちゃ遠く/広くまで飛ばすようになって、ソースにアクセスできないところまで音楽が広がってしまったけれど、音楽のコアのこのような構造が変わったとまでは言えないのではなかろうか。情報へのアクセスは、むしろいわゆる「情報社会」で容易になっているのだし。

「新日本音楽」の現在(4) マイノリティは一枚岩ではない

21世紀のグローバリゼーションは20世紀の大衆化を前提にしているので、相変わらず「多数決」数を頼みとする少数への抑圧が起こりうる構造なので、そこへのカウンターとして提唱されるのがマイノリティの保護ですね。

では、マジョリティは具体的にマイノリティとどのように交渉すればいいのか。

もし、マイノリティが多数派に簡単には制圧され少数精鋭の鋼鉄の組織と戦略を誇っているのであれば、そのようなマイノリティ組織の統治機構に従って、しかるべき窓口と交渉して、あとは当該組織の内部統制に委ねればいい。コンピュータ・プログラミングで言うオブジェクト指向、カプセル化されたオブジェクト間での内部構造に直接手を突っ込むことのない情報のやりとりのようなものですね。

でも、ユーゴスラビア情勢が冷戦の終結でむしろ混迷を深めたように、マイノリティは、むしろ、そのように内部が整然と組織化されていないことが少なくない。内部の矛盾を力で封じ込めた状態で誰かが外部との交渉に名乗りを上げる場合があるかもしれないし、(紛争地域によくあるように)競合する複数の組織や勢力の一方、あるいは、両方が平行して外部との交渉を試みるかもしれない。あるいは、内部の構造を斜めに横切って、何者かが、いわば「抜け駆け」して外部との交渉を試みる場合だってあるでしょう。

「新日本音楽」がその名に値するコンテンツを備えている場合には、旧来の日本音楽(とは何か、というのが大問題ではありますが)に対する葛藤や更新を企てているわけだから、そのような現象がある時点で、定義上、もはや一枚岩のカプセル化されたオブジェクトを想定することはできないと言うべきでしょう。

「新日本音楽」が、内部では葛藤・更新を仕掛けつつ、対外的には、「日本音楽」というマイノリティの代表窓口であるかのように振る舞う、という事態が生じた場合、私たちはどのように応対すればいいのか。

事情を精査したうえで事態に果敢に介入する、というのも、ひとつの勇気ある選択肢ではあるけれど、紛争に関して、特定の当事者に過剰にコミットすることなく中立の立場で事態を静観する選択肢もあるはずです。その場合、外見上、あたかもマイノリティとしての「日本音楽」への配慮を欠いたマジョリティの横暴と区別を付けるのが難しくなるわけですが、私たちは、時と場合によっては、そのような批判に屈しない覚悟をすべきかもしれない。

どの対応を選択するとしても、「無垢の第三者」ではありえない。

だからこそ、「新日本音楽」は「政治」の案件なのだと思います。

(ここまでの一連の考察は、実を言えば、文部省/文化庁の芸術祭と「新日本音楽」が奇妙に相性がよいように見える、という思いつきから出発しています。そして、大栗裕は、一見するとそのような「芸術祭」と相性がよさそうなのに、どうして何度エントリーしても受賞に至らなかったのか、芸術祭の歴史のなかでの大栗裕の位置ということを考えるための準備のつもりです。

ですが、幸か不幸か、現在、わたくし自身が芸術祭の審査委員なので、芸術祭の具体的な歴史と現在に関する事柄についての知見は審査委員としての業務に優先的に役立てるべきであり、他のプロジェクトへの流用を慎むべきだろうと思いますので、ひとまず、考察はここまでとします。)

「新日本音楽」の現在(3) プレイヤー重視のゲーミフィケーションとマイノリティ・ポリティクス

20世紀の文化相対主義から世紀転換期のグローバリズムへ、という状況の変化の文化論的な側面(ポスト・コロニアリズムと言われるような)については(1)で私の考えを述べたが、ここでは、「新日本音楽」の経済(「帝国」と形容されるグローバル資本主義)と政治(新しい公共性、政治的に正しいマイノリティ・ポリティクス)を考えたい。

グローバル資本主義は、ごく単純に、「採算の取れない興行はつぶれて当然である」という非情な文化政策に帰結していると思われ、洋楽であれ邦楽であれ、音楽興行は合理的なマネジメント、効率的な売り込みを心がけるようになっている。

資本主義的な採算重視・効率重視といえば、言うまでもなく「お客様重視」(買っていただけるものを優先的にご提供する)なわけだが、ライブ主体の音楽では薄利多売に限界があるので、何らかの希少価値を見いだして音楽をブランディングすることになる。そして手っ取り早いブランディングの方法としては、実際に舞台に立つプレイヤーに焦点を当てる動きが加速しているように見える。「何が上演されるか」ではなく、「誰が/どのように上演するか」というところで付加価値を競うのが、音楽興行というゲームの現在の主流だろうと思われます。

(このような形で興行を構成すると、音楽興行は、「お客様」が同時に「プレイヤー」であるようなゲームに接近して、ゲーミフィケートしやすくなる。これも、現状ではメリットと見られているかもしれませんね。)

