洋楽・洋舞のCommon Practiceと第二次世界大戦の総動員

このところ、音楽における西洋の合理性への信頼やフランス的な音楽の悦びを全力で粉砕するようなことばかり思いついてしまうのですが、音楽における「普遍主義」を位置づけ直す抜け道があるのかも、とは思います。

ヒントになったのは洋舞の歴史、ディアギレフのバレエ・リュスとクラシック・バレエの関係を調べ直してみたことです。

ディアギレフ―― 芸術に捧げた生涯

ディアギレフ―― 芸術に捧げた生涯

パリへ進出するまでのロシア時代に、チェーホフに出てきそうな没落地主貴族の息子がいかがわしく有名になっていく過程が面白い。
バレエ・リュス その魅力のすべて

バレエ・リュス その魅力のすべて

せっかく全作品解説とかあるのに目次から演目名を探せなかったり、シノプシスが所々変だったり、微妙に詰めが甘い気がする。
ディアギレフ―ロシア・バレエ団とその時代 (上)

ディアギレフ―ロシア・バレエ団とその時代 (上)

ディアギレフ―ロシア・バレエ団とその時代 (下)

ディアギレフ―ロシア・バレエ団とその時代 (下)

ロシア関係のデータなど、今となっては古いところもあるのだろうけど、日本語の類書はないのだから復刊して欲しい!
Diaghilev's Ballets Russes

Diaghilev's Ballets Russes

鈴木晶によると、今もこれがバレエ・リュス研究の基本らしい。

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調的和声・規則的な拍子リズム・旋律と伴奏の役割分担といった近代西欧藝術音楽に由来する諸技法は、もはや「西欧」の「藝術」という由来をはなれた世界音楽のベーシックでコモディティな共有財になっているのではないかという認識のもとで、音楽における Common Practice と呼ばれることがあるようです。

(たとえば、前にも書いたかと思いますが、NHKで坂本龍一がやっている「スコラ」は、21世紀の基礎教養として、そうした音楽における Common Practice の学校を目指しているのだと思います。)

同様の意味合いで、ダンスにおけるバレエの諸技法、立ち位置と歩き方の基本語彙であるとか、シンメトリーを是とするアンサンブルとか、身体の屈折を最小化するポージングとか、というのは、それをホームポジションとして個々の実例がマッピングできるような舞踊の Common Practice になりつつあるのではなかろうか、と思いつきました。そして、クラシック・バレエが世界の舞踊の共通言語化したのは、実は20世紀のことであるらしいのです。

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バレエがバロック宮廷舞踊を基礎にして舞台藝術として定着したのはフランスでのことで、19世紀に、神話をマイムで物語る古典主義バレエから、つま先立ちで鳥や妖精を演じるロマンティック・バレエへ転換する。

ところが19世紀後半に音楽以外ではロマン主義が衰退します。バレエは、(「ルル」や「オペラ座の怪人」で描かれるように)踊り子目当ての殿方の楽しみの場になってしまい、西欧のものなら何でも高値で輸入する大パトロン化していたロシア皇帝のところへ人材が流出して、彼の地が、プティパの振付、チャイコフスキーらの音楽でバレエを一晩物の総合エンターテインメントとして完成させる。(オーケストラには、ヴァイオリンのロシアン・スクールの元祖になったレオポルド・アウアーなどがいたのですから贅沢なものです。)これが、クラシック・バレエですね。

ただし、同時代のペテルブルクやモスクワの劇場文化の格付けとしては、オペラが最上位で、バレエは低く見られていたようです。後世から見た「古典時代」が、同時代の文脈では埋め草という古い認識を脱却できていなかった、というズレは、音楽におけるウィーン古典派交響曲と事情は同じ。古典概念とは、得てしてそういうものなのでしょう。

……ということで、バレエの歴史では「ロマンティック」のあとに「クラシック」が来るのです、面白いですねえ、と、牧歌的なトリビアとして語られてきたわけですが、この話には続きがあって、このロシアのクラシック・バレエをバレエ発祥の国フランスへ還流させるルートを切り開いたのは、どうやら、ディアギレフのバレエ・リュスだったように思われます。

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バレエがパリからペテルブルクへ伝わり、それが再びパリへ戻ってくることは、鈴木晶なども「ブーメラン現象」と書いていて、バレエ関係者では常識なのかもしれませんが、

