芸術と政治的抵抗

仮に西欧では今も芸術が政治的抵抗として擁護されているとして、それはどのような社会的文脈でそうなっているのか、そして普遍的・世界的に模倣追随できる立場なのかどうか。

年寄りにとっても無関心ではいられないこの疑問を若手にばかり期待して丸投げするわけにはいかないように思うがとうか。

ミスター・ゲームマンよ、紋切り型のレトリックを取り払って議論しようじゃないか。

例えば先の台風では、交通機関が普通に運行していた昼間に普通に開催された公演のほうが多く、けたたましい警告を先取りして対応する主催者は少数派だったようだが、これは抵抗の論理で説明できるのだろうか。

むしろハスミ元総長が好きな三塁打やフェンスに達するゴロに近い何かのような気がするのだが。

リヒャルト・シュトラウスの山越え

アルプス交響曲は後半の嵐のなかに牧場の主題や泉の主題が前半とは逆の順序で出てくるので、往路と同じ道を下山するストーリーになっていることがわかる。

アルプス(ドイツ・アルプスのツークシュピッツェ)を「越えた」わけではなく、頂上まで行って戻って来たわけで、このストーリーはサロメとエレクトラで切り開いたアヴァンギャルドへの道を「ばらの騎士」で懐古趣味・モーツァルト主義へ引き返した「保守派」に似つかわしい。

でも、本当にそうなのか。

夜明けの壮大な序奏(映画のオープミングみたい)のあとに出てくる「ソ・↑ミb・↑ソ・↓シb・↑ラb・↓ファ・↑シb」が、長和音(ソ・↑シb・↑ミb・↑ソ)を一段飛ばし(ソ・↑ミb・↑ソ)で駆け上る山登りのモチーフをメインテーマとして構成された「シンフォニー」なはずなのに、頂上では、小さな十字架の前で祈るようなオーボエのあと、「幻影」で滝壺に映った影として予告されていた山並みの稜線のようにジグザグに動く主題(ソ〜↓ミ〜↑ソ〜↓レ〜↑ソ〜↓ド)と、こちらは序奏の日の出で導入されていた太陽の主題(ド〜シ〜ラ|ラ〜ソ〜|ラ〜ソ〜ファ|ファ〜ミ〜……)しか出てこないし、そのあとの下山は、登山の主題が真っ逆さまに反転して転落する展開部風の場所ですよね(レb・↓ファ・↓レb・↑ラb・↓ド・↑ミb・↓シb・↓ラb・↓ソb)。そして地上に戻ると、一日がかりの登山を回想するコーダになってしまう。

初期の「死と変容」の死後の浄化(そこでは死の床の主題群が消えてなくなる)とはまた違ったやり方で、アルプス交響曲においても、山を登って下りる過程でシンフォニーのエンジンであるはずのソナタ形式が別のものに変質してしまっているように見えます。

では、ソナタ/シンフォニーが何に変質したのか。

ポイントは、作品の前半の主役であったはずの山登りの上昇主題が三和音(ミb・ソ・シb)や七の和音(シ・ファ・ラb)を基礎にしているのに対して、

(さらに言えば、曲中で何度も響く角笛は長三和音の六度付加(ド↓ソ・↑ミ↓ド〜↑ラ↓ソ[=「アルプスの少女ハイジ」のオープニングのホルンとほぼ同じ音の配置]だし、印象的な滝の描写もトランペットの高音域のD-durの三和音ですね)

冒頭と最後の宵闇は短調の下降音階、太陽の主題は、何度か節が付いているけれど、長調の下降音階です。

アルプス交響曲では、人間界=上行する三和音が、大いなる自然=下降する長短音階に取り囲まれています。

  • 天空の太陽=最高音から下降する長音階
  • 人間界=三和音
  • 夜の闇=最低音へ下降する短音階

で、こういう風に作品内に複数の音素材をコスミックに割り付けるのは、新ドイツ派の交響詩やワーグナー派の楽劇というより、印象派ドビュッシーに近い発想だと思う。

ドビュッシーやラヴェルの刻々と表情を変えて移ろう水・海の音楽と、リヒャルト・シュトラウスの屹立する山・岩の音楽は対照的だけれど、従来の調的和声音楽とは別のスタンスで音素材を取り扱う手つきを、シュトラウスは彼なりのやり方で取り入れようとしているように見えます。

