だんじりと映画、大栗裕と羽曳野(はびきの市民大学補遺(1))

はびきの市民大学(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091114/p1)が終わって、後回しにしてしまっていた仕事に忙殺されていますが、補足的に書きとめておきたいことがあります。

その一つは、今回、市民講座をやらせていただいた羽曳野市と大栗裕には浅からぬ縁があったかもしれない、というお話です。

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●古市のだんじり

そのひとつは、だんじり。

講座の初回では大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」を紹介させていただきました。ご存じのようにこの曲には天神祭の地車囃子が出てくるわけですが、だんじりは、大阪市内だけでなく、泉州・河内地方でも今も広く行われています。

岸和田祭音百景 平成地車見聞録 (CD付)

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泉州岸和田のだんじりは全国的に有名ですけれども、羽曳野市内でも秋に、だんじりが出ます。ちょうど、講座初回(10/14)直前の週末には、会場LUCはびきのの最寄り駅、古市のだんじり祭でした。

しかも資料を調べてみますと、数年前までは、「俗謡」に使われているもうひとつの旋律、大阪の獅子舞囃子の源流と言われている伊勢大神楽(実際に、「俗謡」に出てくるのと同じ道中囃子が伝承されています)が古市だんじり祭にあわせて、白鳥神社に来ていたようなのです。

ただし、あくまで一般論ですが、お祭りの由来や相互の影響関係(学者が外から観察してあれこれ言いがちな議論)は、祭礼の当事者の皆様の思いや事情とかみあわないこともあるようで、部外者が勝手に盛り上がっていいものなのか、微妙なところではあります。

大栗裕が地域のお祭りの音曲を管弦楽曲に仕立てたことには、どういう意味があったのか。すぐ近くに同種の祭礼が伝承されている場所でお話させていただくのは、特別な緊張感がありました。

音楽を文化として捉えようとするのであれば、当事者の都合を無視して、いわば「消費者目線」を振りかざし、これは面白い、あれはイマイチ等々と言っているだけではいけないのではないか。改めて振り返ると、今回の講座は、手を替え品を変えして、そのような問題意識を変奏していたかもしれないな、と思います。

後年の大栗裕は、色々な団体と息の長い付き合い方をして、信頼関係を築きましたが、出世作の「俗謡」で、いきなり大阪の祭り囃子をベルリン・フィルに演奏させてしまったのは、むしろ、祭礼当事者の都合を考えない荒っぽい所業だったようにも思われます。

(ともすればイケイケで泥臭くなりがちなこの曲を上手にまとめているのは、本家朝比奈さんよりも、丸谷・淀工の吹奏楽版演奏などのほうかもしれない、と思うことがあります。朝比奈・大フィルの「俗謡」は、もはや大フィル60年の歴史の一部ですから、その意義を尊重せねばならないとは思いますが。)

「文化としての音楽」の倫理は一筋縄ではいかない。今回の講座は、そのことを再確認する機会にもなりました。

●大栗裕と極東映画

もうひとつは、大栗裕の履歴に関わることです。

去年の論文にも引用しましたが、大栗裕が関西交響楽団に提出した楽員カードには次のような記述があります。

昭和十一年 大阪市立天王寺商業卒業 卒業後家業ニ従事スル傍ラ映画音楽ノ編曲ソノ他各種演奏ニ出演セシコトアリ

大栗裕は1918年生まれですから、昭和11年(1936年)には18歳。昭和15年(1940年)頃に上京して(家出同然だった、とも言われています)、作曲家を志望しつつ、1941年に東京交響楽団(現東フィル)ホルン奏者になるわけですが、東京で本格的に音楽の道に入るまでの数年間、映画撮影所に出入りしていたようなのです。

『音楽之友』1956年6月号の大栗裕紹介記事(by柴田仁)には、「極東映画」という具体的な会社名が出てきます。

当時から大阪にあった極東映画という映画の映画音楽のアレンジをたのまれてつぎつぎやっていた。これが大変な勉強になって、技術として身についたと彼はいっている。

はびきのの講座の2回目で、戦前の大阪の音楽事情を紹介するためにこのあたりの情報を整理していたのですが、この「極東映画」という会社は、どうやら1930年代後半には古市に撮影所があったらしいのです。

チャンバラ王国 極東

チャンバラ王国 極東

講座でも「古市には撮影所があったらしいですね」と話題を振ってみました。

そうすると、昔からの地元の方はさすがによくご存じで、しかも、撮影所の場所は棚田が広がっていた軽里の高台、市民講座の会場からわずか数分のところだったのでした。

(さらに、ちょうど極東映画撮影所があった頃、古市駅周辺を近鉄が住宅街として開発したこともわかりました。阪急電車の阪神間モダニズムは有名ですが、近鉄沿線にも私鉄沿線モダニズムがあったようなのです。)

わたくしは、毎回、古市まで天王寺(阿倍野橋)から近鉄に乗って通っていたのですが、20歳前後の大栗裕も、ひょっとすると同じコースを通ったのかもしれない。そう思うと、不思議な気持ちになってしまうのでした。

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今のところ、大栗裕が極東映画社に関わっていたとする資料は上記「音楽之友」の記事だけで、やや心許ないところではあります。大栗裕が関わったのは本当にここなのか、あるいは他にも出入りした撮影所はなかったのか等々、もう少し傍証が欲しいところです。

それに、極東映画は、20歳前の若造にアレンジを任せるくらいですから、もし大栗裕が通っていたとしても、それほど音楽に力を入れていたわけではなさそうですが……、

でも大栗裕にとって、多感な時期の撮影所体験は、会社の規模や格がどうであれ、かなり大きなことだったのではないかと思うのです。

(だからこそ、後年、楽員カードにわざわざ若かりし頃の撮影所体験を記載したのでしょうし。)

大栗裕の作品には、オペラから放送まで劇音楽が多いですし、数からいうと放送音楽が圧倒的に多いのですが、その原点は初期トーキー体験だったのではないか、そんな立論をしたい誘惑に駆られます。

極東映画社について、資料は乏しそうですが、フィルムセンターにはいくつか同社の映画が保存されているようですし、機会があれば、この件、もう少し調べてみたいと思っています。

(極東映画社について、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非、ご一報くださいませ。)