踊る世紀

踊る世紀

ニジンスキー 神の道化

ニジンスキー 神の道化

鈴木晶のバレエ本は、面白いところもあるのだけれど、雑談のように見せて特定の方向へこちらの意識を操作する文言がべったり貼り付いているので、だんだんゲンナリしてくる……。むしろネタ元の本をどんどん翻訳して欲しい。

ディアギレフが集めたメンバーの多くは帝室バレエの若手ですし、彼らとは別に帝室バレエのノーテーションを持ち出した人物がいて、それで「眠りの森の美女」をプティパ版で上演することもできたらしい。早い段階で「白鳥の湖」の短縮版をやったり、アンナ・パブロワの出演する「レ・シルフィード」もありますし、フランスで上演が途絶えていた「ジゼル」を取り上げるなど、とにかく話題作りの天才ディアギレフの采配ですから、前衛でなければアートじゃない、という意固地なものではなくて、客を面白がらせる味付けや見せ方でクラシック・バレエやロマンティック・バレエが演目に組み入れられていたようです。

バレエ・リュス結成前の「ボリス・ゴドノフ」パリ初演(1908年)もそうですが、この時代に劇場の引っ越し公演なんていう発想はどこにも存在しませんから、ロシアのオペラやバレエをロシア人スタッフがパリへ乗り込んで上演すること自体が破天荒な試みで、ディアギレフの舞踊団は、ストラヴィンスキーの物珍しい音楽と、エキゾチックな舞台と、ロシア皇帝の育てたダンサーたちの妙技がごっちゃになって同時に一挙に押し寄せる、わけのわからない事件だったようですね。

(昭和30年代にNHKがイタリア歌劇団を日本に呼んだら、マリア・カラス世代の新しいリアリズムと、伝統のベルカント唱法とがごっちゃになって、わけのわからない衝撃を日本の歌手と劇場人に与えてしまったのと似ているかもしれません。)

そうして、これも細かい経緯はもっと色々あるのでしょうが、ニジンスキーやバランシンがモダン・ダンスに火を付けただけでなく、バレエをヨーロッパが再発見・再活性化するきっかけになり、バレエ・リュスを契機にクラシック・バレエの団体が各地にできる、というようなことにもなったようです。

日本でも、1922年のアンナ・パブロワ(バレエ・リュスには最初のほうにちょっと参加しただけだけど)の「瀕死の白鳥」がバレエというものを知らしめるきっかけになり、これを見た小牧正英がハルビンでバレエ学校に入り、上海バレエ・ルッス(スタッフがどこまでディアギレフのグループとつながっているのかよくわからないですが、写真で見るかぎり、舞台装置や振付の大筋は本家を踏襲していたみたい)に参加して、敗戦後引き揚げてきて「白鳥の湖」全曲日本初演(舞台美術は藤田嗣治、音楽は山田一雄がピアノスコアから編曲した)の振付をすることになるのですから、二重三重に、バレエ・リュスがクラシック・バレエを定着させるきっかけになったように見えます。

日本バレエのパイオニア―バレエマスター小牧正英の肖像

日本バレエのパイオニア―バレエマスター小牧正英の肖像

ハルビンや上海のバレエ事情を知ると、朝比奈隆が戦時中に大陸で本格的なグランド・バレエを振っていたことは、当時の内地では考えられない体験だったわけで、このオッサンには、まだまだ知られていない面がある、と思わされます。師匠のメッテルはバレリーナと結婚した劇場指揮者だったわけですし(バレエ・リュスの十八番でもあった「だったん人の踊り」を日本初演したのはメッテルの妻が指導する宝塚少女歌劇でした)、朝比奈隆とバレエ、は何か色々出てきそうな未開拓の分野だと思う。

つまり、1910〜20年代のバレエ・リュスは、アヴァンギャルドという「図」とそれを際立たせる「地模様」としてのクラシック・バレエを同時にパリへもたらして、1930年代以後の総動員の時代(ファシズムでもスターリニズムでもブロック経済やニューディールでも、イデオロギーが違うだけで国民の垂直統合という事態は一緒、と思います)あるいは第二次大戦後の秩序再建の時代に、「地模様」としてのクラシック・バレエがCommon Practiceとして定着・確立する、という順番に見えます。

