白石知雄氏は下品である、という意見を見かけて、どういう意味なのかなあ、としばらく首を捻っていたのだが、なるほど世の中にはこういう事情があるのかと思い当たった。
ところで日本のアート界においては一般に政治的意識が乏しく、強い政治的主張をもつ作品は敬遠される傾向があると言われるが、それは別に日本人が政治的にナイーヴであったり日本という国が内向きで閉ざされているためではない。脱政治的なみかけを共有することによる独特の「社交」が成立しているだけである。
アートにおける政治的なもの - tanukinohirune
美と感性の話は美と感性の話としてやる、藝術・技術の話は藝術・技術の話としてやる、ゼニカネの話はゼニカネの話としてやる、政治的な話は政治的な話としてやる。
このところ(とりわけ今年の初夏頃から)、色々なことを一度整理したほうがいいんじゃないかと思い、実際にあれこれできるところから身の周りを整理しておりまして(部屋の片づけとか、そういう具体的なレベルの話です)、あわせて頭の中の諸々を整理しているので、「脱政治的なみかけを共有することによる独特の「社交」」に抵触した可能性が考えられる。
で、この「独特の「社交」」は、テロをデモと言い換えたり、犯罪をいじめと言い換えるマスコミの慣行と同根、マスコミの慣行を意識的・無意識的にコミュニケーション全般の言葉遣いや思考の手本にしてしまうせいかもしれないと思う。
言い換えれば、マスコミ風の言葉遣い・語り方をまねてマス・コミュニケーションの構成員になったように幻想・錯覚する中毒症状が、「脱政治的なみかけを共有することによる独特の「社交」」と絡まり合っているように思う。
新聞紙面のよく似た事例は、「いじめ」という表記である。「テロル」を「デモ」とくくる言語感覚は、学校内の暴行や恐喝など「犯罪」を「いじめ」と表現する教育委員会的な心性と変わらないではないか。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120923/plc12092308500002-n1.htm
(「いじめ」と表現される学校内での問題は「犯罪」とアケスケに言ったほうがいい、という指摘はもう随分前からありますよね。昔、柄谷行人と浅田彰がそんなことを語り合っているのを見かけた記憶がある。)
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で、ひょっとすると、
「白石知雄氏は下品である」という書き捨ては、白石知雄は上品なものの言い方(=「脱政治的なみかけを共有することによる独特の「社交」」、ならびに、そうした作法にのっとった言葉の言い換え)を知らない野蛮人である、を含意しているのかもしれなくて、まあ、それでもいいのだけれども、
残念ながらそうではなくて、わたくしは、日々、めちゃくちゃ丹念に「脱政治的なみかけを共有することによる独特の「社交」」の作文をしておりますし、音楽に関して、色々な事柄をマスコミ的にセーフな語法に言い換える職人芸は、むしろ、嫌いじゃない方だと思っております。
そうではなくて、こちらへ回ってくるお仕事の量や種類が徐々に増えてきて、何をどう言い換えていたのだったか、だんだんゴチャゴチャして、紐付けるのがややこしくなってきたので、たこ足配線をほぐすように、一度、これは美学、これは藝術論、これはゼニカネ、これは政治、と整列しておいたほうがよさそうだと判断した、というだけのことだと当人は思っております。
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で、たこ足配線をひとつずつほぐしていくと、どうやら、「先生」という職業の周辺というのは、理由のよくわからない(わかりにくい)「言い換え」が集積しているらしく思われ、その込みいった配線をたどっていくと、音楽の先生の総本山と思しき東京音楽学校の「師範」の皆さまのところへ行き着いた、というのが、下品/上品をめぐる、白石知雄の「いまここ」であると認識しております。
割合順当に配線をたどっているのではないかと我ながら思うのですが……、
参考(よくわかる音楽入門風に):
- 音楽学会ってなあに? → http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/msj.html
- 《作品名》のかわいい記号《》は何のため? → http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120328/p1
- 音には名前がついている、「ドレミ」のおはなし → http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120920/p1
私は「心の清らかな音楽の先生」に敵意はないですし、むしろ、心安らかに人生を全うしていただきたいと思っています。ただ、変化の激しく、人の入り乱れる世の中で「清らかな心」を安定して保つためには、適正なサイズがあるんじゃないかと思います。適性サイズは、おそらく先生方が思っていらっしゃるより小さいし、「清らかな心」をそれが安定して生きている領域の外側へ持ち出すのは、先生方が思っていらっしゃる以上に危険で、周りの迷惑になる可能性がある。
善意で面倒な揉め事が起きて、周囲が引っかき回されるほどやっかいなことはありません。日本の洋楽150年が巻き起こしてきた悲喜劇は、そういうことだったんじゃないでしょうか?
(現状の学校も、先生には管理できない色々なことを抱え込まされ過ぎてる感じですよね。ある年齢の子供の昼間の生活すべての面倒を見る、という制度に無理がありそう。)
ポピュラー音楽に仮寓しながらクラシック音楽を恨んでいる人の数は、随分たくさんいるみたいですし。責任の取りようのない憾みを買うくらいだったら、私は「下品」でいいです。