反米と親米:日本楽理と民族音楽学の1980年代を回顧しつつ、東大生阪大生の積年の横暴を叱る

日本楽理の横顔をざっとスケッチしたところで、その周囲との位置関係を考えてみる。

(余談だが、先の学会での留学生による涼宮ハルキ論は、コンテクスト/パラテクストというフランスの議論を輸入した北米ポストモダンの枠組を使おうとしていたが、テクストの読解をおろそかにして、いきなりその周囲をキョロキョロ眺める挙動不審気味の態度、いわば「中心が空洞になった表徴の帝国」の空気を読むことばかりに夢中な臣民をそのままなぞる態度が、根本的にダメだと思いました。まずは、相手の顔を正面に見据えて話をしましょう。以上、国際的な広がりをみせるクール・ジャパン・オタクのみなさんへのアドヴァイスです。閑話休題。)

1980年代の日本音楽学会では、日本楽理と新興民族音楽学が熾烈に闘っていました。

阪大音楽学は民族音楽学の新たな拠点と見られていた。千里に民博が出来たりして、関西の人文学はエスノ一色であるかのような雰囲気でした。小泉文夫も徳丸吉彦も山口修も1950年代60年代からこの分野に取り組んでいたわけですが、小泉が事実上のブレインだった芸能山城組がインドネシアの民主化を受けてケチャをブレイクさせたり、ジャパンマネーの東南アジア進出に乗っかる形で環太平洋各地へのフィールドワークがやりやすくなったり、テレビでは「なるほどザ・ワールド」「世界まるごとHOWマッチ」(←今こうして書き写すと、漢字・ひらがな・ローマ字・カタカナを混ぜるものすごい番組名だ)、大学生は「地球の歩き方」を片手にバックパッカーの時代ですから、まあ、時代の追い風に乗る形だったですね。

(今思えば、「地球の歩き方」というシリーズは実際に行った人たちの「声」を次の版に取り入れてアップデートしていたのだから、紙の書物の形で「集合知」をやっていたと言えるかもしれない。)

阪大のなかでは、東大京大がやっていないことを阪大がやっている、というオルタナティヴな気分があって、民族音楽学は、アカデミズムにおける rest of us の運動だ、と思われていた気がします。谷村晃は、関西近隣の大学の音楽学教員を巻き込んで、新興派閥の代表として学会の会長になった。

また、学生院生の間では、民族音楽学や文化人類学の論文の前口上・ツカミとして、「障害者には、我々が生きるこの世界が我々とはまったく別様に見えている。異文化への理解というのも、これと同じことである」という論法が流行っていた。私は、当時からこの論法は間違いだと思っていたし、おそらく今SNSあたりでこういう議論をすると、「当事者ではない癖に、上から目線で共感するな」と問題になるだろうけれど、ともあれ、民族音楽学・文化人類学は、1970年代以後の福祉国家路線とも相性がいいと思われていた。(関西では万博がエスノへの関心の火付け役だったのだから、70年代の空気を引きずるのは当然だったかもしれない。)

民族音楽学が日本楽理を論難するときには、「福祉の時代」風に、自分たちとは違う価値観の文化があることを認めましょうよ、楽理のみなさん、心を開いて、ヨーロッパ以外の人たちと仲良く手をつなぎましょう、と呼びかけるソフト路線が採用された。民族音楽学は、言葉のうえでは、批判・吟味・議論というより、平和の使者であるかのように振る舞っていた。

でも、たぶん80年代の民族音楽学ブームは、「福祉の時代」というような脱産業社会論(欧州であれば「緑の党」に相当するような)と連帯できそうなメンタリティがあったのは確かだけれど、大枠としてはレーガン・中曽根の不沈空母・日米同盟の親米路線の文化ヴァージョンだと思う。

そして1990年代に、阪大の谷村晃が退官して会長の任期を終えると、入れ替わるように渡辺裕の時代になって(渡辺裕は阪大で谷村晃の後任だったし、サントリー学芸賞音楽部門の審査員を谷村から引き継いだ)、1990年代から、今度は渡辺とその配下の阪大生東大生によって、北米のニュー・ミュージコロジー(カルスタ、ポスコロ)を輸入する形で、日本楽理は、あたかも「キャノン」を信奉する本質主義者であるかのように揶揄されることになった。

でも、そうではなくて、日本楽理というのは、日米同盟に乗っかって善人の顔をする関西の商売人(谷村や渡辺、そして岡田暁生や伊東信宏を担いたサントリーは大阪発祥の会社です)や、北米リベラルを嬉しげに輸入する東大生、このような軽佻浮薄を快く思わない「反米」ではないかと思う。片山杜秀が「信時潔楽派」と形容する系譜です。

日本楽理のフェティッシュな儀式性は、「反米」なんだ、と考えると腑に落ちる。音楽学の免状を発行する家元であるかのような振る舞いは、その端的な現れでしょう。

関西の民族音楽学や東大のカルスタ・ポスコロは、日本の洋楽における「反米」(それは日本楽理がそうであるように、しばしば、親ヨーロッパ=親仏、親独、親英として現象する)の系譜を可視化して、適切に対処するのを怠ってきた。「反米」としての日本楽理が、今日のように頑迷な姿に育ったのは、そのツケが回っているんだと思う。

生前の畑中良輔は、信時潔をここぞの場で腹から声を出す「声の人」として回想した。

吉田寛によると、競争 competition とは「共に探すこと」であるそうだが、阪大や東大が「攻め方」を間違えて、相手を正面に見据えることなく厄介者扱いすることが、結果的に competiton を阻害して、それで日本楽理が立ち往生しているのではないでしょうか。

阪大生や東大生のやり口は、日本楽理をイジメの末に放置して、なぶり殺しにする不良大学生を思わせる。これは、80年代から現在まで、ずっとそうだ。エリート高等遊民のこういう場合の態度は、ホモソーシャルで実にエグい。

私は、現状の日本楽理を不快で耐えがたいと思っていますが、でも、瀕死の行き倒れみたいになればいいとは思わない。「声」を取り戻して欲しいのです。不良大学生に喝を入れることができるところまで、回復していただきたいと思っております。21世紀にふさわしく適切にアップデートしたうえで。

私は、「日本音楽学会史・平成版」として、こういう構図を想定しています。吉田寛や増田聡や広瀬大介や岡田暁生や長木誠司や角倉一朗が登場する「私たちの歴史」です。

(アルテス・パブリッシングが出版してくれないだろうか。木村元が務めていた時代の音楽之友社も重要な舞台装置なのだから。)