柴田南雄のバルトークと作曲家の「第二の人生」

[4/11 いくつかの引用を補足。これで加筆は打ち止めにしたいと思います。……と思ったのですが、4/12 終わり近くに大田黒元雄の引用を追加して、戦前の不正確な情報をいくつか修正。柴田南雄のいわゆる「配分法」に関する補足と、間宮芳生に関するコメントを追加。4/13 「新作曲派」と大田黒元雄に、まとめ的なコメントを追記。4/16 当時の『音楽藝術』誌編集部に関するメモを追加。4/17 徳永康元に関する情報を追加。4/24 松平頼則『近代和声学』の紹介を追加。4/30 オペラ「青ひげ公の城」の日本初演情報と、台本の徳永康元訳の紹介を追加。2012/8/22 新作曲派協会の柴田南雄批判の箇所を改稿。]

バルトークの周辺をちょっとずつ勉強しはじめています。

大栗裕と関連して、確認しておきたいことがあるからなのですが、その具体的な詳細については、今はまだノーコメントということで、ここでは、柴田南雄が1949〜1951年に『音楽藝術』で書き継いだバルトーク紹介記事について。
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柴田南雄のバルトーク紹介記事の書誌は以下のとおり。

  • 「ベーラ・バルトックの生涯と作品」、『音楽藝術』1949年8月号、4-12頁
  • 「ベーラー・バルトーク 其ノ二 作曲技法上の諸問題」、『音楽藝術』1949年9月号、6-17頁
  • 「ベーラ・バルトーク(一)」、『音楽藝術』1950年11月号、6-15頁
  • 「ベーラ・バルトーク(二)」、『音楽藝術』1950年12月号、38-49頁
  • 「ベーラ・バルトーク(三)」、『音楽藝術』1951年1月号、18-29頁
  • 「ベーラ・バルトーク(四)」、『音楽藝術』1951年2月号、13-25頁
  • 「ベーラ・バルトーク(完)」、『音楽藝術』1951年3月号、27-35頁

1949年の2つの文章は、バルトークの生涯と作品表、柴田南雄の区分による第二期(1914-1932)と第三期(1932-1945)の主要作品の紹介と分析です。彼が「配分法」と名付けた12の半音をバランス良く使う配慮については、「作曲技法上の諸問題」に出てきます。

1950-51年の連載は、前年の論考で扱うことの出来なかった時期の作品を取り上げていて、連載の初回(「(一)」)には、全体の目次に相当する表が出ています。

「日本の作曲家たちへのバルトークからの影響」については、そのものズバリのタイトルのレポートを石田一志が『音楽芸術』1989年9月号に寄稿しています。ここで石田は、

柴田は、一九四一年、ハンガリー留学中の従兄弟徳永康元がハンガリーから送ってくれたバルトークの幾つかの合唱曲の楽譜を通してこの作曲家に興味を持った。「その中に作曲の真髄というべきものを見出し、バルトークへの関心を深めた」という。

と書いていますが、最初のきっかけが合唱曲の楽譜だったという話の出所、それから、上の文中の柴田南雄の言葉の引用の出典は不詳。私は典拠をまだ見つけられずにいます。(あるいは、当時存命だった本人に直接訊いたのでしょうか?)

ブダペストの古本屋 (ちくま文庫)

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徳永康元(1912-2003)がこのエッセイ集を古稀の記念に出版したのは1982年で、栗本慎一郎の『ブダペスト物語』と同じ年。東京外大AA研で岡正雄のあとの二代目の所長を務めて、愛書家としてのエッセイも多く、文学を核とする地域研究の学者さんの典型のような方なのですね。

ブダペスト物語―現代思想の源流をたずねて

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徳永康元のハンガリー留学は1940年から1942年で、バルトークがディッタ夫人とともにピアノを弾いたハンガリーでの告別演奏会を聴いており、「青ひげ公の城」や「かかしの王子」も観たらしい。学生寮に韓国出身で音楽院に留学していた指揮者の安益泰がいて、バルトークに関する情報は安から得たところも多かったようです。

徳永が次にハンガリーを訪問したのは1965年ですから、ハンガリーからバルトークに関する情報を柴田南雄に伝えることができたのはこの時期のみです。徳永から色々な情報を得たことがきっかけになって、柴田南雄がバルトークへの関心を強めたのだとしたら、それは1940-42年ということになります。それ以前から、レコードや新響のコンサートでバルトークを聴いていたはずですが、徳永から話を聞いて、彼の地でのバルトークの存在感の大きさを再認識したのではないでしょうか。

また、Wikipediaによると、柴田は「東京帝国大学大学院で植物学を研究したが、同年、学位を取らずに中退。1939年から東京科学博物館植物学部に嘱託として勤務。1941年に退職し、東京帝国大学文学部美学美術史学科に学士入学。1943年卒業。」理学部大学院を辞めて、文学部で学び直したのは、ディレッタントではなく、本格的に音楽と向き合うことを決めたということだと思います。バルトークのことを徳永康元から教えられた時期は、柴田南雄自身が音楽の道へ進むことを決意した時期と重なることになりそうです。(ちくま文庫版の小島亮の解説は、徳永康元ひとりに限らず、柴田南雄や吉田秀和を含めて、「文芸復興期」と呼ばれたりもするらしい昭和10年代に青春を送った知識人の、大正教養主義とも昭和モダニズムとも違う屈折した内面を読み解こうとして、興味深かったです。大恐慌後の就職難で、「大学は出たけれど」の世代なのですね。)

