アカデミズムの永久革命と万世一系

[最後までちゃんと読めば、チャチャを入れるつもりで書いているわけじゃないのがわかる(はず)。慌てないように。]

5月から本棚を新たに購入しながら家中の大整理に着手して、家にある本はどれでもすぐに取り出せる状態を取り戻しつつあるので、ポスト・モダンの復習も今ならもう大丈夫。

吉田寛先生がゲーム画面の二重化の話で引用していたので、東浩紀が2000年に『InterCommunication』にこういうのを書いていたのを初めて知りました。

サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+  東浩紀アーカイブス2 (河出文庫)

サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2 (河出文庫)

      • -

20世紀は「映画の世紀」(視野に「見える」対象と、ものを見るカメラ(それ自体は「見えない」)の両方を意識する時代)だから、70年代の蓮實重彦や80年代のドゥルーズや90年代のジジェクが思想のキャスティングボードを握れたのだ、

とか、

80年代のポストモダンは、リオタールもボードリヤールも、60年代フランス思想で北米消費社会を語る、つまり、左翼言語とのちにネオリベへ展開する資本主義礼讃の野合であった、

とか、

(ドイツ系音楽学の蓄積を原資にして同時代の音楽消費文化を斬る渡辺裕『聴衆の誕生』もその変種と見ることができるかもしれない)

先行世代の活躍の舞台裏を暴露してしまう感じの発言が連発されて、

返す刀で、

ラカン派精神分析の言う無意識は、要するにコンピュータ(チューリング・マシン)だ、

という風に、今度は反対に、北米の語法(ヒッピーやハッカーを生み出した「カリフォルニア・イデオロギー」)で60年代フランス思想を語る可能性を示唆したりして、

とても華やかに「現代思想/ポストモダン批評」で、『批評空間』の最終兵器な感じの文章なのですね。(サイバーパンクSFという「小説の読み」が連載の軸になっていて、『批評空間』系現代思想は元をたどれば文芸批評、「家業は文学」という作法が身についた過激に利発な文学青年感もある。)

こういう舞台装置の中心に据えられているのが、「サイバースペース」における「イメージとシンボルの二重化」という吉田先生が引用した論点なのでした。

そうしてこのモデルは、オタク文化や村上隆の「スーパーフラット」をスルスル読み解けるのが「売り」になる。(『動ポモ』まであと一歩!)

「スクリーンの二重化」説を学問に登録するということは、この壮大な評論が背負っている含意も引き連れて受け入れることになるのでしょうか。「もはやラカンの言う不可視の象徴界(「大文字の他者」)は、瀕死的に弱体化して失効している、イメージとひっついてそこに見えているシンボルでいいんだ、それがポストモダンだ、未来への歩みなのだ」という浅田彰直系みたいな物言いとか……。

東浩紀が「シンボル」と呼んだものを「オブジェクト」と言い換えて、概念が背負う脈絡をこんな風に広大に広がる「現代思想」から、コンピュータのプログラミング言語を連想させるレヴェルに切り替えているから安心安全、ということになるのでしょうか。

華麗なる「現代思想」が、世界の動向とは切り離して画面に折り畳まれて、これからはスクリーン上であらゆることが闘われる、「サイバースペースの夢」は、ひとまずこれで安全な領域に囲い込むことができるということかな。

(「象徴界」=「大文字の他者」の弱体化、という話は、ポストモダンを世に広めるときのツボ、若い読者(およびかつて「若者」だった自分への愛着を強く抱くオトナ)のハートをがっちりつかむ急所だとは思うのですが……、「最近の若い者はなっとらん」という年長者の物言いは、一説には古代から人類が言い続けてきたとされるようです。だとすると、「オッサンらにはわからないだろうけれど、今は時代が違うんだよ(ブツブツ)」と若者が年寄りに反論する態度もまた、古代からずっと繰り返されてきたのかもしれない。

時代の変化を世代間の軋轢に搦めた「お話」は、同時代に手っ取り早くヘゲモニーを握る上で最強の手段ではあるけれども、多くの場合、あとで振り返ると「あれは言い過ぎだったかな」と後悔するもの。ポストモダン談義を21世紀になって整理するとしたら、このあたりを注意深く選り分ける必要がありそうです。

