戦後関西の舞踊と洋楽:花柳有洸の創作舞踊「雪女」(大澤壽人作曲)と「円」(大栗裕作曲)のこと

NHK大阪の「よみがえる関西のオーケストラ作品」という企画は、大阪中央放送局JOBKが昭和の音楽家たち、大澤壽人や服部良一、朝比奈隆や大栗裕を同じ土俵にのせる重要な文化装置だったことをはっきり示してくれたことが画期的だと思うのですが、

モダン大阪の名物として知られるレビューの世界も、音楽家たちを、人脈を越えて飲みこむ場所だったようです。

タカラヅカは近年あまりにも語られ過ぎているような気がするので、ミナミの大阪松竹歌劇団(以下、OSK)と大澤壽人、大栗裕のかかわり。そして二人の間をつなぐような形になった女性日本舞踊家、花柳有洸[ゆうこう](1924-1971)のことを書いてみます。

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昭和24年(1949年)12月4日、難波の大阪劇場でOSKの「キング・オブ・レビュー」が幕を開けました。

交響楽団とレビューの併奏で従来の管弦楽団に変わって「大阪・シアター・ギルド交響楽団」が編成され、シューベルトの未完成交響曲が開幕の前奏曲として演奏された。作曲家であり音楽指揮者である大澤壽人により編成された交響楽団で、ニューヨークの「シアター・ギルド交響楽団」にならって発足したもので注目を集めた。なおこの作品は、宝塚歌劇団の高木史郎が構成、演出。宝塚調の甘美な雰囲気で、若い女性たちの心をつかんだ。(菅原みどり『夢のレビュー史〜すみれの園宝塚 桜咲く国OSK・SKD〜』、東京新聞出版局、1996年、130頁)

夢のレビュー史 宝塚・OSK・SKDのあゆみ

夢のレビュー史 宝塚・OSK・SKDのあゆみ

神戸女学院が作った大澤壽人作品目録にも「キング オブ レビュー」は確かに出ています。他にも、昭和27年まで、大澤壽人はOSKのレビューに曲を提供していたようです。

OSKは、宝塚の少女歌劇の向こうを張って大正末に松竹が旗揚げして、以来、名前や経営母体、本拠地が複雑に遍歴していますが、少なくともかつては、笠置シヅ子や京マチ子を生み出して、盛況でした。

面白いのは、ここでも指摘されているように、立ち上げの段階から、ライヴァルであるはずのタカラヅカとスタッフ、指導者の交流があったこと。白井松次郎が小林一三に協力を依頼した経緯があったようです。大澤のOSK登場も、山の手の人がミナミに乗り込んで来て、どえらいことを企画した、というような感じだったのかな、と思います。(ボストンの指揮者がニューヨークにやってきたような感じでしょうか?)

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大澤壽人は昭和28年に亡くなります。そして大栗裕は、昭和30年の「赤い陣羽織」と昭和32年の「夫婦善哉」で名を上げたあと、昭和33年頃からOSKの仕事をするようになったようです。大栗文庫で、昭和34、35、38、40年のOSKのレビューのために書かれた楽譜を確認できます。ハイカラな大澤壽人と対照的に、タイトルは「博多人形」、「千羽鶴」などと和風で、おそらく、日本舞踊系のおどりのために書いたのだと思われます。

そして昭和45年(1970年)には、OSKが万博のイベントに参加しただけでなく、万博開幕直後に幕を開けた恒例の「春のおどり」も、こんな風になっていたようです。(この時の楽譜と思われるものは大栗文庫にはないのですが……。)

三月二〇日、「春のおどり・にっぽんバンザイ」。構成、演出・山本紫朗、音楽・大栗裕、小坂努、中川昌、奥村貢、振付:花柳芳十郎、花柳雅人、山田卓。[……]大阪万国博に焦点を合わせて、日本物を主とした舞台構成。富士山をバックに、大勢の芸者ガールズの総踊りで幕を開け、河内音頭、ひょっとことおかめのコミカルシーン、阿波踊りのリズム感溢れる群舞へと盛り上げ、後半の洋舞は犬のぬいぐるみが登場して子供たちを楽しませ、ラテン・メロディーをふんだんに使用して、速いテンポへとショーアップした。(前掲書、138頁)

