情報源の秘匿とオープンソース

演奏家に焦点を当てて、音楽を「イベント」化する動きに違和感があるのは、演奏家が拠り所にしている情報源(クラシック音楽流の楽譜=テクストであれ、邦楽流の伝統であれ)を聴き手から隠そうとする感じがするからではないかと思う。「イベント」で「プレイヤー」へと注意を集めると、まるで「プレイヤー」がイベントの中心であり、出来事の源泉(光源)であるかのようだけれど、実際には、プレイヤーは楽譜/テクストであれ伝統であれ、背後の光源によって輝いているに過ぎない。「プレイヤー」の存在だけをクローズアップするのは、光源をプレイヤーが聴き手の視界から隠してしまう皆既日食のような感じがする。

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でも、通常、聴き手もまた、プレイヤーを介することなく、自力で情報源にアクセスできる。自力で楽譜/テクストを読んだり、当該の伝統に知的もしくは体験的にアプローチすることが可能ですよね。そしてそのような知見を前提にして、目の前のプレイヤーのパフォーマンスを、様々でありうる実装のひとつであると受け止める。ソース・情報源に対して、プレイヤーとリスナーは同格だと思う。

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おそらく、オープンソースではない芸能は衰退する。

演奏家重視への違和感だけでなく、多くの芸能が一般人の「お稽古・習い事」に門戸を開いているのはどうしてなのか、アマチュア/ディレッタントとは何なのか、ということも、観察モデルを変更することで、説明が容易になるのではなかろうか。

20世紀にアンプで増幅したり、電波で放送(散布)したり、音楽をめちゃくちゃ遠く/広くまで飛ばすようになって、ソースにアクセスできないところまで音楽が広がってしまったけれど、音楽のコアのこのような構造が変わったとまでは言えないのではなかろうか。情報へのアクセスは、むしろいわゆる「情報社会」で容易になっているのだし。