いい歳した困ったちゃんである「山月記の虎の人」は「俺はもっとちやほやされるに値する。ちやほやせえ」とおもてるだけやねんけど、なんかすげー才能とか能力とかあるのに虎になったまま吠えてる人とかと40にもなるとたいそうな数すれ違うわけでして、そういう人を思い出すたび心が痛むのです
増田聡 on Twitter: "いい歳した困ったちゃんである「山月記の虎の人」は「俺はもっとちやほやされるに値する。ちやほやせえ」とおもてるだけやねんけど、なんかすげー才能とか能力とかあるのに虎になったまま吠えてる人とかと40にもなるとたいそうな数すれ違うわけでして、そういう人を思い出すたび心が痛むのです"
大久保賢が中島敦じゃないことは、この文章を読めばわかる。→ http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/23741887.html
(メシアンはマイノリティがパリにワラワラ集まってきた汚らしい1920年代が嫌でたまらなくて、フランセなどと一緒に「若きフランス」で立ち、そのうちプーランクもカトリックの人になったのだから、1930年代の真性の「保守」。だから、音楽人の大好きなメシアンのカトリックの大伽藍のようなリズムとモードの体系は、人文社会科学に強烈なインパクトを与えたレヴィ=ストロース(共産党から転向)の「構造」と正反対を向いていて、健全な人間性の謳歌はウルトラ保守(ファシズムと実は似たところがあるかも)、「構造」や「形式」を言うのは革新で、そうなると「ドイツ音楽の構築性」が20世紀のフランスでどこへ位置を占めるのか、ややこしく組み変わったと考えざるを得ないわけですが。)
ともあれ、大学の先生が流言飛語でフリーターの営業を妨害してはいけない。非力な公家のささやき政治みたいなことをするとは、立派なオトナになったものだ。(学生時代から陰でチョコチョコやってたのは知ってるけどね。)
白石知雄は中島敦みたいなものだから近寄るな、と言いたいのであれば、どうぞご自由に。
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東京音楽学校師範科は、ひょっとすると中島敦っぽいかもしれないですね。吹奏楽の有名人、兼田敏(京都出身)は、石桁眞禮生(和歌山出身)と同じく下総皖一の弟子で、石桁眞禮生と同じく十二音をメロディーとして使った人です。
東京音楽学校は唱歌を全国へ広めて「国民を創る」機関ですから、師範科のほうが本流なのだと思います。
片山杜秀さんが『音盤博物誌』に3回連載で書いている「信時楽派」というのは、そうした質実剛健な日本の「うた」作りに取り組んだ東京音楽学校の作曲家たちのことですね。「尋常小学唱歌」の島崎赤太郎から、「新訂小学唱歌」の信時潔とその弟子の下総皖一、さらにその弟子の松本民之助……。片山さんは彼らが日本音階と西洋音階を巧みにブレンドして「うた」を作ることに着目して、連載3回目で下総皖一「たなばた」から坂本龍一の「戦メリ」へ話をつなげます。
自尊心の高い官吏が「山月記」の李徴のように身を持ち崩すことなく職責を全うするとこうなる、というお手本のような人たちだ、とも言えるし、こういう絵に描いたような成功事例があるせいで、官吏・教師は出世コースを外れても自尊心を捨てることができず、竹林の虎になって吠えてしまうのだ、ということでしょうか?
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石桁眞禮生は、下総皖一に学んだようですが、オペラや管弦楽曲も書いて、「うた」一筋の師範学校本流からすると分派になりそうですが、十二音技法をメロディーの造形に生かしたりした人ですね。
12の半音すべてを1回ずつ使う、というパズルめいた外的条件(石桁は「外在律」という言葉を好んで使ったようです)は、一種の試練であって、これを受け入れることでメロディーの内実(石桁用語で言う「内在律」)が鍛えられる。外的条件と内的衝動がピタリと焦点を結んだところに姿の良い旋律が像を結ぶとストイックに考えていたのかなあ、という気がします。交響曲(1956/1965)でも、セリーが一度聞いたら忘れないモチーフとして造形されているようです。
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同じく下総皖一に学んだ兼田敏の12の半音を使ったバス主題による吹奏楽のパッサカリア(1971年、音楽之友社創立30周年記念作品)も、そういう種類の「作曲のお手本」を少年少女に示したかったのかなあ、と思います。
譜面が手元にないのでスラーは記憶で付けていますが、たしか出だしはこんな感じだったと思います。
最初の4小節が大きく伸びあがって降りてくる弧を描き、次の4小節がもうひとつの小さな盛り上がりをみせて、出発点よりも半音低い主題中の最低音へ沈む形です(実際の譜面は、クレッシェンド、デクレッシェンドで大波・小波がはっきりわかるようになっていたと思います)。
