謝肉祭の告白

シューマンの謝肉祭では、終わり近くのプロムナードが特別に好きなのですが、改めて眺めると当たり前かもしれませんね。As/EsからせいぜいBといった狭い範囲を動いているこの組曲のなかで、唯一プロムナードだけがDesで、特別な空間に足を踏み入れる設計になっている。

ピアノのDes-durは「ショパンの調」だ、と思ってしまうわけですが、謝肉祭のショパンは、幻想即興曲(←cis/Desです)みたいなアルペジオに包まれているのにAs-durだったりして、シューマンはDes-durを他人の様式模倣ではなく、自分自身のとっておきのシーンのために温存した、という感じがします。

ストーリーとしては、「告白」のあとに別世界が開けるわけですから、告白して相手もOKで天にも昇る気持ち、ということですよね。すぐに騒々しいお祭りの行列が続く大通りへ戻るけれども、つかの間、手をつないで小道へ入って、ふたりっきりになった、というような情景を想像するしかないですわな。50前のおっさんが綴るような話ではないが……。

全体をみわたしてみると、前口上があって、ピエロの登場からしばらくずっと、この曲はコミカルですよね。アルルカンが跳んだり、フロレスタンの猪突猛進がコケットではぐらかされて、さらにそこにオマケが付いたり、ずっとふざけている。そして最大の戯れとして、A-S-C-H/S-C-H-Aの「文字は躍る」の種明かしになる。

で、どうやらこの文字が躍っている曲が、様々なキャラクターというか類型を次々と出してくるマンガちっくかもしれない前半のおちゃらけから、後半の実在のモデルを描くポートレイトの趣向への転換のちょうつがいになっているっぽいですね。

当時の婚約者エルネスティーネにちなんだAschの曲は踊っておふさけを装っているけれど、その次の、のちに作曲者にとって大事な人になるところのクララ(キアリーナ)は、周囲の浮ついた空気が読めない感じに単刀直入なc-mollでたたみかけてくる。少女時代からクララ・ヴィークは、きっとまっすぐな人だったんでしょう。

そしてひょっとすると、このコントラスト、軽佻浮薄を真剣さで吹き飛ばす呼吸は、同時に、シューマンの「ポエジー宣言」(1830年前後の「ベートーヴェン派」の逆襲)のトーンなのかもしれませんね。少女クララが先陣を切って、ショパン、パガニーニといった「ダヴィド同盟」シンパが祭りになだれ込んでくるわけだ。

(だとすると、彼らになだれこまれてしまう前半の軽佻浮薄でマンガチックな祝祭は、1820年代的なもの、ウェーバーやフンメルやモシェレスやフィールドのエッセンスなのかもしれない。深読みしすぎかもしれませんが、こう考えると曲の構成をすっきり捉えることができそうです。)

で、しかしながら「私」は、仲間たちの奮闘を尻目に、告白してツーショットになっておる。カーニヴァルにこと寄せた世代交代の物語に「オチ」をつけるのは、結局は色恋なんですね。

シューマンらしい、と言えるんじゃないでしょうか。