金子みすゞと「子どもの誕生」と疑似著作権

金子みすゞの詩は長らく忘れられていたが、岩波文庫『日本童謡集』の「大漁」を読んだ詩人の矢崎節夫らの努力で遺稿集が発掘され、1984年に出版されるや、瞬く間に有名になった。翌年の東京大学の国語の入試問題(1985年国語第二問)には「積もった雪」「大漁」が採用されている。

1984年にJULA出版から全集が刊行されたことで、金子みすゞはにわかに知られるようになったらしい。中田喜直が1989〜1991年に「ほしとたんぽぽ」を作曲したのも、この流れに乗り、流れに棹さしたと考えてよさそうだ。

どうして80年代にこういうことが起きたのか、ちょっと気になる。大栗裕の吹奏楽作品が関西の吹奏楽指導者たちの手で死後急速に普及したのと、ほぼ同じ時期であり、1980年代に、児童・中高生が「市場」もしくは「メディア」として発見されたことを示す事例のようにも見える。

(80年代に「子どもの誕生」が喧伝されたことは、単に近代の見直し/カルスタを加速しただけでなく、ほぼそれと同じコインの裏表として、オトナたちが同時代の「子ども」を「発見」したのかもしれない。)

金子みすゞの作品そのものの著作権は作者であるみすゞの死後50年を過ぎており消滅しているが(著作権の保護期間参照)、作品集を出版しているJULA出版局を窓口とする「金子みすゞ著作保存会」[6]は、みすゞ作品を利用する際には同会の許可を得るよう求めている。その理由としてJULA出版局は、著作の大半が生前未発表であったこと、ならびに未発表作品を一般に広めるきっかけとなった『金子みすゞ全集』(JULA出版局)による二次的著作権の存続を挙げている。このこともあり、みすゞ作品は青空文庫にも収録されていない[7]。

80年代的な「死後の再発見」は、しばしばこの種の生臭い問題を発生させる。

芸術の学会が著作権を語るのであれば、実はこのあたりが、その後のサブカル的な「パクリ」問題の開花以前の苗床として、結構重要なのではなかろうか。

関根敏子

そういえば、彼女は先の関西歌劇団公演を観に来ていたが、終演後、帰りの時間の都合なのか、あっという間に会場を出た。

(混雑する前に会場を出ることにしている私より、さらに前に退出する早業だった。)

ご自身の日本オペラ史の関西歌劇団関係の記述は色々間違いがあって困ったことになっているわけだが、今彼女は何をどう思っていらっしゃるのでございましょうか。

日本オペラ史1953〜

日本オペラ史1953〜

赤い陣羽織:補遺

東条さんは、おそらく関西歌劇団関係者か林誠に楽屋かロビーで訊いたことをブログに書いているのだろうけれど、いくつか情報に曖昧なところがある。

まず、「赤い陣羽織」を「白狐の湯」と組み合わせた上演は、初演後、既に何度か行われています。つまり、この二本立ては初演以来今回が久々の蘇演というわけではないし、「白狐の湯」が初演後最初の再演だというわけでもない。

それから、林誠がおやじを歌ったのは、1970年代に東芝EMIでこの作品がレコーディングされたのに合わせた舞台上演が最初だったはずなので、既に初演(1955年)から四半世紀経ったあとです。

当時まだ1955年の初演時の歌手の何人かは現役で、初演時の演出がそのまま残っており、林誠は、オリジナル・キャストの中に、いわば「二代目」として参加する形だった。他の役についても、関西歌劇団は同様に後継者を補充しながら上演を繰り返すことで、武智鉄二の「原演出」(いつしか関西歌劇団公演ではそのように表記されるようになった)を伝承して、今日に至っています。(初演以来亡くなるまで関西歌劇団を切り盛りした野口幸助(「白狐の湯」初演にも参加した関西歌劇団のプリマ・ドンナ樋本栄の夫)や、初演時に神戸大学生で「白狐の湯」のプロンプターを務めた演出家の桂直久(「赤い陣羽織」で初演以来長くおかかを演じ続けた桂斗伎子の夫)らが、こうした関西歌劇団の「伝統」の守護者だったと推察されます。)

だから、林誠だけが当時を知っていて、それを他の若手に伝えた、というのは、ひょっとすると林誠はそのような意識でやっていたのかもしれないけれど、事実とは少し事情が異なります。

(ビデオで公演を記録するようになった1980年代以後、いくつか記録映像が残っているけれど、残念ながらオリジナル・キャストの映像は、少なくとも私は観たことがない。音については、昭和30年代のラジオ放送の録音が残っています。)