(そもそも、曲の冒頭で短音階が積み重なっていく合成音は、ドビュッシー風の「ペダルを踏んだオーケストラの響き」ですよね。)

20世紀の「保守」や「折衷」に分類される音楽は、19世紀までの調的和声音楽とほぼ同じ素材を使い続けてはいるけれど、それを取り扱う手つきと態度が違っている。リヒャルト・シュトラウスは「前衛の橋」を渡ることはなかったけれど、アルプス交響曲のあたりで、彼もまた世紀の転換という山を越えて、もしかすると映画音楽あたりと地続きかもしれない20世紀の新しい平野に足を踏み入れたんじゃないか、という気がします。

(そしてアルプス交響曲のことを人前でお話しした(といっても、ここに書いたことを全部十全にご紹介はできませんでしたが)その夜のブラタモリは「高野山」で、そういえば、大栗裕は「雲水讃」という御詠歌が出てくる曲の自作解説で、「中学生の頃、高野山に行って、将来は僧侶になりたいと思ったものだ」などと書いている。1960年代の「雲水讃」や役行者に思いを馳せた「呪(ジュ)」、晩年の恐山のイタコを扱った「巫女の詠えるうた」は大栗流の山岳音楽だと思いますが、西欧文化における山(アルプス)と、日本の山岳宗教都市高野山は、山といっても随分違うようでもあり、山に登って降りてくると何かが変容してしまう、というのは、共通の何かがあるようでもある。大栗裕の「親分」だった朝比奈隆はアルプス交響曲が大好きだったわけですが。)

AIと中庸と脳筋

たぶん、「中庸」「ほどほど」は、それが成果を上げているとしたらAIに学習可能だと思う。

GoogleのAIの碁は全然「原理主義的」ではないし、AIの着手が「原理主義的」だったら、プロ棋士たちがAIを「先生」と呼んで学ぼうとはしないと思うんだけどなあ。(誰に言うともなく。)

ところで、最近「脳筋」という言葉を覚えた。「脳味噌が筋肉」、体育会系を揶揄するゲーマー用語であるらしく、私には、その類義語とされる「レベルを上げて物理で殴ればいい」がさらに興味深く思われた。

「脳筋」は自嘲的に蔑まれている気配がある一方、「レベルを上げて物理で殴る」はクソゲーの真理として淡々と遂行されるようだ。

人間たるもの、「レベルを上げて物理で殴」られないようにしたいものである。

オーケストラと雅楽・邦楽

ということであれば、大澤壽人のコントラバス協奏曲の緩徐楽章がフルートに微分音を吹かせて龍笛を模倣しているのは、面白いサンプルではないかと思います。武満徹と黛敏郎が全然違う音楽を宮内庁楽部のために書いたように、戦前の作曲家の雅楽・邦楽へのアプローチも近衛秀麿(越天楽)と大澤壽人では随分違う。

(コントラバス協奏曲は楽譜が出版されるようですね。)

……と雑談しつつアルプス交響曲について人前で話す準備をしていて、カラヤンのかっこいい映像をみながら、この曲はソルフェージュがしっかりしている山田和樹におあつらえむきだろうなあ、きっといつかやるだろうなあ、と思っております。

管弦楽曲の自作自演:指揮者としての大澤壽人

20世紀音楽史を捉え直すときには、単体の作曲技法史から演奏との関係を加味した視点にシフトする必要があると思う。

ざっくり言えば、19世紀以前の西欧の音楽は自作自演が前提になっていて、一方、20世紀後半の音楽は作曲(設計図を書く仕事)と演奏(図面に従って音を鳴らす仕事)の分業が前提になっていると思う。

(山田耕筰は自作自演でオーケストラ運動を作曲・演奏の両面で推進したが、武満徹は自作を指揮しない。)

[追記:石井真木はスイス・ロマンド管を指揮したりもしていたようで、そういえば彼は、山本直純の代役で「オーケストラがやって来た」をしばらく司会して、指揮もしていた。もしかすると、「石桁眞禮生→小林研一郎→山田和樹」という東京芸大の系譜は、作曲と指揮の分業などというのは20世紀後半の未熟な民間人の習俗で、今も昔と変わらず、作曲と指揮/演奏は両立できるのが本道である、ということを身をもって示す立場なのかもしれない。作曲と演奏の分業は、20世紀後半の特徴ではあっても、はたしてあともどりできない不可逆的な潮流なのか、それとも指揮者/演奏家が過剰に「スター化」した20世紀後半の一過性の現象だったのか、それはまだわからないと言うべきかもしれません。が、それはともかく、]