クラシック・バレエの確立は、映画におけるトーキーの古典的ハリウッド文法の確立と同時代だったと見たほうがよさそうなのです。

[追記:上海バレエ・ルッスの続報 → http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20121203/p1 ]

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そして音楽のCommon Practiceです。

今ではもう、フランス革命やドイツ・ロマン主義(フィヒテ「ドイツ国民へ告ぐ」の演説とか)が近代市民社会を一挙に確立したと信じている人はいなくて、このとき出てきた理念としての国民とか愛国というものが制度へ実装されるのは19世紀後半の「国民を創る」ナショナリズムの時代になってからだ、という風に二段階で捉えるのが普通だと思います。これで、リソルジメントやクリミア戦争や普仏戦争(独伊仏露の近代化&ナショナリズムの発端)と南北戦争(この内戦で新大陸の諸州は名実ともに連合する「国」になった)と明治維新(英語表記はrestoration=王政復古・国王親政なのだそうですね、「維新」のグランドリセットは革命じゃないらしい)をまとめて考えることができるようになって、日本の学校唱歌の世界史的な位置付けがはっきりしてくるから、「坂の上の雲」な普通の国を愛する日本人にも好都合であるわけです。(そこから脈々とつながって片山杜秀さんに「信時楽派」と呼ばれ、大久保賢さんが松本民之助一家を通じてその末席へ連なり、傍流から山田和樹を生み出したのがこの系譜です。)

でも、よく考えるとこの段階でのナショナリズムは、フランスでもドイツでもロシアでもイタリアでも、まだ社会の中枢は貴族やブルジョワが握っていますし(そこを踏まえないと、労働者が台頭する世紀転換期の終末感や第一次世界大戦の機関銃の衝撃を説明することができなくなる)、日本だって、洋楽に関わった人の多くは旧士族ですよね。

唱歌は学校の門を出ず、とか言われていたようですし、「国民を創る」派の人たちが言うように明治政府の業績を高く決定的なものであったと見積もると、世界史の動向とのバランスがおかしくなってしまいそうです。

1930〜50年代あたりに、あと一段階くらい設定しておかないと、音楽のCommon Practiceがそれらしい感じにならないような気がするんですよね。

それが、「恐るべき子供たち」の1920年代のあとの「若きフランス」のメシアンなのかもしれませんし、退廃藝術のあとの「愛と欲望のナチズム/ファシズム」とか、形式主義アヴァンギャルドのあとの社会主義リアリズムかもしれませんし、モボ・モガのあとのレコードやラジオの国民歌謡なのかもしれません。あれはただの反動ではなくて、とんがった「図」を取り去ることで、「地模様」としてのCommon Practiceを、総動員された国民に今度こそ本気で広く深く浸透させる時期だったのかもしれません。

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そう考えると、1927年から37年まで十年間パリで粘って帰国した池内友次郎が良質のエクリチュールに固執するのは、時代の子だったのではないか。

本人はフランス革命以来100年の伝統をもつ西洋藝術の総本山でその真髄を学んでいるつもりだったのかもしれませんが、ああいう風に共通言語の普遍性を確信(狂信?)できたのは、そういう時代の巡り合わせで、あの人は、Common Practiceが今まさにCommon Practiceにふさわしい姿を整えつつある現場に立ち会ってしまったのかもしれません。

Common PracticeがCommon Practiceであるがゆえに素晴らしい、という風に信じることができる感性というのも、歴史的な諸条件が揃わないと難しいし、幸か不幸か、あの人は、そうだった。

こんな風に考えると、まあ、しょうがないのかな、と思えてきます。

(たぶんこれが、いわゆる「本質主義」ですね。そういえばダールハウスが「音楽形式の理論のために」で大統一理論の希求を批判的に吟味したときに俎上に載せたのは、エネルゲティカーなど、ほぼ、この時代の人でした。「本質主義」と「構築主義」の区別は、英米の学者が自陣に有利に論を運ぶために持ち出した論争的で(「本質主義」=悪/「構築主義」=善の価値観を暗黙に含むという意味において)不均衡な類型だと思うのですが、血液型みたいにいつでもどこでも、あなたの考えはこっち、と分類するツールとして使うだけではあまり知的に生産的とは思えませんし、1930〜40年代を「本質主義の時代」と呼んでみる、とか、そういう風に音楽思考の歴史を整理する歴史用語に鍛え直してみてはどうでしょうか。)

