オーケストラと雅楽・邦楽

ということであれば、大澤壽人のコントラバス協奏曲の緩徐楽章がフルートに微分音を吹かせて龍笛を模倣しているのは、面白いサンプルではないかと思います。武満徹と黛敏郎が全然違う音楽を宮内庁楽部のために書いたように、戦前の作曲家の雅楽・邦楽へのアプローチも近衛秀麿(越天楽)と大澤壽人では随分違う。

(コントラバス協奏曲は楽譜が出版されるようですね。)

……と雑談しつつアルプス交響曲について人前で話す準備をしていて、カラヤンのかっこいい映像をみながら、この曲はソルフェージュがしっかりしている山田和樹におあつらえむきだろうなあ、きっといつかやるだろうなあ、と思っております。

管弦楽曲の自作自演:指揮者としての大澤壽人

20世紀音楽史を捉え直すときには、単体の作曲技法史から演奏との関係を加味した視点にシフトする必要があると思う。

ざっくり言えば、19世紀以前の西欧の音楽は自作自演が前提になっていて、一方、20世紀後半の音楽は作曲(設計図を書く仕事)と演奏(図面に従って音を鳴らす仕事)の分業が前提になっていると思う。

(山田耕筰は自作自演でオーケストラ運動を作曲・演奏の両面で推進したが、武満徹は自作を指揮しない。)

[追記:石井真木はスイス・ロマンド管を指揮したりもしていたようで、そういえば彼は、山本直純の代役で「オーケストラがやって来た」をしばらく司会して、指揮もしていた。もしかすると、「石桁眞禮生→小林研一郎→山田和樹」という東京芸大の系譜は、作曲と指揮の分業などというのは20世紀後半の未熟な民間人の習俗で、今も昔と変わらず、作曲と指揮/演奏は両立できるのが本道である、ということを身をもって示す立場なのかもしれない。作曲と演奏の分業は、20世紀後半の特徴ではあっても、はたしてあともどりできない不可逆的な潮流なのか、それとも指揮者/演奏家が過剰に「スター化」した20世紀後半の一過性の現象だったのか、それはまだわからないと言うべきかもしれません。が、それはともかく、]

20世紀前半のオーケストラ音楽は自作自演できるかできないかの分水嶺になっていて、R. シュトラウスやエルガーは、自作自演できるラインに踏みとどまることで「保守派」と呼ばれ、ストラヴィンスキーは、旧作を自分で指揮してみて、こんなの難しすぎて無理、と開き直ったところが時代を先取りしていたのかもしれない。シェーンベルクやウェーベルンは、アホな客を会場から閉め出して、採算度外視にリハーサルを繰り返して自作自演にこぎつけた「不可能性の音楽」ですよね。

(ピアノ音楽も、スクリャービンあたりから、暗譜で弾くことができるかできないか、ギリギリの領域に突入するようです。)

大澤壽人は、(ピアノ曲の自作自演はできなかったけれど)管弦楽作品をボストンでもパリでも日本でも「自作自演」した音楽家ですね。東京の橋本國彦もたしかそうだったはず。彼らは、そういう意味でも時代の先端・臨界に達していたのかもしれない。

(大澤壽人のスコアは、現在の日本の指揮者でも、誰もが手を出せるわけではない代物だけれど、作曲者は自分で振った。彼はボストン響やパリのオーケストラを体験したあとで新響の指揮台に立って、弦楽器の音を「マンドリン・オーケストラみたいだ」と言ってしまって楽員と軋轢が生じたらしい。)

大澤壽人のスコアがどういうものなのか、ということはこれでかなりわかってきたので、次は、オーケストラ指揮者としての大澤壽人が問われる段階かもしれませんね。貴志康一や朝比奈隆、山田一雄や尾高尚忠と比較したときに、大澤壽人は指揮者としてどうだったのか?

(分厚いスコアを書いたシューマンはデュッセルドルフの音楽監督をやって、どうやら指揮はイマイチだったらしいですが、大澤壽人は「指揮は余技」ということでもなかった感触がある。戦争中は大阪の放送管弦楽団や合唱団の看板指揮者で、戦後は次々自前のセミ・クラシック楽団を組織していますから、書斎の作曲家ではなく、団体を率いる力があったと思われます。)

映画音楽と読み替え演出

ふと思ったのだが、「2001年宇宙の旅」で人類の誕生にシュトラウスのツァラツストラを使ったり、「地獄の黙示録」でベトナムの空爆にワーグナーのワルキューレを使うのは、20世紀末のドイツの演出家たちのいわゆる「読み替え」の遠い源流のひとつだったりしないだろうか。