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なお、石田一志は、柴田南雄が作品表で A csodalatos mandarin を「不思議な蜜柑」としているのを「さすが植物学の知識豊かと思わせる訳題」と皮肉っていますが、徳永康元が「バルトーク大全集」というレコードに寄稿した1974年のエッセイ「バルトークをめぐって」に、「このバレーの題名の意味も誰かにきかれたことがあって、[……]マンダリンなら蜜柑だろうと簡単に思いこんで、内容も知らないのに、「ふしぎな蜜柑」でしょうと答えた記憶があるのだ、これはとんだ勘ちがいで、この題名のマンダリンは「中国の役人」の意味だと気付いたのは、それから数年経って、私がハンガリーで学生生活をするようになってからのことだった。」とあります(143頁)。「中国の不思議な役人」の日本での初演は1963年で、この作品がどういうバレエなのか、日本には長らくはっきりした情報が伝わっていなかったということなのでしょうか。ちなみに、柴田南雄の一連のバルトーク論考では、「マンダリン」のみならず、「青ひげ」と「かかしの王子」についても、具体的な言及はほとんどありません。(ただし「青ひげ」は、柴田南雄の論考の5年後で創作オペラが盛り上がっていた1954年に、福永陽一郎の指揮、藤原歌劇団青年グループが第一生命ホールで初演したようです。20世紀のオペラの日本初演としては、かなり早いですね。)

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バルトークの「青ひげ公の城」は、後年の精悍な作品とは違って19世紀末の香りが残っていますし、宝物を封印するというテーマは、第一次大戦後にバルトークが変貌してしまうことを思うと恐いくらい予兆的な気がします。徳永康元の訳を読んでいると、文字そのものから血の赤色や黄金の輝きが浮き出してくるような錯覚に襲われました。バラージュの台本が見事だということは、学生時代に伊東信宏さんから聞いていましたが、徳永訳は、畢生の神懸かり的な仕事なのではないでしょうか。

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柴田の論考自体では、「作曲技法上の諸問題」の最後に、

意に満たぬ乍らも拙稿を短日時の間に纏め得たのは、かねてから筆者に對しバルトークの楽譜やレコードを快く貸輿せられた先輩友人諸兄のお陰で手許に二十種近い作品が置かれていたからである。諸兄の友情に對して厚く御禮申し上げる。

とあり、連載「(三)」の最後には、

本稿に関聨ある初期のピアノ曲の楽譜の大半は、清瀬保二氏の御厚意により氏の蔵書を拝領したものである。記して感謝の意を表する次第である。
尚、ハンガリー語の解讀と発音等については、前稿同様外国語大學の徳永康元氏の教示を得る事の出来たのは幸せであつた。

徳永康元のほかに、清瀬保二の名前が出ています。

ちなみに、清瀬保二は、柴田南雄の連載の翌年、『音楽藝術』1952年2月号に、「バルトックあれこれ」というエッセイを寄稿しています。

終戦後バルトックがプロコフィエフ、ショスターコウィッチと共に若い作曲家の間にもてはやされているという話を聞いて一種の感慨めいたものがある。

というのが、清瀬保二の書き出しです。そして柴田南雄の最初の2本と、5回連載の間の時期、『音楽藝術』1950年9月号には、清瀬保二も参加した「新作曲派の指向」という座談があり、以下のようなやりとりがあります(出席者は、清瀬保二、早坂文雄、松平頼則、渡邊浦人、大築邦雄、塚谷晃弘、司会:山根銀二、本紙記者)。

松平 昔は狭かつたけれども、いまより深かつたですね。
早坂 最近フォーレとかバルトックが話題になつているけれども、われわれは昔からあんなことはやつておつた。
清瀬 常識化している。
早坂 戦後出た人は珍らしそうにバルトックなんか盛んにやつているから変ですよ。
記者 それをいつ頃から認識していたのですか。
清瀬 ジルマルシェックスのときからでしよう。一九二六年ですよ。
早坂 昭和六、七年です。

ジルマルシェックスの帝国ホテルにおける伝説的な六夜連続演奏会は1925年ですが、佐藤仁美によると、「彼は、一九三一年に二回、一九三七年にも一回の計四回来日しているが、なかでも一九三一年には二カ月滞在し、音楽解釈についての講義やピアノ教授を行っている」(『ドビュッシーに魅せられた日本人』、90頁)。「新作曲派」の人たちが話題にしているのは1925年と1931年(昭和6年)のことだと思われます。

(ただし、座談のこのやりとりは、文面を読む限り、各発言者の個人的感想と戦前楽壇をめぐる一般論がごっちゃになっている印象があります。清瀬保二が1925年に既に九州から東京へ戻ってきていたのか、手許に資料がないので未確認。上で述べた清瀬のエッセイ「バルトックあれこれ」では、弦楽四重奏曲第1番のレコードを聴いたのがバルトークを知った最初だと回想して、アレクサンドル・チェレプニン来日(1934年)の話が続いており、ジルマルシェックスは出てきません。また早坂は、上のように発言していますが、1931年当時は北海中学在学中で伊福部昭にも出会っておらず、上京は昭和11年(1936年)なので、ジルマルシェックスを1931年に実際に聴いたわけではなさそうです。一方、松平頼則は東京在住の華族様で、1907年生まれでジルマルシェックス初来日の1925年には慶応在学中の18歳。きっと帝国ホテルへ聴きに行ったのでしょうね……。)

[追記2012/8/21]

松平頼則は、1925年のジルマルシェックス体験によって、音楽家になる決意を固めた、とされているようです。

この青年、松平頼則は、一九〇七年五月五日、旧石岡藩主の流れを汲む松平頼孝子爵の長男として生まれた。ジル=マルシェックスによる演奏会が開かれた当時は、慶應義塾大学仏文科に在学する学生であった。音楽への意思を固めた松平は、上野の音楽学校で指揮を教えていたラウルトルップにピアノを習い始め、ドイツ出身のチェリスト、ヴェルクマイスターには、作曲と機能和声とを師事することになる。

