承前:鍵盤の操作は抽象か?

ただし、先日届いた音楽学機関誌を読んでいると、ストラヴィンスキーのピアノ音楽研究書の書評が掲載されていて、彼が「オブジェ」みたいなことをさかんに言っていた時代のピアノのカタカタ動くメカニックな音型を指回しのエクササイズの応用で作りだした形跡のあることが報告されていた。

キーボードというのは、それ自体が音高・音程を取り扱う抽象的な装置だと思いますが(吉田先生の本でもドイツ・バロックの器楽好きをそれと関連づける記述があったような)、それにしても、指回しのエクササイズで作曲するってのは剛胆だなあと思う。

いかにもこういう話が好きそうに思えるジョン・ケージが師事したのはストラヴィンスキーではなくシェーンベルクだった、というのも興味深いですが、

(ケージは、ストラヴィンスキーのように「平気で反則・横紙破りをやる人間」ではなく、そういうヒロイズム抜きのシステムを組み立てたかったということか)

指回しのエクササイズでモダニズムの最先端っぽい形象を作っちゃう、というのは、何なんでしょうね。

「その程度のやり方で間に合わせることができるのだから、モダニズムの抽象志向なんて見かけ倒しである」

と高邁な芸術運動を揶揄する材料に使えばそれでいいのか?

社会的に地位も名声もある人たちがロマン主義と歴史哲学をぶちあげて、劇場人がこれに応対しながら色々やりくりしていたのが19世紀。

第一次世界大戦でそんな19世紀がようやく過ぎ去ってくれたと思ったら、今度は、モダニズムと抽象が頭上を覆う世の中になった。人生、いつになっても、そう簡単に楽はできないね、というようなことであろうか(笑)。