最初の大波は一気に7度上がって、テンションを維持しながら半音でにじり、ようやく弛緩してCes-durの三和音をなぞるように降りてくる。二つ目の波は、反対にces-cと慎重に力をためて、さらに補助がないと上がりきれないかのようにdesへ寄ってからfへ上がる。そうして、まるでd-mollかa-mollにたどりついたかのように、f-e-d-aとゆったりした動きで収めています。
どちらの波においても、上昇するときには音程が大きかったり、半音でじっくり力をためたりして緊張があり、下降は、三和音をなぞったり、特定の調を想定できたりして緊張が緩みます。「上昇=緊張/下降=弛緩」の原則を感じさせるメロディーです。
そして2つの波は、第1の波が「b -> as...ces」と広い音域を確保して、第2の波は「c...f...d」と第1の波の範囲内にすっぽり収まり、大波のあとの余波のようにも見えます。
また、2つの波全体を俯瞰して目立つ音を拾っていくと、第1の波の頂点の「as-g-fes」から第2の波の頂点の「f」へ何かが引き継がれている。前半が半音階、後半が全音階で緩やかに下っていく「as-g-fes...f-e-d」のひとつながりの稜線を描いているようにも見えます。
(上下にうねる波の高く上がったところ、いわば「波頭」をつなぐと、前半が半音階、後半が全音階の緩やかな下降が見えてくる、というのは、たぶんバッハの「音楽の捧げ物」の主題が元ネタなんでしょうね。
それに、バッハの主題の最初のフレーズを後ろから前へ逆行すると、兼田敏の主題の冒頭とほぼ同じになります。
万葉集や古今・新古今を手本にして雅語で歌を詠むように、西洋の大家に範を求めた本歌取り、という感じがします。)
12の半音のセリーを作るときに作曲家たちが実に様々なやり方を試みたことが知られていますが、兼田敏は、12の半音を使って、起伏と統一感のあるメロディーを作ろう(バッハをお手本にして!)ということだったようです。こういう種類のこだわり方で音の形を決めていくのが、洋楽の「師範」の発想なんだろうと思います。
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で、石桁眞禮生に作曲を学んだ小林研一郎の「パッサカリア」はというと、オーケストラのパレットを縦横に使った曲ではあるのですが、よく聴いていると、「音の上昇=緊張/音の下降=弛緩」という原則が教条主義的に思えるほど貫かれているんですね。作曲者自身が指揮しているので、そこのところはものすごくはっきりわかります。コバケンは「炎の指揮者」と言われたりしますが、彼の炎の「高さ/低さ」は、五線のメーターで常にモニタリングして、厳重に管理されているようです。
とりわけ、音の「高さ」、フレーズの「頂点」の管理・設定が厳しくて、曲の前半では、ほぼすべての主題で最高音が出てくるのは1度だけですし、同じ音型を繰り返すときには必ず前回の頂点をのり越えるように書くことで高揚感を演出しているように見えます。また、新しい楽器が新しい旋律を示すときには、必ずそれを、前のフレーズの音域よりも高い位置に置く。こんな風にすることで、どんどん何かが高まっていく音楽を演出しているようです。
聴いてみたら、テンペラメントのおもむくまま、などでは全くなくて、厳格な「規律」のある音楽・演奏でした。
小林研一郎は、この曲に関するコメントで、藝大作曲科に入った当時の「現代音楽」の状況を「カオス」と呼び、今回の作曲では「あの破壊的な曲を書かなくてすむ」ことが嬉しかった、と書いています。根本のところに明確・厳格な基準・規律があって、そのなかで「高み」を目指したい人なんじゃないでしょうか?
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私は、そんなコバケンの弟子の山田和樹にも、同質の「躾」を感じるんですよね。
要素に分割していいんだったら、個別に色々言えそうな気はするんです。
たとえば、「高みを目指す」感じの姿の良さについては、そういう人がひとりくらいいていいよな、と思わないことはない。(飛翔することも、堕落することもなく、中間をのたうつことの豊かさ、というのがあるとは思うけれど。)
「上昇=緊張/下降=弛緩」といった規律・原則を貫く人に対しては、あんまり厳格にやりすぎると、音楽・演奏として底が割れる危険がある(途中でその規律・原則の全貌がわかった時点で、その先が読めて興味を維持できなくなる恐れがある)と思うので、よほど巧妙じゃないと苦しいばかりになるんじゃないか、と心配です。
そして諸々の規律・原則や、目指す「高み」の設定方法が、「ドレミ」体質な世界観(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120920/p1)の枠内でなされてしまうと、これはもう、宗教だよなあ、と他人事になっちゃいそうなんですよね。
でも、世間は、逃げ場のない一本道をどんどん突き進む姿から「感動をもらう」のが好きだったりするようなので、やっぱり、人気が出るんでしょうねえ。