クラシック音楽(とりわけドイツの重厚壮大な交響楽)はおよそ現代社会に居場所のないオールドファッションだから別の文脈に移植してしまえ、という発想は、劇場で自律的に育ったというより、映画がおそらくサイレント時代からずっとやっていたことで、映画で育った世代が文脈変換の技法を劇場に還流させて「読み替え」が誕生したと説明したほうが、わかりやすかったりするかもしれない。

熱線と光線/オーケストラの魅力と限界

ゴジラが口から吐いていたのは、のちの特撮映画のヒーローたちのような光線ではなく、熱線(白熱線とか放射熱線と呼ばれるらしい)なのだそうですね。

火炎放射は第二次世界大戦で実際に米軍が硫黄島などで使っていたようで、ナチスはサーチライトによる光の演出を好んだことが知られているけれど、レーザー装置は1960年頃ようやく実用化されたらしいので、初代ゴジラの時代は、まだ「光線」がフィクションの有力なアイテムにはなっていなかった、という理解でいいのでしょうか。

「みず」や「ほのお」や「こおり」や「でんき」や「かくとう」に分類されたモンスターたちがそれらしい「わざ」を身につけるなかで、「ノーマル」な種族が「こうせん」を体得するのはどういう世界観なのだろう、と、ポケモンの設定が気になったに過ぎないのですが、

でも、強引に音楽の話に接続するとしたら、

合唱やピアノや弦楽四重奏が同質のサウンドで音楽を組み立てる一方で、オーケストラは、様々な種(別々の「わざ」を身につけているような)の組み合わせだと言えなくはないかも知れない。

いずれも山田和樹の指揮で、東京混声のコンサートを大阪(いずみホール)、大澤壽人の満艦飾のオーケストラ作品を東京(サントリーホール)で続けて聴くと、昭和の作曲家たちがオーケストラに夢中になって、これこそが西洋音楽の本丸だと考えたのは、グローバル・スタンダードを受け入れる「近代化」とは少しずれる衝動だったのではなかろうか、と思えてくる。

オーケストラで天下を取る、というのは、いかにも「男子一生の仕事」な感じがするけれど(そしてこの仕事が昭和の関西では大澤壽人から朝比奈隆や大栗裕に受け継がれてその先に現在があるわけだけれど)、合唱には、それとは違うかけがえのなさがあるように思う。

大澤壽人が、ボストン留学から戦後亡くなるまで、「ソナタ形式で作曲する」という態度を貫いたことも、モダニストといいながら、やっぱり時代の子だったんだなあ、と思いました。

大澤壽人演奏会がゴジラの片山杜秀プロデュースだった一方、合唱演奏会のほうは、今回、二人の女性作曲家の作品を取り上げて、ピアノ、オルガン、バレエのゲストも女性だったんですよね。

(大澤壽人も大栗裕も、放送の仕事になると「ソナタ形式の呪縛」から解放される。当時は「ソナタ形式の音楽」のほうが重要だったかもしれないけれど、彼らがそこから解放された領域で何をどこまでやれたのか、ということのほうが、今の私にはむしろ気になる。)

放送音楽作曲家たちの咀嚼力

大澤壽人が留学から戻って東京と大阪で数度開いた自作自演オーケストラ演奏会の批評を見ると、東京では同業者が新参の洋行帰りの足を引っ張るようなことをして、関西では、耳の悪い評論家が同時代の音楽にお手上げで、「理解できない」としか言えない、という昭和の風景が既にこの頃からはじまっていたことがわかる。

大澤壽人の「神風」協奏曲の初演を批評した吉村一夫は、朝比奈隆と一緒にメッテルに音楽を習った人で、戦後、音楽クリティック・クラブに設立から加わって、関西の音楽評論家のまとめ役のような存在になった。

ベートーヴェンの7番で「指揮がオーケストラの後追いで拍を打っているように見えた」と吉村は指摘するが、こういう現象はアマチュアのオーケストラではしばしば起きる。このケースでは、オケがいわゆる「走る」状態になったのではないかと思う。戦後、京大アマオケ出身の朝比奈隆とその周囲の人たちがヘゲモニーを握った関西のオーケストラ運動では、「走っても、盛り上がればよし」という風潮がなかったとは言えないように思う。吉村の大澤評は、天にツバしているように見えなくもない。(京大オケや朝比奈隆だって似たようなものじゃん、ということです。)