フルトヴェングラー家の人々――あるドイツ人家族の歴史

フルトヴェングラー家の人々――あるドイツ人家族の歴史

たとえばこの本は、1930年代にフルトヴェングラーという「本質主義者」が生まれるに至った文化史的経緯を明らかにする試みと見ることができるかもしれません。

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そして、ここから先はさらに面倒なことを色々検証しないといけないのだろうと思いますが、おそらく、前のエントリーで書いたように、パリは不良がヒーローになれる風土なのだ、とか、偽造と剽窃のエレガンス、とか、という価値観は、ちょうどベートーヴェンの「楽聖」神話が19世紀のドイツ教養市民とプロイセンのナショナリズムの産物だったように、1930年代以後のアカデミズムの確立によって反作用的に立ち上げられた「神話」の要素を多分に含むのではなかろうか、という風に思えてきました。

もしかすると、劇場でもサロンでも活躍する音楽家は全部外国人、という状態だった19世紀前半のパリや、外国人ベンヤミンを魅了した第三共和制の現代的消費都市パリというのも、1930年代以後に形成された神話的なイメージを取り去ると、かなり違った風に見えるのではないか。

絶対王政の中央集権が確立したのは早いけれど、考えてみれば、貴族がパリの都市計画などということにそれほど気を遣うとは思われず、社交界関連の諸施設から一歩出ると、実はパリという街は、かなり長い間(20世紀の半ばくらいまで)、「ヨーロッパの首都」「花の都」というより、ほったらかしの無法地帯なディストピア部分を相当多くかかえていたのではないか。ボヘミアンとか、ダンディズムの藝術家といえども、それなりの覚悟をしないと足を踏み入れられないような場所があっちこっちにあるような、あんまり住みたくない街だったんじゃないかという気がするのです。

そんなところへ明晰なエクリチュールの光が届いているはずがない。ラモーの和声法とか、グレゴリオ聖歌の精神を組む流麗な対位法というのは、宮廷の一室とか教会のオルガン席とか、街の片隅で細々と行われていたことに過ぎないのではないでしょうか。(1870年代にサン=サーンスが「フランス国民音楽協会」と言い出したときには、フランクとかラロとか、オルガニストやオーケストラ奏者として長年冷や飯を食わされていた外国人を引っ張り出さないと頭数が足りないくらい、パリの社交界の外の音楽事情は貧しかったわけです。フォーレだって、ニデルメイエールという復古主義者の学校にいたのをサン=サーンスに発見されて世に出た傍流の人ですし。)そしてそういうほそ切れの伝統を集めて「フランス音楽の普遍性」を高らかに宣言するのは、橋本治によると単なる和歌オタクだったのかもしれない本居宣長の「やまとごころ」が平田国学になって、最終的には大日本帝国陸軍の精神主義になるような、相当に無理を重ねたファナティックな思想なのではないでしょうか。

(だからサン=サーンスの音楽を、知る人ぞ知る「フランス的」な作曲家だ、と言うのは話の順序が逆なのであって、サン=サーンスは、普仏戦争のあとで自らが音頭を取って、「知る人ぞ知る」(というより、ほぼそれまで存在しなかった)「フランス的」な価値観を創った人なのですから、そりゃ、知る人ぞ知る「フランス的」に見えなきゃおかしい。それは、パレストリーナ様式を規範とする対位法を勉強した人が、そういう経緯を知らずにパレストリーナの譜面を読んで、「この時代にこれほど完璧な書法で書いているとは素晴らしい」と賛嘆するのに似た大ボケだと思います。フランスの「普遍性」というお話は、こういう風に話が堂々巡りする傾向があるように思えてなりません。まあ、それが「創出された伝統」というものですが。)

でも、ファナティックな風土に浸るのを心地よいと感じる人もいる。俳句の家元の息子さんは、そういう人だったんじゃないのかなあ、という気がします。

小林秀雄の恵み

小林秀雄の恵み

奇妙な廃墟―フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール (ちくま学芸文庫)

奇妙な廃墟―フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール (ちくま学芸文庫)

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ということで、大久保賢に告ぐ。

あなたは、20世紀の歴史のなかに、わたくしなどよりも(ひょっとしたら岡田暁生や片山杜秀などよりも)ずっとちゃんとした居場所のある個体なのですから、もっとしっかりした生き方をしないとダメです。春秋社さん、ばっちり育てて稼いでください。