「松平頼則が遺したもの」(石塚潤一) : Hiroaki OOI Official Blog

[追記おわり]

近代和声学<松平>

近代和声学<松平>

「昔は狭かつたけれども、いまより深かつた」と豪語する松平頼則は、上の座談のあと1952年から『音楽藝術』に「近代和声学」の連載を始めて、1955年に刊行しています。そして1969年には60年代の新しい動向を踏まえた章を加筆して改訂。戦前と戦後に断絶・転向がなく、それこそジルマルシェックス来日の頃からの取り組みを土台にして、そこに新しい知見を積み上げていく彼の立場がよくわかる仕事だと思います。(なお、序文には中曽根松衛への謝辞があり、少なくとも『音楽藝術』連載の担当は中曽根だったと推察されます。上の座談での「本誌記者」も中曽根松衛だったんじゃないかと、私は思っているのですが。)
ドビュッシーに魅せられた日本人―フランス印象派音楽と近代日本

ドビュッシーに魅せられた日本人―フランス印象派音楽と近代日本

柴田南雄が日本におけるバルトークの最初の紹介者であったわけではなく、戦前からバルトークへの関心はあった。このことは、石田論文でも紹介されています。

柴田南雄の1949年の最初の論考は、終戦直後にNHKでバルトークのピアノ協奏曲第3番の米コロンビアのレコードを見せてもらったエピソードではじまっています。戦争で情報が途切れていた最晩年の作品が戦後日本に、プロコフィエフなどと一緒に入ってきて、戦後世代に、にわかに新たなバルトークへの関心が高まったということであろうかと思われます。

戦前は、ドイツ一辺倒の音楽学校と、ブルジョワのフランス派しかおらず、清瀬保二や早坂文雄のバルトークへの傾倒には、こうした西洋崇拝への反発・反骨がにじんでいたのだと思います。

[この段落、一部改稿→自伝を踏まえて改訂]松平頼則が「浅い」と不満を述べている戦後派は、具体的に誰のことなのか、前年にこの雑誌に原稿を書いた柴田南雄のことなのか、ちょっとよくわかりません。早坂文雄がバルトークと並べて言及しているフォーレへの関心となると、さらに誰のことなのか不明です。もしかすると、音楽学校へ迎えられた池内友次郎への当てこすりでしょうか。外山や林光の回想を読むと、1930年代生まれの世代は戦後のラジオやコンサートでバルトークやプロコフィエフに夢中になって、そのまま音楽学校へ進んだようなので、彼らに対して「今時の若い者は」と苦言を呈しているのかと思ったのですが……。

松平の「昔のほうが深かった」との不満をきっかけにして早坂が批判している相手が誰なのか、この座談会だけだとわかりにくいですが、「フォーレ云々」は柴田南雄が「優しい歌」というフォーレを連想させなくもない作品を発表して評価されたこと、そして前年にバルトークに関する論考を発表したことを指しているようです。(そして、毎日音楽賞が、自分たちを差し置いて柴田南雄らの新声会に与えられたことに新作曲派協会の人たちが不満を持っていたようです。→http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110619/p1

[ただし考えてみれば、]『音楽藝術』にバルトーク紹介を書いた柴田南雄は、成城高校在学中から諸井三郎に師事する一方で、東京帝大理学部と文学部で学んだ人で、音楽学校派でもなければ、在野の独学派というわけでもありません。世代的にも、1916年生まれで、清瀬保二(1900年生)や松平頼則(1907年生)の戦前派と、1930年代生まれの戦後派の中間です。在野と官学、戦前派と戦後派の軋轢が楽壇にあったのだとしたら、柴田南雄は、むしろ[本来は]仲裁にうってつけの立場だったかもしれません。[実際のところ、]1949年の最初の論考が新作曲派協会を刺激したことが明らかになったのち、柴田は清瀬から楽譜を借りて、連載を続けることができたのですから、調停は成功したということでしょうか。柴田南雄と2歳上の吉田秀和が戦後楽壇で独特の存在感を持ち得たのは、戦前と戦後の断絶を乗り切るうえで、彼らのような世代・経歴の人材が必要だったということかもしれませんね。(いってみれば、90年代セカイ系の東浩紀が、ゼロ年代を標榜する宇野常寛と、80年代おたく文化の渦中にいた大塚英志を仲立ちする役回りになるようなものでしょうか。)

[補足4/16] 1950年の新作曲派協会の座談会に司会で参加している山根銀二は、音楽之友社の社史によると、この頃、友社の「顧問」の肩書きがあったようです。「顧問」がどの程度、どのような仕事をしていたのかはわかりません。「本紙記者」は、『音楽藝術』を創刊から担当していた中曽根松衛ではないかと思われます。座談会が、ジルマルシェックスに関する発言の年代などがあいまいなまま記事になってしまったのは、速記者や担当者が、昭和初期のことをよく整理せずに記事をまとめてしまったせいかもしれません。(ちなみに、中曽根松衛は1923年生まれで、入野義朗(1921年生)や松下眞一(1922年生)と同世代です。独立して『音楽現代』を創刊したりして、2007年に死去。)

バルトークの記事を柴田南雄が大々的に書くことは、どういう経緯で決まったのか。他にも特定の作曲家の特集などがあるなかで、バルトークについては、清瀬保二らの意見もフォローしたり、清瀬保二から柴田南雄が楽譜を借りるというようなことまであったことがわかるわけですが、こういう風に話題が活性化することに、編集サイドがどのくらい関与していたのか。いつも思うことですが、日本の戦後音楽に音楽之友社が果たした役割をいつか誰かがまとめて欲しいです。[補足おわり]