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これだけだったら、OSKが旬のクラシック系作曲家をその都度抜擢していた、というだけの話ですが、二人をつなぐ人物がいます。昭和25年(1950年)からOSKの日本舞踊科講師をして、しばしば、レビューの振付をしていた花柳有洸です。

花柳有洸は、大正13年(1924年)生まれといいますから、辻久子と同世代(2歳年上)で、帝塚山の女学校をでたお嬢様。花柳流の名取りになって、昭和24年(1949年)26歳のときに、東西合同大歌舞伎の大舞台で、守田勘弥の相手役(「千本桜道行」の静御前)に抜擢されて一躍注目された期待の若手舞踊家でした。

昭和22年(1947年)の初リサイタルでの「わらべ一茶」(清元、高谷伸作詞)以来、創作舞踊に積極的で、上記「キング・オブ・レビュー」の二年後、昭和26年(1951年)には、大阪歌舞伎座で竹中郁作詞、大澤壽人作曲、吉原治良美術、フルオーケストラを使った「雪女」を発表しています。

日本舞踊といえば、わかっていただけるのは年輩の方で、何とか若い方にも見てもらえるものをと考え、小泉八雲の作品から“雪女”を選び、それを洋楽伴奏で、[……]今までと違ったグループの先生方のお知恵をお借りして発表したところ、それは若い学生さん方にもわかっていただいたようで、それから若い方も日本舞踊を見にこられる気運が少し生まれ始めたように存じます。(花柳有洸「創作舞踊雑感」、塩間トシ編『花柳有洸 私家本』、1973年、115頁)

大澤壽人が亡くなったこともあり、大澤への委嘱はこれ一作だけで終わりました。

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その後、彼女は昭和32年(1957年)に、関西歌劇団創作歌劇第4回公演で、やはり小泉八雲の原作による田中正史作曲の歌劇「羽」の振付を担当しています。これは武智鉄二による抜擢だったようです。彼は「雪女」を観ていたのでしょうか?

いずれにせよ、武智鉄二は、彼女を舞踊家として買っていたのかもしれません。翌年1月には、産経会館で、一中節道成寺を花柳有洸の振付・踊りで上演しています。一中節道成寺は、能の「道成寺」と歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」の間にあったであろう中間的な舞踊の姿を再構成しようとする、いかにも彼らしい挑発的な企画でした。こうして花柳有洸は、当時の関西音楽・演劇の台風の目、武智・朝比奈グループとの縁ができていったようなのです。

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そして同年11月には、大栗裕の作曲による創作舞踊「円」が毎日ホールのリサイタルで初演されました。これは、男声合唱の念仏が響き、伴奏は打楽器とフルートのみ。墨染めの衣で弟子と5人だけで踊る抽象化された舞台だったようです。花柳有洸にとっても、作曲の大栗裕にとっても転機になる作品だったと思われます。2年後昭和35年(1960年)の再演で大阪府芸術賞を受賞、昭和36年(1961年)の初の東京でのリサイタルでも再演して、文部省芸術祭奨励賞を受けています。以来、大栗裕は、昭和40年頃まで、毎年のように花柳有洸のリサイタルのために曲を書きました。大栗文庫には、このうち「円」を含めて3作品のスコアが残っています。

OSK自体がそうであったように、おそらく花柳有洸にとっても、大澤に作曲を依頼したのは、「旬のクラシック系の人」ということだったろうと思われます。そして大澤作曲の洋楽を使ったことでオペラへと仕事が広がり、大栗裕という奇妙なオッサンを発見することになりました。

花柳有洸は、端的にいって清楚な美人でありまして、母と二人三脚の舞踊一筋、生涯独身のストイックな人でした。楽壇随一のイケメン貴公子・大澤壽人はともかく、大栗裕のような大阪のオッサンとは水と油のようですが、どういうわけか協同作業が長続きしたようです。

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花柳有洸は、体調不良のなか70年万博でお祭り広場のイベント、ポルトガルと共催の「南蛮まつり」(8月25〜29日)の振付・出演をこなしたあと、過労がたたったのか昭和46年(1971年)に亡くなりました。上に引用した私家本は、死後、お母様が出されたもので、大栗裕も追悼文を寄せています。

