作品目録番号(ケッヘル、ドイッチュなど)の話

とある事情で、演奏会のチラシやパンフレットの表記を校正する仕事をここ2年ほどやっています。今日は、そういうことをやっている中でわかったことや、考えたこと。(もしかすると、既にどこかに書かれている内容と重複してまっているかもしれませんが……。)

モーツァルトのケッヘル番号、シューベルトのドイッチュ番号など、作曲家の作品目録の番号が曲名とセットで広く使われているわけですが、これをチラシやパンフレットでどういう風に表記するのが適当なのか。具体的に考えていくと、案外、知らなかったこと、結論が出そうにないこともでてくるなあ、というお話です。

●BWVにピリオドは不要

バッハ作品目録(Bach Werke Verzeichnis = BWV)の番号を書くときに、

イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV.971

という風に書いてあることがあって、私自身、以前はあまり深くこだわっていなかったのですが、結論から言うと、このBWVのあとのピリオド(.)は、日本のローカルルールのようです。

考えてみれば、IBM (= International Buisiness Machines) もWWW (World Wide Web) もGNU (GNU's Not Unix) の GPL (General Public Lisence) も、ドイツ語のBMW (Beyerische Motoren Werke) も、欧米の書法では、複数単語の頭文字をつなげた略語は、ピリオドなしで使うのが通例ですね。

BWVも同様の成り立ちの略語ですから、欧文でピリオドをつけた書き方をしないのは当然と言えるかもしれません。

日本でピリオドがつけられてしまうことがあるのは、ケッヘル(K.)などの名前のイニシャル表記と混同した書き方が流通してしまったのでしょうね。

ちなみに、調べてみたら、バッハ作品目録そのものの中に略語一覧のページがあって、そこにBWVの説明が出ていました。

BWV Bach-Werke-Verzeichnis. Die Zitierungsformel des vorliegenden Buches. Beispiel: BWV 971 = Italienisches Konzert (s. S. 704)
BWV バッハ作品目録。本書を引用する書式。例:BWV 971 = イタリア協奏曲(704頁参照)

バッハ作品目録(BWV)という書物それ自身の中にBWVという言葉を説明が出ているわけで、よく考えると、自己言及的で不思議な記述ですが、ドイツ人の作る書物は徹底していますね。こういう風に自ら宣言してくれていると、あとから使う人間が混乱しないで済みます。

●「K.」なのか「KV」なのか

一方、モーツァルトの作品目録番号(ケッヘル番号)の表記は、「K.」がいいのか「KV」(Köchel-Verzeichnisの略)がいいのか、少し調べたかぎりでは、(徐々に「KV」が増えている気はしますが)あまり決定的な根拠は見つかりませんでした。

(有力な情報をご存じな方は、是非、教えてください!)

新モーツァルト全集の序文には

Die NMA verwendet die Nummern des Köchel-Verzeichnis (KV);
新モーツァルト全集はケッヘル目録(KV)の番号を用いる。

という箇所があって、新全集は、たしかに全部「KV」という表記で統一されています。

(新全集以外でも、最近の楽譜では、「KV」という表記が多くなっているようですね。)

ところが、それじゃあそのケッヘル作品目録という書物自身がどうなっているかというと、略語一覧に

K. 1, K. 2, K. 3, K. 3a
L. v. Köchel, Chronologisch-thematisches Verzeichnis der Werke W. A. Mozarts [...]

と書かれています。ケッヘルの目録は「K.」派。自分自身のことを「KV」ではなく、「K.」と呼んでいるようです。

目録や全集の作り手の意向を離れて、ユーザーの立場で考えると、KVの「V」は目録(Verzeichnis)というドイツ語を知らないと意味がわからないわけで、バッハのBWVのように既に広まっているものはともかく、「K.」と「KV」の両方ともあり得るんだったら、「ケッヘルのイニシャル」ということで、シンプルに「K.」でいいのではないか、そういうシンプルなやり方のほうがモーツァルトらしいのでは?と思うのですが、新全集が「KV」派だということは、そういうわけにもいかないのでしょうか……。

