聖火と敗戦とフェアプレイ精神

アマチュアのフェアプレイ精神による近代オリンピックを提唱したのは、普仏戦争でプロイセンの近代軍に敗北したフランスのクーベルタン男爵。

敗北の文化―敗戦トラウマ・回復・再生 (叢書ウニベルシタス)

敗北の文化―敗戦トラウマ・回復・再生 (叢書ウニベルシタス)

  • 作者: ヴォルフガングシヴェルブシュ,Wolfgang Schivelbusch,福本義憲,高本教之,白木和美
  • 出版社/メーカー: 法政大学出版局
  • 発売日: 2007/08
  • メディア: 単行本
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シヴェルブシュは、19世紀末から20世紀初頭のフランスが自転車レースや自動車レースなど、メカを楽々と乗りこなすレーサーを英雄視するメンタリティを、「戦場では敗れたけれども精神文化においては野蛮な田舎者であるドイツなんぞに負けていない」とする当時のフランスの「敗北からの再生」を模索する文化的営為の一環と解釈する。

さらにシヴェルブシュは、「生命の躍動」を称揚するベルグソン哲学も、合理主義に徹したドイツにフランス精神が負けていないことを信じたい心の動きと関連づける。

フランス的普遍主義とか、ノブレス・オブリージュなどというものも、起源をたどれば、そんなもんです。こういうときこそ、第三共和政の言説に対して「創られた伝統」の語法でメスを入れるべき。

先ほどテレビを観ていると、近代オリンピックで聖火リレーを最初にやったのは、レニ・リーフェンシュタールの記録映画で知られるナチス独裁下1936年のベルリン大会だったらしい。第一次世界大戦で敗北を喫したドイツがリベンジを期していた時期のことですね。

光と影のドラマトゥルギー―20世紀における電気照明の登場

光と影のドラマトゥルギー―20世紀における電気照明の登場

  • 作者: ヴォルフガングシヴェルブシュ,Wolfgang Schivelbusch,小川さくえ
  • 出版社/メーカー: 法政大学出版局
  • 発売日: 1997/09
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ナチスは、ウンター・デン・リンデンの松明行列など、光のページェントを好んだとも言われている。聖火リレーは、なるほどそのような「ナチスの美学」を感じさせるようにも思われます。

そして我がニッポンの東京のオリンピックは、中国大陸へ進出してイケイケだった1940年には実現せず、第二次世界大戦後に一億総懺悔で国際社会に「フェアプレイ」で復帰することを誓った1964年にようやく実現しました。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

ちなみに、今日の異種格闘技にも通じる無制限一本勝負の柔術が近代日本では辛うじて旧帝大に残っていて、その系譜を完全に抹殺する形で「フェアプレイ」の「スポーツ」化をアピールすることで戦後覇権を握ったのが講道館である。というのが本書の著者の歴史観であるようです。同じ時代思潮ですね。

そんな講道館柔道は、東京オリンピックでヘーシングの前になすすべもなかった、ということだそうですが。

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体罰や、「戦犯捜し」の内ゲバめいたイジメが陰惨なのは、戦後知識人(丸山昌男)であれば「日本の古層」と呼ぶかも知れない村社会的な閉鎖集団の心理が亡霊のように生き延びて、蘇っている(すなわち、日本のなかに未だに「前近代」が残っている)からではなく、

日本の思想 (岩波新書)

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〔新装版〕 現代政治の思想と行動

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戦後的な「フェアプレイ」精神が経年の制度疲労を起こし、そうかといって、「普通の国」の無制限実力一本勝負へ打ってでる準備も覚悟もないところで、せっぱ詰まった(と思いこんで)どうしようもなく絶望的で性急な「第三の道」として選択されてしまっているからなのかもしれません。

(あと、むしろ、集団・組織の内側で処理できない何かが介在しているとしたら、「古層」とかいうような遠い起源ではなく、家庭環境とか、そういうすぐそこにあるのに、体裁上ないことにしている諸々を考えた方がいいのかもしれないですね。http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20130203

とはいえ、「持たざる国」(もてない国)たるニッポンが、無制限一本勝負へいきなり打ってでるのは、いくらなんでも無謀すぎますから、

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

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どうしても勝ちたいんだったら、まずは、制度疲労を辛抱強くメンテナンスすることを考えた方がいいと思う。

(「あいつさえちゃんと演奏すれば、俺たちのオケはもっと良い演奏ができるのに」的に性急な犯人捜しも、たぶん、同じように、性急に絶望的非常手段を選び取るダメな作戦だと思うわけだよ、雅哉くん(笑)。

とりあえず、2013年は長期デフレも底を脱して、違う潮目になりそうな気配があるらしいと言いますから、慣れ親しんできたかもしれない「下流社会」なロジックは、そろそろ終わりにいたしましょう。

それとも、コンサートでミスをした奏者には、終演後に坊主になることを、チケット代を支払った聴衆の正当な権利として演奏家に要求しますか?)

でも、そもそも論としては、「勝つこと」が最優先の価値であるような領域は、世の中にあんまりなさそうな気もします。そこまでして勝ちたいのか、と。

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ヨーロッパは昔から土地を小分けに私有して延々と争い続けている土地柄で、勝利と敗北を「文化」にまで育てちゃったのはそういう土地柄ゆえだし、「フェアプレイ」の「スポーツ」というのも、そんな連中だからこそなのでしょう。

で、そういう土地柄から生まれた「国民国家」という仕様が旧植民地(ということはほぼ地球全体規模)に広まって、20世紀はあっちこっちで、「国民国家」が勝ったり負けたりを延々と繰り返したわけですが、

核兵器とか出てきてしまって、もう、本格的な国家間戦争は無理だ、というところまで来た。

シヴェルブシュの『敗北の文化』には9.11以後に加筆された終章があって、そこで彼は、合州国が冷戦以後にやっているのは、もはや「国民国家」の勝った負けたではない何かである、と見ているようですが、これも、今では普通に言われることですよね。

今の世の中はもう、個人なり団体なり「国民国家」なりが相互にルールなり目的なりを相互承認したうえでゲームにエントリーして勝ち負けを競う、というセレモニーが象徴的もしくは実質的な意味を持ちうるようなモデルで動いてはいないかもしれない、ということです。

(たとえばつい最近までグローバリズムの名の下に万能であるかに思われていた経済至上主義は、「勝ち負け」の判定では動いていない。(負けて得を取る、とか、商売では普通のことなんでしょ。)そしてその経済至上主義ですら、それだけでやっていくのは無理っぽい、ということで色々言われだしているわけですから、「勝ち負け」への執着は随分とレガシーな感じがします。)

「勝ち負け」という価値は、体罰で引き締めたり、スケープゴートを作ったり、そこまで個人を圧迫してまで続けるほど大層に意味のあることじゃない。

(音楽に関しても、コンクールとか、優劣の判定とかに異常にこだわる言説の空しい感じはそういうことなのかもしれませんし、わたくし自身のことで言っても、そういえば、何か具体的な論評をすると、論評の対象への「妬み」とか、わけのわからん「勝ち負け」的な尺度にもとづく妙な解釈をされてびっくりすることがある。みんな、そんなに勝ちたいのだろうか。何の影に怯えているのか。)

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……というようなことをじっくり考える読書の時間を得たことは、今年に入って三週間あまり最後の頑張りを見せた父親のおかげ、かもしれません。