武満 徹 : 弦楽のためのレクイエム/サラベール社大型スコア

武満 徹 : 弦楽のためのレクイエム/サラベール社大型スコア

武満徹が、そんな清瀬保二に私淑しており、「弦楽のためのレクイエム」が早坂文雄への追悼の音楽だったことは周知の通り。

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柴田南雄は、1950年の連載初回「(一)」の最初に、参照した文献のリストを載せています。そして「(一)」の後半は、バルトークによるハンガリー民謡研究の略述に充てられており、掲載された譜例などから、柴田南雄は、バルトークが1924年の Hungarian Folk Music にまとめた民謡分類の情報を何らかの形で得ていたのではないかと思われます。(文献リストには出ていないのですが。)

Hungarian Folk Music は1995年に日本語に訳されています。訳者の間宮芳生(1929- )は、年齢の上では二十歳前後で柴田南雄の論考の洗礼を受けた世代になりますが、この本を実際に知ったのは、かなりあとになってからのようです。

1924年にまとめられた、バルトークのこの本「ハンガリー民謡」(英訳書)を私が手に入れたのは、1980年ごろだが、これを読んで、ハンガリー民謡に比べたら手こずるかもしれぬが、あの頃(1950年代)これを知っていたら、この分類法とはおそらく大分ちがうだろうが、日本民謡の分類、分析法を見つけられたかもしれない、と今思う。(間宮芳生「訳者序文」、バルトーク・ベーラ『ハンガリー民謡』、4頁)

彼がNHKの民謡録音を検討して、「日本民謡集」や「合唱のためのコンポジション」を発表したのはバルトークを強く意識してのことだと思っていたので、ちょっと意外でした。具体的なことを知らないままに柴田南雄の用意した平面の上でぐるりと一周してしまったかのようで、興味深い因縁だなあと思います。

石田一志は間宮芳生が「肉体の運動を通してバルトークの方法を批判的に継承しようとした」(1989、35頁)と形容しています。『音楽藝術』1955年11月号に間宮芳生が寄稿した「創作にあたっての民謡の処理について -- 民謡と民族的音楽語法の問題のために --」を読むと、青森・秋田・岩手の民謡の圧倒的なリアリティを前にして、そこから何かを汲み取ろうと試行錯誤していたことがわかります。当時の新生中国のピアノ伴奏歌曲集に感嘆したり、バルトークやコダーイの取り組みに関心を持つのは、別の国で同じ課題に取り組む「同志」という認識なのだろうと思います。行動する音楽家には、柴田南雄のように、ひとりの作曲家の歩みを初期から晩年までたどる余裕はないし、バルトークがハンガリー民謡について精緻な「分類法」に研究室で何年も取り組んでいたとは想像が及ばなかったのかもしれません。

だとすれば、どうしてその後バルトークの民謡論を訳出する気になったのか。間宮芳生が身体を張って、「足の裏」で踏みしめたと信じた大地は、柴田南雄が冷静に作図した民族主義的前衛作曲家の人生という地図の内部に収まる場所だったのか。逆に気になってしまいますが、それはまた別の話。

(ただ、社会主義国ハンガリーで民謡に取り組む音楽家としてのバルトークやコダーイとの連帯を左翼音楽家が本格的に考えたのが、55年テーゼと「うたごえ」からなのか、それ以前からそうした動きがあったのか、ということはちょっと気になります。「新作曲派」が1950年に戦後のバルトーク・ブームを浅薄だと批判したときに、バルトークが民謡派・民衆派だという見方への違和感が含まれていたのかどうか。

これと関連して、そういえば、柴田南雄のバルトークとの出会いが合唱曲だった、というのはどういうことだったのか。柴田南雄が、一連のバルトーク論で器楽作品だけを取り上げて、合唱曲の譜例をほとんど挙げないのも気になります。

戦後に合唱がさかんだった頃、バルトークとコダーイがさかんに歌われたようですが、それは柴田南雄の論考が出た1950年より前なのでしょうか、それよりあとのことなのでしょうか?)

バルトーク ハンガリー民謡

バルトーク ハンガリー民謡

間宮芳生 日本民謡集 (改訂版) (声楽ライブラリー)

間宮芳生 日本民謡集 (改訂版) (声楽ライブラリー)

間宮芳生:日本民謡集

間宮芳生:日本民謡集

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柴田南雄が1950年の連載初回に掲げた文献リストの筆頭は Serge Moreux: Bela Bartok, 1949 で、彼は自ら翻訳して1957年に刊行しています。

モルーの『バルトーク』を訳そうと思い立ったのは、この本の旧版である四九年刊の薄い小冊子を手にした時であった。[……]モルーのあとがきに倣って、訳者の私も左の友人に感謝を捧げよう。まず、徳永康元氏へ -- 十数年前にブダペストから、私のバルトークへの関心を盛んに喚び起こし、本書の四九年版の原書をいち早く私に与えてその邦訳を促し、さらに本訳書のハンガリー語関係について貴重な教示を与えられたこと、その他もろもろに対して。それから吉田秀和氏へ -- 当初予定されていた出版社、創元社との交渉その他数知れぬ援助と助言に対して。(セルジュ・モルー著、柴田南雄訳『バルトーク -- 生涯・作品 --』、ダヴィッド社、1957年、263頁)

