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うたとドラマと成果主義

ピアノやオーケストラと違って、歌曲や歌劇は、出力結果(聴いた効果)から成り立ちを推測するのが難しい。

出力結果から遡行的に推定される成り立ち(そのパフォーマンスの存立構造)と、幸運な事例では完全ではないにしても経験的に検証できる来歴と、この2つを混同・同一視してはならない、というのは、アリストテレスから近代美学(「作者の意図」をめぐるあれこれ)まで散々議論されているが、ピアノやオーケストラの場合には、本番のパフォーマンスは日々積み重ねてきた練習の成果であり、パフォーマーの才能なり経験なりの発露である、と想定しておおむね大丈夫なように上演が執り行われる。そしてどんどん、スポーツ競技に似た何かになりつつある。

(パフォーマンスがガラス張りの「公開実験」であるかのように執り行われることに着目して、「鑑賞の近代」ということが批判的に論じられてきたのは周知の通り。)

一方、うたや芝居は、譜読みから部分練習、解釈、という風に、毎日コツコツ長い時間をかけて反復練習して仕上げる性質の行為ではない場合がしばしばある。

作品論的な研究に落とし込んで言うとしたら、ピアノやオーケストラはテクストを精密に読む、ということが起点になるけれど、歌曲や歌劇は、作品もしくはパフォーマンスの構成要素のひとつひとつが途方もなく広汎なコンテクストを参照していて、それを気長にひとつずつ潰していくしかない。コンテクストをたどる作業は、パフォーマンスにおいても、それを論じる論考においても、出力結果にそのすべてを素通しで反映できる性質のものではないので、「気長にひとつずつ」という風にやるしかない。

「研究」という営みが大学に雇用されたサラリーマンの業務となり、その成果物を学会という官僚的に編成された組織に提出したところでその業務が完了するのが成果主義だと思うが、うたやドラマは、成果主義とは(おそらく原理的に)相性が悪い。

成果主義の極端な徹底に異を唱えたい人は、人文全般みたいなおおざっぱなことを言わずに、話を具体的に分割したほうがいいんじゃないか。

成果主義と相性のいいテーマというのも一方にはあるし、今大学で職を得ている者は、大学行政への疑問を口では言っていても、そこそこ成果主義でやっていけるテーマに取り組んで、自分ではそれなりに上手くやっているケースが大半だと思う。そういう具体的な手の内を隠したままの建前論は、たぶん、不毛で非生産的だ。