虚礼廃止

こんどコンサートの受付に行って、「忌憚ないご意見をよろしくお願いします」と言われたら、「へえ、あなた、批評を読むんですか」と訊くことにしよう。

職場を愛するけれど、愛するがゆえに、愛する相手についての嫌な意見には耳を塞ぐ、という人はいくらでもいる。

あるいは、名前が「媒体」に出ればいい、中身は関係ない、と割り切って仕事をする人もいる。

それは、いっそ清々しくわかりやすい生き方なのだから、それをまっとうすればいいし、そのような生き方に「忌憚ないご意見」は必要ないわけで。

だったら虚礼廃止でまいりましょう。

N響80年全記録

N響80年全記録

朝比奈隆がN響の楽屋へ入ったら「楽員一同より」とメッセージの入った花束があり、喜んだ朝比奈隆が練習の冒頭でそのことに感謝を述べたら、楽員がポカンとしていた。(だって事務局が気を効かして花を置いていただけで、そんなこと楽員は知らないのだから。)

という話が出てくる。著者は、それくらい朝比奈隆はいい人なのだ、というつもりで事務局の人の話を紹介しているようだけれど、それはちょっと違うよねえ。

とそんな話。

こういうのを「企業文化」とか言うんですよね。あなたはあなた、わたしはわたしで「文化」が違うことがある、と。

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

この本も、「普遍」としてのクラシック音楽に、異なる「文化」を背負った人間が参入している、という構図を描き出して、色々なエピソードを割り付けることまではできるのだけれど、たぶん問題はその先だと思います。クラシック音楽は「普遍」じゃないし。

「普遍」じゃないものを普遍である、かのように、で運用していくと、虚礼や約束事や裁量のツギハギが増殖する。そのあたりが「アジア人っぽさ」という質に転化して把握されてしまう可能性にもうちょっとで手が届きそうな感じの記述がところどころにはあるのだけれど、そこのところは、もともとが北米向けの英語の研究書で、「西洋」という言葉を北米とほとんど同義に使えてしまう言語習慣のなかで考えた限界なのかなあ、と思ったりもします。文化のヘゲモニーを確立した移民国家の「なか」にいるから考えられることと、「なか」にいるから考えるのが難しいことの境界に、これは抵触する案件のはずなので……。

こういうところは、「あなたはどうなの」と切り返す吉田秀和とか、名前が書いてあったらその人からのメッセージなのだと受け取って反応する朝比奈隆とか、旧制高校的教養主義のほうが、かえって強いんですよね。あの人たちは、そんな初歩的なところで逃げ隠れしたりはしなかった。

文化の接触とか衝突は、そういう感じに正々堂々の水準で考える局面が、(それだけでは物事の半分くらいしか片付かないにしても)やっぱり大事かな、と思う。

それは、残酷ではあっても、一生懸命とか根性とかいうのを一度「切る」ことだから、嫌な人は嫌だろうけれど。

(などということを、他人の申請書を何十件も読んで、同じ日の夜に自分の申請書を書きながら考えた。虚礼とか誠意とか根性とかとは別の水準で「書類」を組み立てるのは、やっぱりアタマ使うし、虚礼や誠意や根性を別の種類の言葉に置き換える作業を「アタマの良さ」と呼ぶ習慣(その前提で官僚が組織化される)は、必ずしも悪いことばかりではないと思う。N響的な「虚礼」は、官僚的だからダメなんじゃなくて、システムが中途半端で、裁量・お約束が多すぎるから、周りから見ておかしく感じるわけで、「別の文化」と接触することは、そこを明るみに出すことに役立つ。)

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ただし、どんどん「賢さ」の階梯を上昇するしかないかというと、そういう積み木をリセットする回路はやっぱりあって、

「それ、ほんとに面白いの」

と素朴に問うことは強力ではある。

もっともらしいことを並べ立てられると、その並べ立てが懸命さに動機づけられていたにせよ、賢さに動機づけられていたにせよ、やりすぎると、「オモシロ」を求める心が麻痺しますもんね。

知情意とか言いますが、たいてい、人間のやることは三すくみになっている。