柴田南雄は、『音楽藝術』にバルトーク紹介記事を書き継いでいた段階で、モルーの翻訳を考えていたようです。吉田秀和の名前が出て来ますが、創元社は彼の最初の単著『主題と変奏』を1953年に出していますから、この前後の時期に、柴田南雄は訳書の版元を探しはじめて吉田秀和に相談したのでしょうか。

吉田秀和全集〈2〉主題と変奏

吉田秀和全集〈2〉主題と変奏

柴田南雄と吉田秀和は、一緒に桐朋音楽教室に関わっていたはずですし、この直後に二〇世紀音楽研究所へ合流するわけですが、軽井沢で夏に現代音楽祭をやったのは、ダルムシュタット音楽研究所の夏のセミナーがモデルだったと見てほぼ間違いないでしょう。で、ダルムシュタットといえば、セリー音楽の牙城というイメージですが、終戦直後1946年にセミナーがはじまった頃には、ナチス時代にアメリカへ渡ってドイツでは情報が途絶えていたヒンデミットやストラヴィンスキーやバルトークの研究からスタートしたようです。ダルムシュタットがセリエリズムに染まるのは、ブーレーズが乗り込んできてからのこと。柴田南雄と吉田秀和が、二〇世紀音楽研究所をやる前にバルトークを「仕掛けた」のは、ダルムシュタットの歩みを正確になぞっていると見ることができるかもしれません。

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柴田南雄のバルトーク紹介を読み直して、私が一番印象に残ったのは、1921年のヴァイオリン・ソナタ第1番に関する次の文章です(「作曲技法上の諸問題」、8頁)。

この作品によつて、彼が眞の作曲家としての第一歩を踏み出した事は前に述べた。時に四十歳。若しこれより以前に彼の創作活動が終つていたなら、彼は民謡の編曲や「アレグロ・バルバロ」などによつて單にエキゾティシズムの作曲家として遇せられるに止まつたであろう。この年から歿する迄の二十五年間のたゆみない上昇線の成就は、現代作曲家としてはけだし類い希な現象に属する。

そうなんですよね。アレックス・ロスの言う「芸術の政治学」、彼が国際連盟になぞらえる第一次大戦後の国際協調路線(ミヨーとシェーンベルクが「ピエロ」でエールを交換するような)のなかで、バルトークの精悍な音楽の評価が高まっていくわけですが、このとき、バルトークは既に40歳でした。それまでに、ブダペストのピアノ科教授で自作自演をするピアニストとして、既にそれなりのキャリアがありました。

今では、シュテッフィ・ザイエルの死後、ヴァイオリン協奏曲第1番の存在が明らかにされて、この曲や弦楽四重奏曲第1番に込められたシュテッフィへの恋心が話題になりますし、『音楽芸術』1994年11月号の特集「バルトークの現在」では、ヤーノシュ・カールパーティの「バルトークといわゆる「ユーゲント様式」」という講演原稿が訳出されています(訳・構成:伊東信宏)。バルトークはストラヴィンスキーより1歳年上で、シェーンベルクとも6歳しか違いませんから、ストラヴィンスキーと帝政期のペテルブルク、シェーンベルクと世紀末ウィーンを考えるのと平行して、ブダペストの世紀末芸術と若き日のバルトークが普通に話題にできそうですし、むしろ、マーラー・ブームの1990年代には、こっちの話題のほうが、「前衛の闘士バルトーク」よりも、一般の関心を呼びやすかったかも、と思います。

柴田南雄は、一連のバルトーク紹介の冒頭でピアノ協奏曲第3番のレコードのことを語るときにも、ジャケット写真の作曲者が「疲れやつれ果てた揚句何の希望も棄て去つた風の老人」であることに驚いてみせます。もちろん最晩年の「老い」は病気のせいですが、柴田南雄にとって、バルトークは精悍な闘士のイメージと、「疲れ果てた老人」のイメージが二重になっていたようです。バルトークが、国際舞台に立ったとき既に「四十歳」だったというのも、意味は二重だと考えていいのではないでしょうか。紹介文の文面は、その後の「上昇線」を作曲技法の観点から淡々と記述するわけですが、それは同時に、バルトークが国際的な評価を得る前の段階で経験していたであろう何かが視界から遠ざかり、隠されていくことでもあるわけで……。

(前のエントリーで詮索した1967年の『西洋音楽史 印象派以後』においてhttp://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110406/p1、柴田南雄は両大戦間のアヴァンギャルドを本質的にロマン派の延長と捉える立場に、慎重な言い回しながら賛同しています。

真の現代を最も狭く解釈して第二次大戦後にはじまると見なす一部の歴史家の立場は、音楽の世界に於ても多くの支持者を見出すのであり、筆者の見解でも真に現代音楽と呼び得る作風は第二次大戦後に発していると考える。そこから新たに起こった様式や理論は、それ以前のものとは大きな相違がある。第二次大戦以前までの音楽は、すなわち二〇世紀前半の音楽は、将来は一九世紀ロマン派の音楽と共に大きな枠でしめくくられる時が来るであろうと筆者は想像するのであるが、これらの点については後に再三触れる機会があろう。(柴田南雄『西洋音楽史 4 印象派以後』、11-12頁)

今読むと、戦後音楽の将来性を高く見積もり過ぎているのではないかとも思えますが、過去を切断して進歩・前進に賭ける同時代の熱気に巻き込まれていたというだけではなく、シェーンベルクやストラヴィンスキー、そしてバルトークが前世紀に生まれた人間であり、成人してから意識的にスタイルを切り替えたのだということ認識も、彼の判断に影を落としていたのではないでしょうか。)

上の文章を書いた1949年に、柴田南雄本人は(誕生日が9月なので)32歳です。このあと十二音技法を研究して、「シンフォニア」(1960)を発表したときには44歳。