これは東条さんだけのことではありませんが、最近の「プレス」なるものは、広報ベースで、主催者・当事者の言うことを鵜呑みにしすぎるきらいがある。それは、正確さを求める行動というより、責任逃れだと思う。

主催者・当事者がそう「言っている」のだから、私が間違ったのではなく、責任は私にそのように説明した人たちにある、というわけだ。

でも、そんな上意下達な姿勢では、報道も批評も、もちろん、学問も成立しないよ。


この作品の武智鉄二の演出では、脇役たちがそれぞれに「型」をもっている一方で(例えばお代官は人形風にカクカク動いて、その奥方は歌舞伎の女形風である等々)、おかか役は自由に動く「人間」である、と設定されていた形跡がある。ヒロインだけが別世界の存在だ、というわけで、そこは、夕鶴でのつうの扱いを連想させるところがある。(武智鉄二は「赤い陣羽織」を手がける前に、夕鶴を能様式で上演している。)

ただ、そうなると、おやじの立場は曖昧になる。お代官と入れ替わるけれど、それじゃあ入れ替わる前の素のおやじとはどのような存在なのか、というと、たぶん、おやじにも「型」はない。「型」ではなく、ドラマ上の文脈によって、どこでどう動くか、ということが定まっているように思われます。おかかは自由人だが、おやじは機能的な存在なのかもしれない。

林誠が、「これがおやじの型だ」と信じているものは、ドラマのなかで定まっていった動き・位置が事後的・二次的に「型」に近い何かへと慣習化したのだと思う(第1場で脚立に上がって孫太郎と絡みながら色々小芝居するところとか、第2場での着替えの段取りとか)。今回の上演では、最後に歌舞伎めいた口上を林誠が述べていたが、林誠自身は、おやじの役柄を歌舞伎的な何かだと認識しているのかもしれず、そこがちょっと面白いと思いました。

(歌舞伎というのも、先行する能狂言や人形浄瑠璃を摂取しながら、「型」めいた何かがあとから伝承のなかで生成して今日に至っているわけで、あとから加わったメンバーであった「二代目」林誠が、武智鉄二オリジナルだと信じつつ、そうとは言い切れない何かを生成・慣習化しつつあるところは、どこかしら歌舞伎役者風ではあるかもしれない。)

ちなみに、三越劇場の初演時の「赤い陣羽織」は、当時の舞台写真や新聞報道をみると、衣装や主な小道具はその後伝承された通りだけれど、金屏風があったのかどうか、はっきりしない。創作歌劇は、1幕ものでキャストが少なくオーケストラも小編成で、あまりお金をかけない「軽装」で、という趣旨だった。和物の衣装や小道具は、おそらく当時は、洋装よりも手軽で安上がりだったのではないかと思う。

今では、和物のかつらや衣装やメイクを揃えるのは大変なことですね。

「白狐の湯」がシンプルな舞台で、あまり大仕掛けなことができなかったのは、「赤い陣羽織」の上演が実際にやってみると結構大変だったからではないだろうか。

武智鉄二と代々木忠

ところで、武智鉄二は「白日夢」のリメイク版を撮るときに、女優のキャスティングで代々木忠のところへ相談に行った、という事実があるらしい。

またもや妙な偶然ですが、そんなことを、「赤い陣羽織」を観に行く日の朝に知った。

白狐の湯

歌劇「赤い陣羽織」は何度か見る機会があったけれど、1955年の初演を踏襲した「白狐の湯」との二本立ては初見。([追記] 関西歌劇団の「赤い陣羽織」を「白狐の湯」と組み合わせた上演、つまり「白狐の湯」の再演は過去にも例があり、これが初演以来始めてのカップリングというわけではないけれど。)

赤い陣羽織は武智鉄二演出を踏襲する関西歌劇団の十八番なので面白いに決まっているわけで、改めて、木下順二に勢いがあった時代に夕鶴(山本安英/団伊玖磨)とは全然違う可能性を民話劇から引き出した武智鉄二/大栗裕は凄いと思う。

(昭和の左翼インテリには、それだけの振り幅があったということですね。)

その上で、武智演出をデフォルメしたり(林誠)、趣旨を踏まえつつ別の演技スタイルで処理したり(清原邦仁)、演出をすっかり入れ替えるのとは違う種類のヴァリエーションが生まれつつあるようですね。

(遂に関西歌劇団のアカジン演出が武智鉄二に私淑した桂直久の手を離れた、ということでもある。桂直久のアイデアでのちに付け加えられたと伝えられる第2場冒頭のスポットライトは踏襲されていましたが。)