オーストリアのモーツァルト事情は、ドイツのバッハ事情ほどすっきりしません……。

●ドイッチュ博士はピリオドなしを希望

とはいえ、モーツァルトに「K.」と「KV」の揺れはあるにしても、一般論としては、

  • 複数の単語を組み合わせた略語 → ピリオドなし 例:BWV 971
  • 目録作成者名のイニシャル → ピリオドつき 例:K. 525

という風に言えると思います。ハイドンはホーボーケンの「Hob.」、リストはサールの「S.」、バルトークはセーレーシの「Sz.」など。

ところが……、

モーツァルトのケッヘル番号と並んでよく知られているシューベルトのドイッチュ番号にも、ちょっと特殊な事情があるようなんですね。

シューベルトの作品目録は、現在、新シューベルト全集の中に組み入れられていますが、その序文にこういう記述があります。

Die Wunsch Otto Erich Deutschs entsprechend sollten die Nummern des Werkverzeichnisess mit einen einfachen vorangestellen "D" zitiert werden, also z. B. D 200, auch nicht DV 200.
オットー・エーリヒ・ドイチュの希望に沿って、作品目録の番号は、単に「D」だけを付けて引用される。すなわち、例えば、D 200。[D. 200ではないし] DV 200でもない。

シューベルトの作品目録づくりを最初に手がけたドイッチュが、「D」を自分の名前のイニシャルではなく、単なる記号と考えて欲しいと望んでいた、ということのようです。

ドイッチュは、モーツァルトやシューベルトの足跡を示す記録をまとめたり、シューベルトの友人・知人の日記・回想録をまとめたりして、「史料そのものに語らせる」伝記研究を目指していた人、作曲家の伝記に、書き手の主観が入ることを極力禁欲しようとした人です。「D」が「名も無き記号」のようなものになって欲しい、というのは、なるほどこの人らしい願いだな、と思います。

そう言われてしまったら、ドイッチュ番号だけは、ピリオドなしで書こうと思ってしまいますよね。作品目録番号ひとつとっても、一律にこうと決められないそれぞれの事情があるものです……。

●日本語で「空白」をどう扱うか?

そして最後に、

ここまでは、目録の作り手の意向がどうか、という話、欧文での表記の話ですが、日本語の文章の中に目録番号を入れる場合は、ピリオドの有無だけでなく、空白の扱いという問題が出てくるように思います。

欧文の場合、最初から単語と単語の間に空白があるので「D 200」のような書き方もそれほど不自然に見えませんし、略語を示すピリオドのあとに空白を置くのも普通のことなのだろうと思います。

(出版物では、文中の略語を示すピリオドのあとの空白は、文末のピリオドのあとの空白よりも狭くするものらしいですが……。)

でも、日本語の文章では、そもそも文中に空白があるのは不自然とされてきたように思います。

この日の曲目は、前半がバッハのパルティータBWV 825とモーツァルトのソナタK. 333 (315c)、後半がシューベルトのソナタD 960。すべて変ロ長調で統一されたプログラムである。

例えばこういう文章。横書きだと違和感ないですが、縦書きで一行の文字数が少ない場合、例えば新聞などでは無理でしょうね。(目録番号で何文字も使ってしまうのは新聞の限られた紙面ではもったいなすぎる、ということもありますし)目録番号を使わない文章を考えることになるだろうと思います。

日本語の出版物では「BWV825」のように空白なしに詰めた書き方も見かけますし、その他、「BWV.825」のようにうっかり(?)ピリオドを付けてしまう例は、文中の空白を嫌う日本語の事情が絡んでいるのかな、という気がします。

さすがに、欧文の慣例にないBWVのピリオドを日本ローカルで付けてしまうというのは、もう止めたほうがいいんじゃないかと思いますが、空白を詰めるかどうかというのは、縦書きor横書き、印刷物のレイアウト・見栄えなどを考えつつ、臨機応変に考えないと仕方がないのでしょうね。