「若しこれより以前に彼の創作活動が終つていたなら」、柴田南雄はどういう人物として「遇せられ」ていたことか。1916年生まれの柴田南雄は多くの戦死者を出した世代ですが、28歳で終戦を迎えたあと、彼自身の歩みを「たゆみない上昇線」と形容するのも不可能ではないかもしれません。バルトークへの関心は、(1) 欧州での評価が高くそれに見合った質を作品が備えていると目されること、(2) ハンガリーはヨーロッパのなかでは民族的に孤立したアジア系とされ、作曲者自身がナショナル・アイデンティティの確立を目指していたこと、など、極東の音楽家として教えられるところが多い、というだけではなく、柴田南雄にとっては、「第二の人生」のお手本・目標という意味合いがあったのではないかという気がします。

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大田黒元雄は、後年、バルトークの名前を最初に知ったのは、ロンドンのブライトコプフで「ルウマニア舞踏曲」の楽譜を買ったときだったと回想しています。1912年から1914年にロンドン大学で学んでいた頃のことです。

ロンドンのブライトコフの店でその「ルウマニア舞踏曲」を買つて、作曲家ベラ バルトックの名前を始めて知つたのは、もう十年以上も前のことである。その頃の私はこの作曲家が男なのか女なのかさへ知らなかつた。ベラといふ名は女のやうにも考へられたが、私はその曲の持つてゐる力強さから結局その人を男に相違ないと決めたのである。けれどもそれから十年の後、このハンガリイの作曲家の名声は、次第に博く傅へられるやうになつた。(大田黒元雄『音楽生活二十年』、1935年、第一書房(復刻:大空社、1996年)、218頁(初出『華やかなる回想』、1925年))

バルトークの日本の作曲家への影響をまとめた石田一志のレポートは1925年にジルマルシェックスが連続演奏会で「アレグロ・バルバロ」を弾いたエピソードから書き起こされていて、1930年代に清瀬保二や江文也が輸入レコードや新響の演奏会で、弦楽四重奏曲第1番や「舞踊組曲」や「弦チェレ」に魅了されて、アレクサンドル・チェレプニンが「バルトークを学びなさい、ボクがバルトークに一度日本へ行くべきだと言っておいてあげるから」と伊福部昭らを鼓舞したことなどを紹介していますが、大田黒元雄のこのエピソードはさらに十年前です。

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1949年の柴田南雄は、「若しこれより以前に彼の創作活動が終つていたなら……であろう」と歴史にIFを導入する反実仮想の語法で書くことしかできなかったのですが、そんな回りくどいことをしなくても、実際にバルトークが「民謡の編曲や「アレグロ・バルバロ」などによつて單にエキゾティシズムの作曲家」であった時代のヨーロッパを経験した日本人がいたわけです。

大田黒元雄は、1950年前後には、啓蒙書がまだ出続けるなど、いちおう現役でした。そして柴田南雄は、大田黒元雄が翻訳したセシル・グレイの著作を「作曲技法上の諸問題」で俎上に載せています。

バルトークの弦楽四重奏曲第4番について、グレイが『音楽の現在及び将来』(大田黒元雄訳、1942年)で「同時に鳴らされる七つの隣接せる半音のみから成る和声的集塊を人間の耳が楽しみ得るようになろうとは想像しかねるからである」と書いているのを、「配分法」を考慮しない無理解であると断じ、次のように書いています。

このグレイの言葉はバルトークのスタイルに對する全き無理解に発している。問題のトから嬰ハに至る隣接する七個の持続音群は前述したように配分法の一半で、それのみでは生命なき断片的要素にすぎず、従つてそれを人間の耳が楽しむも楽しまぬもあつたものではない。[……]文明批評家や文藝評論家が音楽の創作上の具体的事実に触れると、とかくつまづき勝ちなのは我が國ばかりではないと見える。

21世紀初頭の音楽談義は、柴田南雄の頃とは逆に、「文明批評」の視点を忘れて「音楽の創作上の具体的事実」にとらわれる実作者の態度をこそ、近視眼的な「つまづき」として面白おかしく告発するのがトレンドなので、今読むと、時代を慎重・周到に読んで行動する柴田南雄さえもが「地雷を踏む」時代の子であったのか、と思えてしまう箇所ですが、それはともかく、

セシル・グレイ(Cecil Gray 1895-1951)は、今ではシベリウスを早くから擁護した人として名前が出ることが多いのでしょうか。スコットランド出身で、ニューグローヴの略伝もかなり手厳しいですが、邦訳された著書の文体や論調からも、アクの強い保守的な批評家らしいということがわかります。ところが、大田黒元雄はグレイをお気に入りらしく、国立国会図書館で検索すると、グレイの邦訳が5冊(あるいは再刊重複があり3冊?)あり、訳者はすべて大田黒ですね。

  • 『音楽芸術史』、大田黒元雄訳、第一書房、昭和5(The History of Music, 1928)
  • 『現代音楽概観』、大田黒元雄訳、第一書房、昭和5(A Survey of Contemporary Music, 1924か?)
  • 『音楽の現在及び将来』、大田黒元雄訳、第一書房、昭和17(Predicaments: or Music and the Future, 1936)
  • 『近代音楽の巨匠』、大田黒元雄訳、音楽之友社、1950(A Survey of Contemporary Music, 1924)
  • 『音楽はどこへ行く』、大田黒元雄訳、音楽之友社、1952(Predicaments: or Music and the Future, 1936か?)