白狐の湯は、そもそも谷崎潤一郎の戯曲が成功してそのあとに継承された演目ではないし、舞台上の出来事と連動しない長台詞(=近代劇・新劇の特徴)に劇場でつきあう習慣が今は失われているのだから、よほど演出・見せ方を工夫しないと成立しないように思う。

(でも、ワーグナーやシュトラウスの楽劇の台詞を日本語訳して台詞劇として上演したら、これに近い感じがするのではないか、とも思う。近代劇・新劇を前提とする音楽劇を、音楽(要するにオーケストラ)の面白さで評価する、というだけでいいのか、歴史認識として、台詞に全面的に依存する音楽劇が、つまらないけれども演劇とはそういうものだ、と思われていた時代があったことを忘れてなかったことにしてしまうのはためらわれます。20世紀=昭和の時代には、退屈な長い語り、というものが存在したのです。)

「白狐の湯」で、女狐が「こん〜〜やは」と、「ん」の音を長く伸ばすのはちょっと面白かった。日本語の「ん」の扱いという問題の面白いサンプルだと思う。

あるオペラ歌手から、ピアノ曲や器楽のモーツァルトとオペラのモーツァルトは別人に思える(=モーツァルトの器楽は「古典派スタイル」に収まってしまうけれど、モーツァルトのオペラはそういうお行儀のいい様式美を踏み越えている)という話を聞いたことがあるけれど、大栗裕も、オペラを書くと、管弦楽や吹奏楽のときとは別人のように何かのスイッチが入るところがあったのかもしれない。赤い陣羽織や夫婦善哉のオーケストラは、異様なまでに豊かで饒舌だと思う。そして、朝比奈隆が指揮していた作曲者の生前よりも、今の指揮者・演奏家のほうが、大栗裕の総譜の豊かさを正確にフォローできている気がします。

先の山田和樹指揮による大澤壽人コンサートでも思ったことですが、日本の近代洋楽には、まだちゃんとした演奏に恵まれることなく埋もれているスコアがたくさんあるんじゃないか。

関西歌劇団の武智鉄二創作歌劇で言えば、「修禅寺物語」と「卒塔婆小町」は、誰かが決定版になりそうな録音や上演を達成して欲しいものだと思っております。

芸術と政治的抵抗

仮に西欧では今も芸術が政治的抵抗として擁護されているとして、それはどのような社会的文脈でそうなっているのか、そして普遍的・世界的に模倣追随できる立場なのかどうか。

年寄りにとっても無関心ではいられないこの疑問を若手にばかり期待して丸投げするわけにはいかないように思うがとうか。

ミスター・ゲームマンよ、紋切り型のレトリックを取り払って議論しようじゃないか。

例えば先の台風では、交通機関が普通に運行していた昼間に普通に開催された公演のほうが多く、けたたましい警告を先取りして対応する主催者は少数派だったようだが、これは抵抗の論理で説明できるのだろうか。

むしろハスミ元総長が好きな三塁打やフェンスに達するゴロに近い何かのような気がするのだが。

リヒャルト・シュトラウスの山越え

アルプス交響曲は後半の嵐のなかに牧場の主題や泉の主題が前半とは逆の順序で出てくるので、往路と同じ道を下山するストーリーになっていることがわかる。

アルプス(ドイツ・アルプスのツークシュピッツェ)を「越えた」わけではなく、頂上まで行って戻って来たわけで、このストーリーはサロメとエレクトラで切り開いたアヴァンギャルドへの道を「ばらの騎士」で懐古趣味・モーツァルト主義へ引き返した「保守派」に似つかわしい。

でも、本当にそうなのか。

夜明けの壮大な序奏(映画のオープミングみたい)のあとに出てくる「ソ・↑ミb・↑ソ・↓シb・↑ラb・↓ファ・↑シb」が、長和音(ソ・↑シb・↑ミb・↑ソ)を一段飛ばし(ソ・↑ミb・↑ソ)で駆け上る山登りのモチーフをメインテーマとして構成された「シンフォニー」なはずなのに、頂上では、小さな十字架の前で祈るようなオーボエのあと、「幻影」で滝壺に映った影として予告されていた山並みの稜線のようにジグザグに動く主題(ソ〜↓ミ〜↑ソ〜↓レ〜↑ソ〜↓ド)と、こちらは序奏の日の出で導入されていた太陽の主題(ド〜シ〜ラ|ラ〜ソ〜|ラ〜ソ〜ファ|ファ〜ミ〜……)しか出てこないし、そのあとの下山は、登山の主題が真っ逆さまに反転して転落する展開部風の場所ですよね(レb・↓ファ・↓レb・↑ラb・↓ド・↑ミb・↓シb・↓ラb・↓ソb)。そして地上に戻ると、一日がかりの登山を回想するコーダになってしまう。