「作品」の解釈であるとか、「伝統」の継承であるとか、というようなまだるっこしい営み(目の前にいる「客」と「プレイヤー」の関係でゲームが閉じない構造)は、効率が悪いから、やめられるものならやめてしまいたい。

(例えば、増田聡先生のような人が著作権と日常言語分析の両面から「作品」を攻め立てて、パクリ上等というゲリラ戦を推奨するのも、目の前の当事者との切った張ったで勝負を決めてしまいたい、ということなので、ほぼ、この枠組で説明がつくことだと思われます。)

「新日本音楽」が、(1)で述べたように、「伝統」を崩してしまって、(2)で述べたように、もはや共演者すらいない「弾き語り」を目指した場合、音楽興行は、実に分かりやすく、「客」と「プレイヤー」の直接的な切った張ったで完結する。

私には、このような動向は現在への過剰適応であって、少しでも状況が動けば崩れる「一代限り」(時代の徒花)に思えますが、こういう動きに周囲が異常なまでに共振してしまうのは、わからないことではない。

ただし、このように現在の状況に十分すぎるほど適応してしまっている現象は、もはや、「日本固有の地域性・マイノリティ」として特別に保護されるべき案件ではなくなっているように思う。一連の考察の最後に、そうした「新日本音楽」の「政治」を考えたいのですが、既に長くなったので、これは次のエントリーに分けることにします。

「新日本音楽」の現在(2) 弾き語りという袋小路

安田寛が「仰げば尊し」の原曲を発見した際、ヘルマン・ゴチェフスキーが原曲に合唱特有の音の動きがあることを分析的に指摘したが、西欧の音楽理論は、ことほどさように、複数の音をどのように組み合わせるか、他の音との関係をどのように取り結ぶか、の理論・作法の集積だと、ひとまず言えるのではないかと思う。

そして合唱のひとつのパートが「仰げば尊し」という唱歌になった過程は、ヨーロッパのポリフォニーの文化が、日本というモノフォニーもしくはヘテロフォニーの文化と接触して変容した「文化触変」の好例に見える。

中世以来、教会音楽が理論のメイン・フィールドだったのは、ユダヤ教伝来の単声の唱え・祈り・うたを、どのように「複数の音の組み合わせ理論」に取り込むか、というのが問題であり続けた、ということなのだと思います。

近代の西欧音楽では「分業」が徹底していて、作曲家と演奏家が分かれているし、声楽であっても、声と楽器を別の奏者が担当するけれど、「複数の音の組み合わせ」として音楽を実装する作法には、おそらく、資本主義・産業革命のような近代化の潮流としての分業(マルクスが着目したような)とは別の由来があるんじゃないかと思います。

そしておそらく、そのような文化の作法が支配的であったからこそ、「弾き語り」が特異点として問題になる。典型的には、叙事詩人・ラプソーデが西欧文明のもはや手の届かない「起源」みたいに位置づけられてしまうわけですね。

(フランツ・リストが声とピアノの「分業」を特徴とするシューベルトやシューマンのドイツ歌曲をピアノに編曲したのは、「言葉のない弾き語り」だったわけだから、いかにもロマン主義的な挑発行動だと言えそうに思うし、そう考えれば、リストが「ジプシー音楽」/ラプソディにたどりついたのは偶然ではないと思えてくる。)

ただし、東アジアの文脈では、ヘテロフォニーと弾き語りの関係はややこしい。

東アジアにも「音楽理論」=「複数の音の組み合わせ」の作法が古代から存在することが知られている。そして中国から周辺の文化圏に伝播した宮廷音楽のような「分業」を基本とする合奏形態がある。日本のいわゆる雅楽は舞と音楽が分かれているし、楽師たちは、それぞれの楽器をそれぞれの「家」で分担して伝承しているのだから、「分業」の極みですよね。

中世・近世の芸能も、能から浄瑠璃、歌舞伎に系譜のように、直接間接に大陸との関わりを想定しないと起源や発展を説明できなさそうなジャンルは「分業」が基本になっている。

「ヘテロフォニー」は、演奏形態としての「分業」が確立・徹底しているからこそ、特異な現象として際立つわけですね。「分業」しているはずなのに、そこに鳴り響く複数の音はポリフォニックに分散することなく、同じ流れに乗っている。だからヘテロフォニーだと言われるわけです。

そして琵琶から三味線に至る「語り物」の弾き語りは、逆の方向からヘテロフォニーにたどり着く。一人で歌い、語っているにもかかわらず、声と楽器がズレて、ばらけて、音が散らばる。その匙加減に賭けたのが近世邦楽だったということになると思います。

最近、ドイツ歌曲の弾き語りとか、邦楽奏者による西洋流の発声による弾き語りとかのパフォーマンスを見かけるのですが、こうした合奏/分業とポリフォニー・ヘテロフォニーの見取り図を参照すると、これはどこにマッピングしたらいい現象なのでしょうか?

西欧の合唱音楽のひとつのパートが「仰げば尊し」に変容した、というのは、わかりやすいクレオールだけれど、多種多様なジャンルを「弾き語り」のフォーマットに収めてしまうのは、その先に出口が見えない行き止まりではないだろうか?