慶応マンドリン出身の服部正が最初から大澤壽人を応援しているのは、若い世代の共感だったのかもしれないし、大澤も服部も、のちに放送音楽に積極的にコミットする。映画や放送の仕事をした人たちのほうが、むしろ同時代の多様な音楽への柔軟な咀嚼力があったのではないか。

このあたりも、電子音楽や実験音響が放送や大衆音楽で活性化する戦後の風景(いまや戦後の音楽を論じて一番元気がいいのは電子音楽の川崎さんと映画音楽の小林さんでしょう)を準備しているように思う。

(せっかく放送業界に入った東条さんがワグネリアンを自称して朝比奈のブルックナーを担ぎ、バイロイトのカストルフ(先に美学会機関誌にとても面白いカストルフ論が出た)を毛嫌いする、というのは、全盛期の放送音楽の進取の気風とは真逆の歩みなんだよねえ……。)

大栗裕も戦後デビュー前に大澤壽人とコンタクトを取ろうとした形跡がある。天王寺商業学校在学中に朝日会館でこうしたコンサートに通って、アルバイトで映画撮影所にもぐりこんだ少年時代の大栗裕は、服部正と同じように大澤壽人に羨望の眼差しを向けていたのではないかと思う。そんな服部と大栗が1950年代から60年代に、東の慶応と西の関学でマンドリン・オーケストラの音楽物語を作ったのは、偶然ではなさそうに思う。

(そういえば、大澤壽人が戦時中に指揮したベートーヴェンの第7番を聴いた思い出を、先日、あるご高齢の紳士からお伺いしました。メッテルを信奉する朝比奈隆とその周辺の人たちからはdisられたけれど、関西の音楽好きの大学生から、大澤壽人は歓迎されていたように思われます。)

天才作曲家 大澤壽人――駆けめぐるボストン・パリ・日本

天才作曲家 大澤壽人――駆けめぐるボストン・パリ・日本

「ミカド」のダンスとギャグのセンス

バーンスタイン「ミサ」でオペラ歌手たちがしっかり踊れていたことを考えると、「ミカド」の歌謡ショウ風のダンス(パラパラした手振り)が板に付かない中途半端なものだったのは、現在のオペラ歌手の水準云々というより、どういうダンスを作るか、方針や振付師の人選の問題ではないかと思う。

あと、もうひとつ、関西で観ていてもいたたまれない感じがしたギャグの数々は、こういうのを東京へ持っていくのか、大丈夫なのか、と戸惑わざるを得なかったが、演出家のアイデアだったのか、歌手たちがアイデアを出し合ったのか、どういう経緯でああいうことになったのだろうか。

(日本語の音楽劇の台詞の発声・発話をどうするか、というのは根深い問題で、よほど考えて取り組まないと出口は見えないだろうと思うけれど、そんな大きな話に腰を据えて取り組むことができる状態ではないプロダクションだった印象は否めない。

舞台装置(プロジェクションマッピング班)と歌手チームとオーケストラがそれぞれ別々に動いて、全体を統括して責任を取る人がいない感じも、すべて井上道義ありきで動いたバーンスタイン「ミサ」とは対照的だったかもしれない。複数のレイヤーをバランスよく重ねることで、全体をキツく統合するのとは違うクールな舞台を目指したのかもしれないけれど。)

そもそも音楽では、必ずしも拍の瞬間に音を出さなくても良いはず。特に、拍の前に音が出されることをタブー視する傾向が現代では強いが、その選択肢があっても良いのだと思う。これは音楽の推進力にも影響してくるのではないだろうか。

山田和樹が東京混声の定期演奏会の準備をしているタイミングでこういう発言をするのは、わかってるなあ、と思う。

「音」と言っているけれど、言葉(とりわけ子音で始まる音節)は拍とシンクロさせるとおかしなことになる。

先のびわ湖ホールの「ミカド」で、何人か、日本語をクリアに語り、歌う歌手がいたことは何よりの救いでした。批評は既に先週の土曜日の京都新聞夕刊に出たようです。

[追記]

声楽 の現場で、よく"#子音 のタイミングを前に出す"(=拍よりも前に発音が始まる)ということがあるが、これは発音そのもののこと以外に、流れている音楽がより自然になるための方法の一つなのかも知れない。#前打音 の扱いに近くなるのだろう。