初期の「死と変容」の死後の浄化(そこでは死の床の主題群が消えてなくなる)とはまた違ったやり方で、アルプス交響曲においても、山を登って下りる過程でシンフォニーのエンジンであるはずのソナタ形式が別のものに変質してしまっているように見えます。

では、ソナタ/シンフォニーが何に変質したのか。

ポイントは、作品の前半の主役であったはずの山登りの上昇主題が三和音(ミb・ソ・シb)や七の和音(シ・ファ・ラb)を基礎にしているのに対して、

(さらに言えば、曲中で何度も響く角笛は長三和音の六度付加(ド↓ソ・↑ミ↓ド〜↑ラ↓ソ[=「アルプスの少女ハイジ」のオープニングのホルンとほぼ同じ音の配置]だし、印象的な滝の描写もトランペットの高音域のD-durの三和音ですね)

冒頭と最後の宵闇は短調の下降音階、太陽の主題は、何度か節が付いているけれど、長調の下降音階です。

アルプス交響曲では、人間界=上行する三和音が、大いなる自然=下降する長短音階に取り囲まれています。

  • 天空の太陽=最高音から下降する長音階
  • 人間界=三和音
  • 夜の闇=最低音へ下降する短音階

で、こういう風に作品内に複数の音素材をコスミックに割り付けるのは、新ドイツ派の交響詩やワーグナー派の楽劇というより、印象派ドビュッシーに近い発想だと思う。

ドビュッシーやラヴェルの刻々と表情を変えて移ろう水・海の音楽と、リヒャルト・シュトラウスの屹立する山・岩の音楽は対照的だけれど、従来の調的和声音楽とは別のスタンスで音素材を取り扱う手つきを、シュトラウスは彼なりのやり方で取り入れようとしているように見えます。

(そもそも、曲の冒頭で短音階が積み重なっていく合成音は、ドビュッシー風の「ペダルを踏んだオーケストラの響き」ですよね。)

20世紀の「保守」や「折衷」に分類される音楽は、19世紀までの調的和声音楽とほぼ同じ素材を使い続けてはいるけれど、それを取り扱う手つきと態度が違っている。リヒャルト・シュトラウスは「前衛の橋」を渡ることはなかったけれど、アルプス交響曲のあたりで、彼もまた世紀の転換という山を越えて、もしかすると映画音楽あたりと地続きかもしれない20世紀の新しい平野に足を踏み入れたんじゃないか、という気がします。

(そしてアルプス交響曲のことを人前でお話しした(といっても、ここに書いたことを全部十全にご紹介はできませんでしたが)その夜のブラタモリは「高野山」で、そういえば、大栗裕は「雲水讃」という御詠歌が出てくる曲の自作解説で、「中学生の頃、高野山に行って、将来は僧侶になりたいと思ったものだ」などと書いている。1960年代の「雲水讃」や役行者に思いを馳せた「呪(ジュ)」、晩年の恐山のイタコを扱った「巫女の詠えるうた」は大栗流の山岳音楽だと思いますが、西欧文化における山(アルプス)と、日本の山岳宗教都市高野山は、山といっても随分違うようでもあり、山に登って降りてくると何かが変容してしまう、というのは、共通の何かがあるようでもある。大栗裕の「親分」だった朝比奈隆はアルプス交響曲が大好きだったわけですが。)

AIと中庸と脳筋

たぶん、「中庸」「ほどほど」は、それが成果を上げているとしたらAIに学習可能だと思う。

GoogleのAIの碁は全然「原理主義的」ではないし、AIの着手が「原理主義的」だったら、プロ棋士たちがAIを「先生」と呼んで学ぼうとはしないと思うんだけどなあ。(誰に言うともなく。)

ところで、最近「脳筋」という言葉を覚えた。「脳味噌が筋肉」、体育会系を揶揄するゲーマー用語であるらしく、私には、その類義語とされる「レベルを上げて物理で殴ればいい」がさらに興味深く思われた。

「脳筋」は自嘲的に蔑まれている気配がある一方、「レベルを上げて物理で殴る」はクソゲーの真理として淡々と遂行されるようだ。

人間たるもの、「レベルを上げて物理で殴」られないようにしたいものである。