音楽家は「誰かが育てる」ではなく「自ら育つ」

2013年のまとめ(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20131230/p1)に、ひとつだけ書き足して今年の最後とします。

今、大阪で起きていることは、市長が「もう金がない」と言い、周りの人たちが「そんなはずはない、お前は無能だ、さっさと辞めろ、そして俺たちに金をよこせ」と口々に叫んでいる、という図式にすると、一時の熱狂から覚めて「維新離れ」したい人たち(メディア系の)には好都合らしいのですが、

でも、実際には、市長さんも周りの人も、その口ケンカをひとつの同じ土俵の上でやっているような気がする。

  • (1) とりあえず、今、十分なお金がないことは確かである。
  • (2) だから、収益を増やすために臨戦態勢を組まねばならない。誰がトップに立とうが、これが最優先事項であることは変わらない。
  • (3) そしてお金が貯まったら、地域振興や次世代育成に使えるはずである。必ずそうする、これは間違いのない約束だ。でも、今は無理だ。だから、だから、どうか少し待ってくれ。あと少しの辛抱だ。もうしばらく時間をくれ!

で、(2)のところを具体的にどうするか、誰が何をするのか、ワアワア言い合っているわけで、しかし考えてみたら、これは今の市長さんが来る前からそうなわけで、実は同じ所でグルグル回っている感じがします。

金は、誰が来ても、慢性的にそんなにないっすよ。相対的にこっちに大目に回ってくるときと、そうでないときの違いがあるだけで、左うちわに潤沢な資金を得て好きなことをやりたい放題やれる、なんて状態は、今までも一度だってなかったんだから、たぶん、これからも無理。

(3)は、無限のかなたの未来の夢か幻なので、そんな「美味しい話」で人を丸め込んだり、人から丸め込まれるのはアホらしい。

そしてそういうことは、たぶん音楽家自身がよーくわかってるはずです。

なんちゃらカウンシルのトップのお姉さんがどういう人で、ホールのあのオッチャンやあのオバチャンがどういう人か、ということも。

「うちのおかあちゃんは、毎日家にガイジンさんやら、お友達やら呼んで、パーティやって、それが仕事やねん。いつか、あなたにもきれいな服を買ってあげるからね、いうのが口癖やけど、そんなん、いらん。自活するし。」

みたいな感じ(美談!)。

でも、そういいながらも、ほんまに何か買ってくれたら、ちゃっかり受け取ると思うけどね。きっと、あの店のこれが欲しいとか、今からめっちゃ具体的に目星つけてるで(笑)。

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日経の記事で最初に取り上げた、びわ湖ホールの「ワルキューレ」は、福井敬や小山由美が出た初日ではなく、2日目であることがわかるように書いています。「次」が出てきたし、彼らと一緒にやったときの沼尻竜典がいい、と思って推しました。

この日は、闘う乙女たちで声楽アンサンブルの人たちも入ってましたし、11月のびわ湖ホール開館15周年でも、声楽アンサンブルの子が、福井等々に混じってアリアやアンサンブルを歌っています。手探りで時間はかかったけれども、声楽アンサンブルの人たちにどう次のステップで独り立ちしてもらう道筋をつけるか、というようなことも考えられはじめているようですね。沼尻氏自身も、「成長」という言葉は失礼かと思いますが、変わってきていると思うし、その方向は、「次」を見ている感じがする。

小菅優のベートーヴェンは、そのときだけ日本へ来る形ではありますけれども、この人も既に十分なキャリアがあって、周りが「育てている」などと言うのは失礼な話で、むしろ、変わりつつある音楽家に、こっちが教えられる。「ホールが音楽家を育てる、ではなく、音楽家がホールを育てることもある」(ラジオで私はそんな言葉を使った)だと思っています。だから記事でも、ちょっとポエムではありますけれども、「高く大きな世界へ聴衆を引き込む天性の力」という言葉を入れた。

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一般に、メセナ事業は、まだ学生やデビュー前後の半人前な「若手」を盛り立てるのと、既に安定走行している「大家」をもてなすのは得意だけれども、その間が弱い、という印象がある。

「若手」と「大家」は過保護なくらいに持ち上げとけば大きく間違うことはないだろうということがシロウトでもわかるし、ヨイショは、特段の目利きじゃなくてもできることなわけだけれども、既に音楽を仕事としてやっている「中堅」クラスが「自分で育ち、変わっていく」ときに周りが何をしたらいいのか、できるのか、というのは、たぶん、日常的にそういう人たちとつきあう環境じゃないと見当が付かない。

でも、マネジメントに「プロフェッショナル」があるとしたら、質量ともに、実はここが一番大事なところなんじゃないだろうか。そしてどちらが上でも下でもない、プロのオトナ同士の関係を安定して築くことができたときに、音楽家自身も、その傍らにいる者も、一緒に「一人前」になるんじゃないだろうか。

オーケストラやオペラ・カンパニーは、どこもそれなりに年季が入ってるし、四六時中行動を共にしているから、そのあたりは、やっぱサスガだなあ、と思うことが多い。どこも、既に何回かの世代交代を経験してるしね。

びわ湖ホールは、15年目で、やっと「兆し」が見えてきた、くらいの感じかもしれない。

大阪の、ソリストとのつきあいが多いはずの音楽専用ホールは、どこも、びわ湖ホールより若干歴史が長いけれど……、まだそこまでは十分に手が(気が)回らんみたいやね。まあ、ええんとちゃいますか。ああじゃこうじゃ、上手いわんでも、どんな感じなんかは、見てたら大概わかる。だいたい、建物からしてガラス張りで、外から中が丸見えやん。

最悪、ほっといても音楽家は育つよ、たぶん。

(私生活では、子ども、とか、教育、とかについては何も言う資格なしな人間が、こんなことを書くのも妙ですが、でも、そんなことを思う年の暮れ。)

そしてそういえばこの本も、煎じ詰めれば、「生殖しろ」、種を絶やすな、と、それだけを言うために書かれていたが。