先の山田和樹の発言は言葉の問題を意識したものだったようだ。そりゃそうだよね。

阪神間山手モダニズムとキリスト教

巻末の謝辞には、取材先・資料提供者として、高島忠夫や飯守泰次郎と並んでわたくしの名前が入ってしまう巡り合わせになっておりますが、

本文を読むと、留学までの神戸、関西学院時代で既に、惜しげもなく次々登場する名前に圧倒される。関西に限定されない人脈のネットワークが見えてくる。

岡田暁生の言う阪神間山手モダニズムとは、ハイカラ都市神戸のキリスト教会が結節点のひとつになって国内外に毛細血管のように広がる網の目の中で生きることなのだなあと思います。

退職した私立大学教員が芦屋の南のほうに作った道場を豪邸と形容して叩くネット民の感覚とは、全くかけ離れた光景だと言わざるを得ない。

天才作曲家 大澤壽人――駆けめぐるボストン・パリ・日本

天才作曲家 大澤壽人――駆けめぐるボストン・パリ・日本

(そしてこれは、同じ阪神間の音楽家といっても熱心な仏教徒、奈良二郎の息子だった貴志康一を見ているだけでは浮かび上がってこない水脈だと思う。貴志康一が学んだ甲南高校は無宗教で、大澤壽人の通った関学、彼が教鞭を執った神戸女学院とは気風が違う。貴志康一の死後の再評価を手伝った朝比奈隆もリベラルな東京高校から京都帝大で、阪神間のキリスト教人脈とはつながらない。そして日曜学校が次第に教会としての体裁を整えていく時期の関西のプロテスタントのコミュニティは、例えば、若い頃から柴田南雄を魅了しつづけたユニヴァーサルなカトリックの典礼とも違っているように思う。)

貴志康一と音楽の近代―ベルリン・フィルを指揮した日本人

貴志康一と音楽の近代―ベルリン・フィルを指揮した日本人

プロとアマの境界に花開く都市文化の可能性

関西(とりわけ大阪)のクラシック・コンサートが減って、地元の「プロ」と呼んで良いのかはっきりしない手弁当団体と、東京や国際市場につながった公演の配合比率は、なんだか戦前・昭和前期に戻ったような感じがするが、そうなってみると、大阪の特性は手弁当団体の多さではないかという気がしてくる。

(のちに関西交響楽団/大阪フィルに合流することになる大阪の放送局JOBKのオーケストラが出てくるまで、戦前の大阪にも手弁当の演奏団体が群雄割拠していたらしいことが伝えられている。)

「中央」から派遣された人材のもとに地方楽壇が形成されるのではなく、独学や芸事・お稽古のかなり厚い層があって、その土壌から「手弁当団体」が乱立するのだとしたら、それは、「中央」目線でしばしばそのように疑われるような「大きな田舎の自己満足」ではなく、別のタイプの都市文化だと言っていいのかもしれない。

大阪フィルは、そういう土壌のなかで、「プロ」として立つ姿勢をずっと維持しているわけですが、創立70周年記念のバーンスタイン「ミサ」の評は、今日の日経夕刊(大阪版)に掲載予定と聞いています。

うた・楽譜・物語/ドラマの役割:クラシック音楽もまたその大半はダンス・ミュージックであるわけだが

おそらくポピュラー音楽はその大半がダンス・ミュージックである、と言ってしまったほうが生産的なのだろうし、バレエ(音楽と舞踊)が現在のような姿になる経緯を追うと、クラシック音楽もまた、バロック時代のタクト・リズム/調的和声の標準化以来、ほぼその大半はダンス・ミュージックだと言い切ってしまったほうがいい気がしてくる。

ヨーロッパ発祥の「クラシック音楽」という芸能が国際的/グローバルに流通しているのは、ぶっちゃけ、ポピュラー音楽と同じフォーマットでクラシック音楽をハイソで長めのダンス・チューンとして商品化しているんじゃないかと思う。

(最近のエコー・チェンバーでワンワンうなりまくっているやかましい広報・宣伝は、仮想ダンスホールのグルーヴみたいなものだろう。)

そのことを認めたうえで、それじゃあ、うたとは何なのか、そして楽譜や物語は音楽においてどういう役割を果たしているのか。

西欧芸術音楽の歴史(音楽学)は、エコー・チェンバーにおけるグルーヴが現にやかましく存在していることを認めたうえで、そこに回収できないものを地味に拾っていくことになるのだろうと思う。

ミュージカル・コメディもまた、実はダンス・ミュージックとしてのポピュラー音楽に回収することのできない案件、西欧でずっと取り組まれてきた、うたと楽譜と物語/ドラマという問題系で考えた方がいいのかもしれない。

