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振り子時計

木曜9時のドラマを、さっきようやく録画で視た。レギュラー出演者が順番にお休みするのは、ギャラを節約して複数のゲストを登場させる苦肉のやりくりなのだろうか。広報部長がオチになって、最終章前に滑り込みで彼女にもスポットライトが当たる、これもやりくり。

麻雀のシーンで振り子時計が「ボーン」と鳴ったので思い出したが、真田丸は、出雲の阿国の丹田の回(戦国講談的には「陣羽織」の回)できりがスカウトされそうになる場面の背後で小さくカラスがカーと鳴くなど、お楽しみの場面でコント風のSEが入る。こういうところも、三谷幸喜の台本がすべてを制御しているのではなく、民放の三谷ドラマで育ったスタッフが独自に動いているんだろうなあと思わせる。

脱KAJIMOTO

ルネ・マルタンは音楽におけるスティーヴ・ジョブズであり、「熱狂の日」音楽祭は、Apple の iPhone が日本のガラケーを駆逐したのに似た「いいグローバリズム」だ、という受け止め方があるようだが、彼が特定の音楽事務所と組んで開催するシステムになっている日本の「熱狂の日」がナントの音楽祭とは違う何かであることは、音楽祭の初期から指摘されていたことであり、この音楽事務所の傘下に入ってコントロールされることをよしとしない都市が独自の道を歩みたいと考える動きは、遅かれ早かれ出てくるだろうことが予想された。

(KAJIMOTOはジャニーズではないので、傘下の音楽家が「熱狂の日」システムへの疑問を呈することがあったとしても、その音楽家を干す、みたいなことはしないし、たぶん、できない。)

具体的な事情がはっきりしない段階で、一方的にマルタン/KAJIMOTO側にのみ正義があると決めつけるのは危険だろう。

老人と鎖国

「日本のオーケストラは40年間たえず上手くなり続けている。こんな素晴らしい国は他にない」

という文言をSNSで見かけて、自分のなかで何かがプツンと切れた。クラシック音楽業界は、文壇と違って外国人の作曲家や演奏家と日常的に接触しているから原理的に「鎖国」できないだろうと思っていたのだが、こういう文言を本気で発することのできる人は「鎖国」してますよね。音楽団体も聴衆も、こぞって「今日のコンサートの素晴らしさ」だけをひたすら書く最近のSNSの作法は、そのような「鎖国」脳が大勢を占めていることを示していると思う。既存のクラシック音楽業界は、老人と攘夷鎖国の志士たちが結託して、うなずき合うことで小さく生き延びようとしているようだ。

(寺岡清高は、しばらく見ない間に、かつての文学青年風の志みたいのが消えてしまって、オーケストラのほうも、やたら大きな音ではっきりくっきりしか考えていなくて(←外山雄三を楽団のトレーナーに迎えたことの未熟で残念な副作用に思える)、あんなやかましいだけの演奏はダメだと思う。まるで、ハイフィンガー奏法によるピアノ演奏みたいだった。ハイフィンガー系の奏法を独自に進化させたユジャ・ワンが喝采を浴びる時代なので、アジアのクラシック音楽は、今後こういう風な混乱の時代に入るのかもしれず、大阪響のこの演奏は、その予兆だったりするのだろうか。)

オーケストレーターの仕事

三浦秀秋 - Wikipedia

くるり 岸田繁「交響曲第一番」 岸田氏とオーケストレーションを共同制作された三浦秀秋さんのツイートまとめ(追記あり) - Togetterまとめ

今話題のキュレーションサイトですが、京響のコンサートのプログラムには、岸田繁がMIDIで作成したデータを楽譜化した三浦秀秋について、プロフィールも実際の作業に関する具体的な言及もなく、そのことが、かえって事情をわかりにくくしたように思う。

作曲家がMIDIデータを用意して、オーケストレーターがこれを楽譜化する、というタイプの分業は、ポピュラー音楽系の現場でオーケストラを使うときにはそれほど珍しいことではなくなりつつあるのかもしれないが、クラシック音楽系の人間には、まだ実態がほとんど知られていないのではないか。

ここでまとめられている情報は、演奏前に聴衆に伝えておいたほうがよかったと思う。

鞭と拍車

カトリックの鞭と騎士道の拍車が結合したエリート教育、躾の形があるように思う。三島由紀夫や柴田南雄の育ち方を見ていると、日本のエリートにも鞭と拍車が注入されている印象がある。

文化と暴力の問題としては、鉄拳制裁からヤンキー文化へ至る系譜と同じかそれ以上に、武士道を鞭と拍車に変換する明治以後のエリート教育の秘教的な側面が重大かもしれない。保守がリベラルに負けないと信じる支えはこれだと思う。

卑近な例としては、東大生の性格の悪さ。あれは、他人を鞭打ち、他人に拍車を当てるのを当然の護身術だと思っているのではないだろうか。

SNSでは、にわかにベルトルッチが話題のようだが。

西欧化・都市化・近代化

ポストモダンからカルスタ・ポスコロに進む議論のなかで、しばしば、「近代化を西欧化と混同してはいけない」と指摘された。日本(アジア)には日本の近代化があるはずだ、ということだと思う。