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「南蛮まつり」は鉄砲伝来から秀吉の大茶会までの日本とポルトガルの交流を多彩な踊りで描いたレビュー。日本側は、歌舞伎を基調としながら、念仏踊りで狂言の茂山家が出演したり、鑑賞に耐える質のものだったようです。片岡仁左右衛門が秀吉、花柳有洸が淀君を演じました。構成・演出を担当した北岸祐吉が、『花柳有洸 私家本』で経緯を詳しく回想しています。

日本万国博覧会公式映画、ロングバージョンのほうにその一部が収録されています。ただし、北岸によると、映画収録は2日目で、ずっと無理を重ねてきた花柳有洸が、この日に限って、過労で病院で点滴を打つために代役を立てていたそうです。翌日には気丈に復帰したそうですから、記録映画に彼女の最後の舞踊姿を残すことができなかったのは、返す返すも残念。

花柳有洸と仕事をすることになって、大栗裕は当初かなり舞い上がっていたようです。追悼文は、初めて読むとぎょっとするくらい熱烈です。以下、冒頭部のみ引用します。

有洸さんとわたしのつきあいは、十年くらいのものであったろうが、常に一定の距離が存在していた。実のところ、わたしはこの距離を縮め、そして最終的には無くしてしまいたいという不遜な気持ちさえあったのである。だが、とうとうその距離は縮むどころか、冥界を異にした現在、無限の空間がわたしを有洸さんから隔ててしまった。[……](大栗裕「告白」、前掲書、59頁)

要するに、男として惚れていた、ということです。でも、そういうことを正直に表現する体当たりなオッサンだったから、かえって信用されたのかもしれません。優雅な身のこなしが身上の舞踊家ですから、大栗裕の突撃は、あっさりかわされてしまったようですが、それもまた人生(笑)。大栗裕ウォッチャーとしては、二人の間には何もなかったであろうと、ほぼ断言できます(←何を言ってる)。何かあったら、逆にこういう熱烈な追悼文は書けないでしょうし。

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服部良一や大澤壽人は、いかにも華やかなレビューが似合う音楽家ですが、大栗裕のなかで、花柳有洸との仕事はちょっと特別に艶っぽい作品群でありまして(梅田コマ劇場にて辻久子のヴァイオリンで花柳有洸が踊ったとされる「青衣の女人」は大栗裕畢生の美しい旋律です)、しかもそれなのに、二人のコラボレーションの第一作「円」は、大栗裕が仏教へ接近するきっかけになった作品でもあります。

レビューの舞台では、女の子たちがカラダを張って仕事をしているわけですが、舞台裏の音楽家のほうにも、いわゆる「人間模様」がある。大栗裕は、書斎で沈思黙考するのではなく、現場でもみくちゃになりながら変貌していく人でした。芸術・芸能における日本と西洋、芸術と大衆(OSKは映画上映の合間のレビューとして出発して、のちに松竹から近鉄に経営が移転したときには、あやめ池遊園が興行の本拠地でした)、生の輝きとモノクロームな死(「円寂」は仏教で死して仏になることを指す言葉です)といったことを、大栗裕は舞台の仕事で学んでいったようなのです。

音楽とは、自律した音のエクリチュールに尽きるものなのか? コンサート音楽と舞台作品とは、何がどのように違うのか、音楽家は両者でいかに異なる体験をすることになるのか? モーツァルトとシカネーダーのジングシュピールの奇跡的な人類讃歌とか、ワーグナーの聖と俗とか、世紀末のファム・ファタールとか、戦間期のアヴァンギャルドとキャバレー・芝居小屋の大衆芸能とか、海の向こうの物語で妄想するのもいいですけれども、(そしてかつて漢籍を援用するのが教養人のたしなみであったように、西洋とリンクする文脈が見つからなければ聞く耳を持たぬという近代日本の作法がかつてはあったような気もしますが)上方の芝居の中心地ミナミの空気を肌で知っていたに違いない大栗裕の伝記は、案外そういうことを日本の文脈で考える素材をも含んでいるようなのです。