現代性と同時代性

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喫茶店でメモしたこの手書きの図をパソコンで清書するのは面倒そうだけれど、とりあえず、これがバレエの歴史の私なりのまとめでございます。

ダンスを「見る/踊る/聴く」、という区別が明確になったヨーロッパ(学生さんから「見るダンスと踊るダンスの区別は演奏と作曲の分離に対応するんじゃないか」という有益な指摘をいただきました)の20世紀の、「見る」だけで踊れないモダン・ダンスと、「踊る私」を舞台で見せようとするコンテンポラリー・ダンスと、「見る/踊る/聴く」が分離する過程でダイナミックに生成して、その遺産を20世紀に再編・再起動した「20世紀のクラシック・バレエ」の関係は、こういう風に整理できるのではないかと思います。

この図は、民俗舞踊/異国趣味とバレエ・リュスの関係を考えた末にできたものだが、もうひとつ、おそらく19世紀の民俗舞踊は、当時の舞踏会の現役最新の流行だったのだから、舞台(バレエ)においても現在のバレエ公演におけるように「バレエ化」されてはおらず、ほぼ舞踏会におけるのと同様の振付で「観客が踊れる」ものだったのではないか(そのようにディヴェルティスマンはバレエのドラマ本編から舞踊スタイルの点でも区別されていたのではないか)というアイデア(まだ確証はないけれど)が前提になっている。

色々調べて推理すると、19世紀のパリやロシアのバレエのキャラクターダンス、ポルカやマズルカは、舞踏会でのこうした民俗舞踊の流行と連動して、ほぼ、舞踏会でのスタイルに準じて踊られていたのではないかと思えてくる。

民俗舞踊 Folk dances は、バレエの標準的なスタイルがプロ化して舞台で観るだけの踊りになった19世紀の劇場舞踊において、観客が踊れる(見ていると踊りたくなる)ダンスであることによって標準スタイルと区別され、同様に踊ることができず、わざわざ踊ろうとも思わない他者=異国の踊り(エキゾティシズム)とも区別されていたのではないか、ということだ。

そしてこのように考えると、20世紀のアートを特徴づける現代性(モダニズム)と同時代性(コンテンポラリー)という2つのスローガンのうち、同時代的であろうとしてジャズやラテンを取り入れて、同時代の風俗を踊るのは民俗舞踊=ナショナリズムの後継で、一方、現代的(=前衛的・先端的・実験的)であろうとするのは、異国趣味の後継ではないかと思えてくる。

少なくとも戦間期のヨーロッパのバレエ・ブームでは、ロシアの異国趣味を売りにしていたバレエ・リュスからロシアのバレエを換骨奪胎して異教的・古代的・異国的な習俗と掛け合わせるニジンスキー兄妹のモダニズムが出てくる一方、(バレエ・リュスがパラードをいちはやく制作したとはいっても)コンテンポラリーな出し物は、むしろバレエ・スエドワのような競合団体のほうが熱心だったように見える。

日本でも、「海外に追いつき追い越せ」と言っている時期にはたとえ周回遅れであっても「モダン」であろうとする傾向があって、モダニズムこそがシリアスである、という視点で歴史が語られ、海外にある程度追いついたことにして一息ついた高度成長期からバブル期には「コンテンポラリー」の標語がさかんに語られた。

「ものづくり」だけでなく、サブカル・オタクのドメスティックなニッポンを打ちだそうというのを含めて、そういうことで認められようとするのは、上から目線の教養主義と対立するように見えるかもしれないけれど、実はグローバリズムに抵抗するローカリティですらなく、アジアの異国趣味を現代化するモダニズムの本流かもしれない。(バレエ・リュスがロシアのバレエのプロフェッショナルな技術を原資にしたように、このような議論は、ニッポンの過去の蓄積を頼みにしている。)

そして逆に、グローバル・スタンダードにのっかってコンテンポラリーであろうとするのであれば、「そんなことでは世界の趨勢に遅れるよ」といった時間の先後を導入する話法は、やめてしまったほうがいいかもしれない。「速い/遅い」「間に合う/遅れる」といった時のメタファーは、モダニズムの風土を生き延びさせる罠かもしれない。

モダニズムは、時を整流するイデオロギーとして活用されてきたが(「近代の進歩主義」という言い方は重言に近く、モダンという語はそういう含みをもともと持つ)、モダニズムが活用する差異・他者性は、実は歴史と切り離して語りうる性質のものかもしれない。

現代性と同時代性という概念を歴史・時のメタファーから切り離して定義しないと、20世紀の歴史を語るのが難しくなる気がする。