20世紀前半のオーケストラ音楽は自作自演できるかできないかの分水嶺になっていて、R. シュトラウスやエルガーは、自作自演できるラインに踏みとどまることで「保守派」と呼ばれ、ストラヴィンスキーは、旧作を自分で指揮してみて、こんなの難しすぎて無理、と開き直ったところが時代を先取りしていたのかもしれない。シェーンベルクやウェーベルンは、アホな客を会場から閉め出して、採算度外視にリハーサルを繰り返して自作自演にこぎつけた「不可能性の音楽」ですよね。

(ピアノ音楽も、スクリャービンあたりから、暗譜で弾くことができるかできないか、ギリギリの領域に突入するようです。)

大澤壽人は、(ピアノ曲の自作自演はできなかったけれど)管弦楽作品をボストンでもパリでも日本でも「自作自演」した音楽家ですね。東京の橋本國彦もたしかそうだったはず。彼らは、そういう意味でも時代の先端・臨界に達していたのかもしれない。

(大澤壽人のスコアは、現在の日本の指揮者でも、誰もが手を出せるわけではない代物だけれど、作曲者は自分で振った。彼はボストン響やパリのオーケストラを体験したあとで新響の指揮台に立って、弦楽器の音を「マンドリン・オーケストラみたいだ」と言ってしまって楽員と軋轢が生じたらしい。)

大澤壽人のスコアがどういうものなのか、ということはこれでかなりわかってきたので、次は、オーケストラ指揮者としての大澤壽人が問われる段階かもしれませんね。貴志康一や朝比奈隆、山田一雄や尾高尚忠と比較したときに、大澤壽人は指揮者としてどうだったのか?

(分厚いスコアを書いたシューマンはデュッセルドルフの音楽監督をやって、どうやら指揮はイマイチだったらしいですが、大澤壽人は「指揮は余技」ということでもなかった感触がある。戦争中は大阪の放送管弦楽団や合唱団の看板指揮者で、戦後は次々自前のセミ・クラシック楽団を組織していますから、書斎の作曲家ではなく、団体を率いる力があったと思われます。)

映画音楽と読み替え演出

ふと思ったのだが、「2001年宇宙の旅」で人類の誕生にシュトラウスのツァラツストラを使ったり、「地獄の黙示録」でベトナムの空爆にワーグナーのワルキューレを使うのは、20世紀末のドイツの演出家たちのいわゆる「読み替え」の遠い源流のひとつだったりしないだろうか。

クラシック音楽(とりわけドイツの重厚壮大な交響楽)はおよそ現代社会に居場所のないオールドファッションだから別の文脈に移植してしまえ、という発想は、劇場で自律的に育ったというより、映画がおそらくサイレント時代からずっとやっていたことで、映画で育った世代が文脈変換の技法を劇場に還流させて「読み替え」が誕生したと説明したほうが、わかりやすかったりするかもしれない。

熱線と光線/オーケストラの魅力と限界

ゴジラが口から吐いていたのは、のちの特撮映画のヒーローたちのような光線ではなく、熱線(白熱線とか放射熱線と呼ばれるらしい)なのだそうですね。

火炎放射は第二次世界大戦で実際に米軍が硫黄島などで使っていたようで、ナチスはサーチライトによる光の演出を好んだことが知られているけれど、レーザー装置は1960年頃ようやく実用化されたらしいので、初代ゴジラの時代は、まだ「光線」がフィクションの有力なアイテムにはなっていなかった、という理解でいいのでしょうか。

「みず」や「ほのお」や「こおり」や「でんき」や「かくとう」に分類されたモンスターたちがそれらしい「わざ」を身につけるなかで、「ノーマル」な種族が「こうせん」を体得するのはどういう世界観なのだろう、と、ポケモンの設定が気になったに過ぎないのですが、

でも、強引に音楽の話に接続するとしたら、

合唱やピアノや弦楽四重奏が同質のサウンドで音楽を組み立てる一方で、オーケストラは、様々な種(別々の「わざ」を身につけているような)の組み合わせだと言えなくはないかも知れない。

いずれも山田和樹の指揮で、東京混声のコンサートを大阪(いずみホール)、大澤壽人の満艦飾のオーケストラ作品を東京(サントリーホール)で続けて聴くと、昭和の作曲家たちがオーケストラに夢中になって、これこそが西洋音楽の本丸だと考えたのは、グローバル・スタンダードを受け入れる「近代化」とは少しずれる衝動だったのではなかろうか、と思えてくる。