柴田南雄が大田黒元雄をどう思っていたのか、直接的な言及がどこかにあるのか、私はよく知りません。上の引用文にある、「音楽の創作上の具体的事実に……つまづき勝ち」な「我が國」の「文明批評家や文藝評論家」が、訳者の大田黒元雄を揶揄しているのかどうかも、ボカしてあって曖昧です。でも、おそらく1950年の若い読者は、こういう風に戦前の鷹揚な享楽主義(GHQが「封建的」と警戒した歌舞伎を桟敷で楽しむのとほとんど同じ態度でオペラ通いをする中流階級)を新しい技術論で粉砕する啖呵にシビレたでしょうね。

こうして英国紳士の古ぼけた饒舌を一刀両断することで、玉突き式に(直接自ら手を下すまでもなく)ロンドン帰りの評論界の重鎮の影が薄くなってしまう。見事な情報操作と言うべきでしょうか。(東大を出たエリートは、こーゆー血も涙もないことをするから恐いよなあ、とわたくしは思うのでございます。)

[補足4/12]

なお、1920年代以後の「新音楽」の国際市場へ打って出ようとしたバルトーク(『ハンガリー民謡』巻末の伊東信宏の解説などによるとこの頃バルトークは国外へ出ることを考えていたようです)の作品に12の半音をバランスよく配分する配慮が認められるということを、柴田南雄は執拗に指摘しています。まるで、バルトークが調性という古い階級秩序を離れて、12の半音が平等な新秩序へ踏み出す先駆者のひとりだったと言うかのように……。そして柴田南雄の一連の論考は、バルトークの音楽を「配分法」という概念で読み解く画期的な分析論文であるかのように処遇されることもあるようです。

けれども、そもそも12の半音の配分への配慮なるものは、楽譜を観察したらこうなっていたというだけのことなのか、バルトーク自身の音楽観・作曲技法のなかでこうした配慮が一定の機能を果たしていると論証できるのかはっきりしませんし、こうした配慮が美学的・作曲技法史的にどのような意義をもつのか、ということも、実はかなり微妙だと思います。そしてこれらの疑念をクリアできたとして、そもそも、これは本当に柴田南雄の「発見」なのかどうか……。学説と呼ぶにはチェックすべき疑問点がいくつも思い浮かびます。

彼の論考が「配分法」というキーワードとともに記憶されて、「配分法」を前面に打ち出せばなんとなく反論されずに話が通ってしまったのは、音程というパラメータの設計が作曲において重要なファクターだとするドグマが支配する時代風潮の追い風があったからだと思われます。狭義には十二音技法とセリエリズムがその典型ですが、20世紀には、無調派だけでなく調性音楽論にもこのドグマが漠然と広まっていました。バッハやベートーヴェンの古典作品についても、音程こそが作曲の「本質」であるかのような議論がありました(シェンカーの「Urlinie」論やレティの「音程細胞」論など)。また、古代以来の西欧における音程・音律論などにこのドグマの遠い起源を求めて補強する論議が絶えません。そして極東の日本には、五線譜とドレミこそが西洋音楽を代表する特徴であるという漠然とした認識があり、規律・文法・構築性といった西洋音楽の「合理性」や「近代性」を語るキーワードは、そのような通念と野合しているように思われます。

しかも、柴田南雄の「配分法」は、厳密に定義された技術用語なのか、(音を)配分する方法という一般的な漢語なのか? この言葉は、あいまいで揺れのある状態でバルトーク論にちりばめられています。論証としての厳密さや一貫性よりも、批評的な有効性を優先した書き方です。大田黒元雄訳のセシル・グレイへの批判は、グレイを論破した論証というよりも、上で述べたようなコンテクスト(音程操作が作曲の「本質」であり、12の半音の平等な扱いを模索するのが新時代の作曲家の責務であるという漠然とした観念)を背景に背負った場合にかぎってのみ、新世代が旧世代を言い負かした、と読者に思わせることに成功するような、賞味期限の限られた論争的パフォーマンスだと思います。

弦楽四重奏曲第4番の音群をどう解釈するか、ということについては、当然、ほかにも色々な見方があるでしょうし、音楽の国際市場の「政治学」というコンテクストで考えると、バルトーク自身が、あのような書き方をすることで市場におもねった(作曲家としてのポリシーを無節操に曲げたわけではないにしても、市場と節操の折り合いをつける着地点があの音であった)と見ることだってできるかもしれませんし……。

[補足おわり]

[4/18 補足の補足]

(不協和で激烈に軋む特定の箇所を取り出しても、それは「生命なき断片」だと柴田はいいますが、それでは、12の半音をバランス良く使う状態を、「生命力」に溢れていると見なすことができるかどうか。柴田南雄のグレイ批判にある「生命」という言葉は、十分にこなれていない印象が残ります。

彼は、バルトークの作品から抽出した五度圏上での12の半音の分布図に、精巧な化学式や、シンプルで生産的な数式に似た「美」の法則の可能性を予感している気配があります。黄金比(1:1.618...)とフィボナッチ数列(0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21……)に着目するのも、そのせいだと思われます。ほかにも、新ウィーン楽派は、12の半音の配列に対称性や特殊な音程特性を仕組むことで、その音列を用いた作品に特別な対位法的・和声的性格を与えようとしたことが知られています。両大戦間の「新音楽」では、たしかに、半音の配列のようなシンプルでミニマムな音の運用規則を、作品全体の構造と相関させる手法が模索されていたようです。柴田南雄はそのことを指摘したかったのだろうと思いますが、柴田南雄が事態をどこまで見通して、新音楽の技法にどのような美学的評価を与えていたのか、その全貌は、その後の彼の十二音技法研究などを見据えながら、別途検討すべきかもしれません。1950年の読者には、柴田南雄による「配分法」の作図だけでも、十分に新鮮かつ刺激的で、「戦後の新時代」を感じさせたのだろうと推察されますが。)

