「新日本音楽」の現在(3) プレイヤー重視のゲーミフィケーションとマイノリティ・ポリティクス

20世紀の文化相対主義から世紀転換期のグローバリズムへ、という状況の変化の文化論的な側面(ポスト・コロニアリズムと言われるような)については(1)で私の考えを述べたが、ここでは、「新日本音楽」の経済(「帝国」と形容されるグローバル資本主義)と政治(新しい公共性、政治的に正しいマイノリティ・ポリティクス)を考えたい。

グローバル資本主義は、ごく単純に、「採算の取れない興行はつぶれて当然である」という非情な文化政策に帰結していると思われ、洋楽であれ邦楽であれ、音楽興行は合理的なマネジメント、効率的な売り込みを心がけるようになっている。

資本主義的な採算重視・効率重視といえば、言うまでもなく「お客様重視」(買っていただけるものを優先的にご提供する)なわけだが、ライブ主体の音楽では薄利多売に限界があるので、何らかの希少価値を見いだして音楽をブランディングすることになる。そして手っ取り早いブランディングの方法としては、実際に舞台に立つプレイヤーに焦点を当てる動きが加速しているように見える。「何が上演されるか」ではなく、「誰が/どのように上演するか」というところで付加価値を競うのが、音楽興行というゲームの現在の主流だろうと思われます。

(このような形で興行を構成すると、音楽興行は、「お客様」が同時に「プレイヤー」であるようなゲームに接近して、ゲーミフィケートしやすくなる。これも、現状ではメリットと見られているかもしれませんね。)

「作品」の解釈であるとか、「伝統」の継承であるとか、というようなまだるっこしい営み(目の前にいる「客」と「プレイヤー」の関係でゲームが閉じない構造)は、効率が悪いから、やめられるものならやめてしまいたい。

(例えば、増田聡先生のような人が著作権と日常言語分析の両面から「作品」を攻め立てて、パクリ上等というゲリラ戦を推奨するのも、目の前の当事者との切った張ったで勝負を決めてしまいたい、ということなので、ほぼ、この枠組で説明がつくことだと思われます。)

「新日本音楽」が、(1)で述べたように、「伝統」を崩してしまって、(2)で述べたように、もはや共演者すらいない「弾き語り」を目指した場合、音楽興行は、実に分かりやすく、「客」と「プレイヤー」の直接的な切った張ったで完結する。

私には、このような動向は現在への過剰適応であって、少しでも状況が動けば崩れる「一代限り」(時代の徒花)に思えますが、こういう動きに周囲が異常なまでに共振してしまうのは、わからないことではない。

ただし、このように現在の状況に十分すぎるほど適応してしまっている現象は、もはや、「日本固有の地域性・マイノリティ」として特別に保護されるべき案件ではなくなっているように思う。一連の考察の最後に、そうした「新日本音楽」の「政治」を考えたいのですが、既に長くなったので、これは次のエントリーに分けることにします。