「シンボル」全般が弱体化している、という風に大きく出るのではなく、とりあえず、ゲーム画面における「オブジェクト」と「アイコン」の関係に話題を限定するのは、その意味で筋が良いのかも知れない気はします。ゲームのインターフェイスから感性学上の興味深い問題を抽出できるかもしれないけれど、ゲームでセカイを転覆する計画に与するわけではないのだ、と。)

      • -

ここで、例によって全く話が変わるのですが、

最近、ジャン・パスラーの第三共和制フランス音楽文化論(参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130227/p1)を読み返して、はっとしたことがあります。

西洋の音楽と社会(9) 世紀末とナショナリズム  後期ロマン派 II (西洋の音楽と社会―後期ロマン派2)

西洋の音楽と社会(9) 世紀末とナショナリズム 後期ロマン派 II (西洋の音楽と社会―後期ロマン派2)

共和主義者は進歩を直線的に捉えており、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)の教授たちのしばしば「保守的」とみなされる物言いは、実はそういう「直線的な進歩」(への確信)と見るべきではないか、と、パスラーは考えているようなのです。

フランス革命で音楽文化を「リセット」して、「ゼロベース」で新しい国民国家にふさわしい音楽文化の形を創り、育てるのがコンセルヴァトワールの使命である、というのが原点で、ほぼ、音楽担当の国家公務員のような立場で一切を取り仕切っているわけで、英知を結集して、改良すべきはその都度、改良しながら現在へ至っているのだから、我々のやり方がベストであり、我々のやり方を無視したり、途中でルートをショートカットして、何かをやらかすのは、一見目新しいけれども、こらえ性のない跳ね返りに過ぎず、評価に価しない、と。

この、ルートを外れたものを「上から目線」でたしなめる感じは、日本の文脈だと家元制度とか、勝ち組が負け組を見くだす嫌味な態度とかを連想させてしまって、確かに、それと似た役割・効果を発揮している面もあるとは思うのですが、

(そして「パリ仕込み」の人が日本の文脈に回収されるときには、しばしば「家元」「勝ち組」扱いを実際に受けることになるのですが)

当人たちの意識は、共和国フランスの誇りをもって、明るい未来を築くために、国家・国民・社会へ奉仕する「公僕」なのかもしれない。技術ですから、完全にすべてをオープンに標準化することはできないけれども、できるところは公文書(その都度の教科書)として公開しているし、優秀な人がその都度選ばれているのでそういう教科書はちゃんとしている。それが、小鍛冶邦隆さんの言う「知のメモリア」の理念なんでしょうね。コンセルヴァトワールの教授陣とは、生きて歩く「公共図書館」みたいなものである、と。

作曲の思想 音楽・知のメモリア

作曲の思想 音楽・知のメモリア

アルテスから小鍛冶さんが出した次の本は、コンセルヴァトワール創成期の人、ケルビーニの対位法教科書。
ケルビーニ 対位法とフーガ講座(ルイージ・ケルビーニ 著/小鍛冶邦隆 訳)[単行本]

ケルビーニ 対位法とフーガ講座(ルイージ・ケルビーニ 著/小鍛冶邦隆 訳)[単行本]

そう考えると、この在り方は、学問と近いような気がしてきます。

そしてしかるべき時がくれば、ちゃんと IRCAM みたいに華々しく「進化」を遂げるんですよね。

たぶん、直線的、というのは、原点(革命と同時に設立された「共和制の申し子」であるということ)から素通しなのだ、ということで、だから大事にしよう、みたいなことになるのでしょう。

      • -

政治の場へ持ち込んでしまうと、消費文化こそが永久革命だ、みたいな話はグローバリズム礼讃になってしまいそうだし、国民/国家の創成から現在へ到達する一直線の光のイメージは、なんだか、コンセルヴァトワールの俊英・黛敏郎の天皇制礼讃になりそうですが、

文化の形、知性の伝承としては、それぞれ、アリなんですかね。