オーケストラで天下を取る、というのは、いかにも「男子一生の仕事」な感じがするけれど(そしてこの仕事が昭和の関西では大澤壽人から朝比奈隆や大栗裕に受け継がれてその先に現在があるわけだけれど)、合唱には、それとは違うかけがえのなさがあるように思う。

大澤壽人が、ボストン留学から戦後亡くなるまで、「ソナタ形式で作曲する」という態度を貫いたことも、モダニストといいながら、やっぱり時代の子だったんだなあ、と思いました。

大澤壽人演奏会がゴジラの片山杜秀プロデュースだった一方、合唱演奏会のほうは、今回、二人の女性作曲家の作品を取り上げて、ピアノ、オルガン、バレエのゲストも女性だったんですよね。

(大澤壽人も大栗裕も、放送の仕事になると「ソナタ形式の呪縛」から解放される。当時は「ソナタ形式の音楽」のほうが重要だったかもしれないけれど、彼らがそこから解放された領域で何をどこまでやれたのか、ということのほうが、今の私にはむしろ気になる。)

放送音楽作曲家たちの咀嚼力

大澤壽人が留学から戻って東京と大阪で数度開いた自作自演オーケストラ演奏会の批評を見ると、東京では同業者が新参の洋行帰りの足を引っ張るようなことをして、関西では、耳の悪い評論家が同時代の音楽にお手上げで、「理解できない」としか言えない、という昭和の風景が既にこの頃からはじまっていたことがわかる。

大澤壽人の「神風」協奏曲の初演を批評した吉村一夫は、朝比奈隆と一緒にメッテルに音楽を習った人で、戦後、音楽クリティック・クラブに設立から加わって、関西の音楽評論家のまとめ役のような存在になった。

ベートーヴェンの7番で「指揮がオーケストラの後追いで拍を打っているように見えた」と吉村は指摘するが、こういう現象はアマチュアのオーケストラではしばしば起きる。このケースでは、オケがいわゆる「走る」状態になったのではないかと思う。戦後、京大アマオケ出身の朝比奈隆とその周囲の人たちがヘゲモニーを握った関西のオーケストラ運動では、「走っても、盛り上がればよし」という風潮がなかったとは言えないように思う。吉村の大澤評は、天にツバしているように見えなくもない。(京大オケや朝比奈隆だって似たようなものじゃん、ということです。)

慶応マンドリン出身の服部正が最初から大澤壽人を応援しているのは、若い世代の共感だったのかもしれないし、大澤も服部も、のちに放送音楽に積極的にコミットする。映画や放送の仕事をした人たちのほうが、むしろ同時代の多様な音楽への柔軟な咀嚼力があったのではないか。

このあたりも、電子音楽や実験音響が放送や大衆音楽で活性化する戦後の風景(いまや戦後の音楽を論じて一番元気がいいのは電子音楽の川崎さんと映画音楽の小林さんでしょう)を準備しているように思う。

(せっかく放送業界に入った東条さんがワグネリアンを自称して朝比奈のブルックナーを担ぎ、バイロイトのカストルフ(先に美学会機関誌にとても面白いカストルフ論が出た)を毛嫌いする、というのは、全盛期の放送音楽の進取の気風とは真逆の歩みなんだよねえ……。)

大栗裕も戦後デビュー前に大澤壽人とコンタクトを取ろうとした形跡がある。天王寺商業学校在学中に朝日会館でこうしたコンサートに通って、アルバイトで映画撮影所にもぐりこんだ少年時代の大栗裕は、服部正と同じように大澤壽人に羨望の眼差しを向けていたのではないかと思う。そんな服部と大栗が1950年代から60年代に、東の慶応と西の関学でマンドリン・オーケストラの音楽物語を作ったのは、偶然ではなさそうに思う。

(そういえば、大澤壽人が戦時中に指揮したベートーヴェンの第7番を聴いた思い出を、先日、あるご高齢の紳士からお伺いしました。メッテルを信奉する朝比奈隆とその周辺の人たちからはdisられたけれど、関西の音楽好きの大学生から、大澤壽人は歓迎されていたように思われます。)

天才作曲家 大澤壽人――駆けめぐるボストン・パリ・日本

天才作曲家 大澤壽人――駆けめぐるボストン・パリ・日本