抽象化の動機と意義

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/26520872.html

「無調のフーガなど認めがたい」という主張は、「普遍者は存在するか」という議論と早晩どこかでつながる。

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎

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歴史のモードで言えば、人はいつどのように抽象化を動機づけられるのか、哲学のモードで言えば、なぜ抽象化が要請されるのか、ということだと思う。

(抽象化によって得られたものを再び具象へ環流させると、当初とは随分違ったものが出てきましたね、ということだと思うので。)

中世の唯名論と実在論の論争が有名だが、18世紀から19世紀への転換期は、universal というときに「世界の森羅万象を網羅します」という経験論的野心と、「いついかなるときでも、いかなる場所においても通用する議論を樹立します」という合理論的野心が様々な局面で(英国は経験論で大陸は合理論と「お国柄」で色分けし尽くせるわけでもなく)複雑にぶつかるから、ややこしいわけですね。

で、20世紀のアートに、あまり一般的な言い方ではないけれど「前衛」志向(第一次世界大戦直前に顕著であったような)と「全体」志向(1930年代40年代に顕著であったような)がある、と仮に整理することができるとしたら、ここから抽象化の動機と意義をめぐる対立を取り出すことができそうに思う。

「抽象化」について一定の見識がないと、人間は意固地になる。

普遍理論の樹立に向けて海外へ旅立ったり、極東の島でぶつぶつ言いながらユニークな個物を創り出したり、という風に、意地が生産的なモーメント(←覚えた言葉は早速使う(笑))として作用することも当然あるが。