それはいい。

でも、そのようにブラッシュアップされた近代化論が、なにやら議論の型、「スタイリッシュな文体」(←同語反復)となり、同語反復的な言論が「再帰性」というマジックワードで補強されるに至ると、この人たちは、なるほど西欧化の罠をまぬがれているかもしれないけれども、近代化の語を今度は都市化(おしゃれなシティーライフ)と混同しているのではないか、という気がしてくる。「先端研究」は都市の特権ですよ、みたいな。

都会に憧れる田舎者と、都会の遊び人の野合・結託である。

オルタナティヴ・クラシック:和樹とくるりと「ヒロシマ」と「KYOTO」、そして「ニッポン」と「日本」

先の京響のロームシアターの演奏会を、『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』の能登原さんが聴きに来ていた。ロック・ミュージシャンの交響曲ということで、佐村河内から岸田繁へ、という流れを私は事前に漠然と考えていたので、なるほど彼女が来るのは筋が通っているな、と思った。

キワモノとして葬り去られることのない形で、いわば「オルタナティヴ・クラシック」を育てるとしたら、そういう文脈を構築していいだろう(吉松隆が佐村河内/新垣を強力に擁護したときに構想したのはおそらくそういうヴィジョンのはずだ)。はたして、いつか誰かが『KYOTOが鳴り響くとき』という書物を書くことになるのかどうか、わかりませんが。

月9 101のラブストーリー (幻冬舎新書)

月9 101のラブストーリー (幻冬舎新書)

一方、『くるりのこと』を読みながら、もしかすると岸田繁は指揮者の山田和樹と同世代じゃないか、と思って確認すると、岸田が1976年生まれ、山田が1979年生まれ。どちらも1970年代後半/昭和50年代前半生まれ、と見てよさそうだ。タイアップJ-POP全盛期(それは「月9」全盛期でもある)の体験をもとにポピュラー音楽で論陣を張った1970年代前半/昭和40年代後半生まれとは見ている景色が違っていて、そこが頼もしい、と私には思える。彼らはクラシックとポップスというジャンルの境界についての意識が違うし、聴き手/消費者の立場に籠城する(そして学会でツルんで肉を食う(笑))のではなく、自ら声を発し、制作者の立場を堅持するところが、80年代を引きずった90年代の音楽産業をゼロ年代にオーソライズした「キラキラ系」とは違うカルチャーだと思う。

山田和樹はこの交響曲に興味を持たないだろうか? 誰か彼にこの曲を教えてあげてください。

もはやゼロ年代ではない。とっちらかった音楽シーンをできるところから修復しましょう。

「ヒロシマ」が鳴り響くとき

「ヒロシマ」が鳴り響くとき

くるりのこと

くるりのこと

「海道東征」信時潔 作品集

「海道東征」信時潔 作品集

  • アーティスト: 横浜シンフォニエッタ山田和樹,三縄みどり,澤村翔子,兼武尚美,大澤一彰,春日保人,「海道東征」合同合唱団,熊本県庁合唱団,山田和樹,左座守,横浜シンフォニエッタ
  • 出版社/メーカー: オクタヴィアレコード
  • 発売日: 2016/04/22
  • メディア: CD
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追記:

「ヒロシマ」や京都との関係で言うと、山田和樹の拠点が東京ではなく横浜のオーケストラで、東京の拠点がオーケストラではなく合唱団(東京混声)だ、というズレが気になる。広島・京都・横浜という東京に対するオルタナティヴが新しいカルチャーの当面の足場になっているかのようだ。山田の欧州での職場がジュネーヴやモンテカルロだ、というのが同じ文脈なのか、そうではないのか、まだ、わからないけれど。

追記2:

そしてこの新しい動きは、渋谷に事務所を構えて、この島のカルチャーを「ニッポン」とカタカナで表記する戦略で色々なことを書く佐々木敦の時代が終わったということでもあると思う。「ニッポン」は2010年代、東北の地震以後の現在において、再び「日本」に戻った。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

くるりのこと

これもロームシアターのツタヤで買った。ゼロ年代にかっこよくこのバンドを推した論客な方々の感想が知りたい。

くるりのこと

くるりのこと

ロームシアターのコンサートには立命館大学広報部名義の花が出ていたが(3つある花輪のひとつなのでかなり目立つ)、こういう抜け目のないオトナたちのネットワークが張り巡らされているから、このバンドは「成り上がる」のではない形でメジャーになったんだと思う。それがゼロ年代。

Melodram と Melodrama

京都のロームシアターに早く着きすぎたのでツタヤに入ったらこの本があった。

去年でていたようだが知らなかった。「メロドラマとは?」とあれこれ事典の記述を検討するのであれば新しいMGGは踏まえておくべきだろうと思うけれど、語りと音楽という演劇形式としての Melodram と、19世紀イタリア・オペラに端を発すると思われる「お涙頂戴」の作劇術としての Melodrama をつなぐのは、絶対音楽とは別の種類の「言葉にならないもの」でしょうね。

メロドラマ・オペラのヒロインたち

メロドラマ・オペラのヒロインたち