[補足の補足おわり]

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大田黒元雄は1914年のロンドンで、ニジンスキーが踊る「バラの精」や「牧神の午後への前奏曲」、ニジンスキーではなかったけれども「ペトルーシュカ」等々を観ているんですよね。その思い出を『露西亜舞踊』という本にまとめているし、再渡欧で観た「三角帽子」は最も面白いバレエだった、と絶賛しています。彼がバレエ・リュスの舞台を観て書いたことは、ドビュッシーやシェーンベルヒ(ママ(笑))の紹介者というのと同じかそれ以上に重要なんじゃないかと思います。

そこのところを、戦後音楽は「音楽の未来学」の観点からグイッと捻ってしまって、以来、大田黒元雄は、新音楽紹介のパイオニアに矮小化されることになった……。戦後音楽の言説は、大財閥を解体して普通の会社に分けるような施策を大田黒元雄に対して行ったと考えればよいのでしょうか……。

([追記] 柴田南雄のバルトーク連載が終わった翌年、1952年に團伊玖磨が歌劇「夕鶴」を大阪と東京で上演しました。このプロジェクトには、後見人のような形で大田黒元雄が関わっていたようです。戦後の創作オペラに火を着けたのは、三井の團琢磨の孫と、東芝の大田黒重五郎の御曹司であったわけです。そして大阪では、戦前にコンクリート基礎工事の特許で財を成した工務店の跡取り息子の武智鉄二がオペラ演出に参入します。このときには、吉田秀和が、欧米視察の経験を踏まえて戦後派の若手作曲家を鼓舞しつつ、武智鉄二や清水脩の路線を押さえる役回りを演じようとしたように見えます。バルトークに関する柴田南雄の位置取りや、創作オペラに関する吉田秀和の対応は、言説上の「財閥解体」と見ると、整理しやすくなるかもしれませんね。

ただし、1949-51年のバルトーク談義がひとまず柴田南雄の提示するラインで収まった一方、1950年代半ばの創作オペラ運動は、複数団体が競合して、海外からの引っ越し公演とも競合するオペラ界の群雄割拠状態へ帰結しました。学者一族の柴田南雄のほうが、文士気質の自由人・吉田秀和よりも、このような「文化政治」における立ち回りが巧みであったと言えるかもしれません。

もちろん、(1) 1950年前後は、GHQの統制下で、イデオロギー上の落としどころを見定めやすかったのに対して、1950年代半ばは、日本の再独立により反米・親米、保守・革新が入り乱れて騒然としていたこと、(2) バルトークの音楽をめぐる議論は「新音楽」の是非、民謡と芸術、というように論点を整理しやすい案件だったのに対して、オペラはそれ自体が総合舞台芸術であり、論点が拡散しがちであったこと、(3) バルトークへの取り組みが、お互いに顔見知りである東京のかぎられたサークルでの出来事だったのに対して、オペラ運動には作家・音楽家・興行団体・パトロン・放送局・新興鑑賞団体が入り乱れて、しかも、労音や関西歌劇団など、東京からは細部が見えない関西での動きがあったこと……等々、創作オペラ運動は、問題が格段に複雑であり、誰が取り組んだとしても、(まさにこの頃議論になっていた米軍基地問題が半世紀たっても未解決であるように)この時点での収束は無理だったかもしれませんが……。)

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柴田南雄の文章は淡々として、「客観的」に見えますけれど、音楽の技法や価値評価の線引きは明瞭で、これとこれは廃棄処分、これとこれは将来性あり、と仕分けしながら書いていることを文面から読み取ることができます。そのように読まれるだろうこともわかっていたはずです。

彼の仕分けを歓迎する人たちにとって、彼の文章はアスファルトできれいに道を舗装したように過去を清算・整地してしまうので実に快適です。そして仕分けされてしまう側に区画されてしまったと感じた早坂・清瀬といった人たちが反発するのは、よくわかる。戦後のいわゆる「都市開発」の手法に似た手触りを感じさせる文体で、整然と反論せよと言われても困るけれども、アスファルトの底の見えないところへ埋められてしまいそうなのだから、そりゃ怒るだろうという話です。そしてこの文体を楯にして、柴田南雄本人は、滅び行く(と思えた)19世紀ではなく、未来(と当時信じられていたもの)の側へ賭けた、と。

柴田南雄のバルトーク紹介は、何をどう分析しているか、という内容もさることながら、その語法と歴史観が、何に光をあてて、何を陰に隠す結果になったのか、周囲に巻き起こした波及効果とあわせて読むと、興味深い文書であるように思います。

バルトーク集 (1) (世界音楽全集)

バルトーク集 (1) (世界音楽全集)

ピアニストとしてのバルトークは、1920年代まで「大戦争」前のヴィルトゥオーソ時代の曲を弾いていたようです。オネゲルも、ピアノと管弦楽の「ラプソディ」の自作自演を聴いたのがバルトークとの出会いであったと回想しています。
春秋社のピアノ曲集の解説は伊東信宏。音楽院時代以来のバルトークの足取りをある程度たどることができます。
バルトーク集 (2) (世界音楽全集)

バルトーク集 (2) (世界音楽全集)

バルトーク集 (3) (世界音楽全集)

バルトーク集 (3) (世界音楽全集)

(いわゆる音楽のカルチュラル・スタディーズは、こーゆーふうに掘っていけばいいのだろうか。音大の図書館で他の仕事の合間に2、3日調べたら判明した普通の文献調査ですが……。わたしも40過ぎてから「上昇線」に乗れるか(笑)。)