HIPな演奏、ちぐはぐな運営

今年は桜が満開の週末が雨になってしまいましたね。

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こういう結果になると、センチュリー響のハイドンが一番誠実な取り組みだった、と判定せざるを得ないかもしれない。

巨大な空間に大観衆を集めるプロムスで古楽系団体が拍手喝采を浴びる(YouTubeでそういう映像がいくつか見つかる)のに似た上手なプレゼンテーションでしたね。音友あたりのグラビアで華やかに報じて欲しいものだ。(ちゃんとカメラマンを派遣していたのだろうか?)

18世紀古典派音楽の in tempo をメトロノーム的な等速運動と解釈して、すべてを等速運動的なパルスにあてはめようとすると、ハイドンの交響曲は、おそらく18世紀には全く想定されていなかったであろう種類の超絶的に難しい音楽になる。こういう演奏スタイルは、20世紀前半の新即物主義のテンポ理解の延長上に「古楽」や「ピリオド演奏」を組み立ててしまった一昔前の Historical Informed Performance の悪弊だと思う。

ハイドン「太鼓連打」は、YouTube にコープマンがフランスの放送オケを指揮した目の覚めるように生き生きした演奏があるので、比較すれば、今回のセンチュリーのスタイルの問題点がわかる。等速運動的な in tempo では表現できないハーモニーの面白さやハイドン一流の「驚き」「不意打ち」「意外性」の多彩な効果がこの作品には膨大に盛り込まれているのに、センチュリーは、そういうものをすべてばっさり切り落としてしまっている。

(たぶんこの等速運動風 in tempo では、ハイドンの機略の効果は出ない。外山雄三のテンポが緩み気味になってしまうのは加齢で仕方のないところがあるのだろうし、そこを割り引いて聴けば、同じように in tempo を基本とする演奏でも「音楽」として濃密な表現が聞こえて来る大阪交響楽団のくるみ割り人形との違いはあまりにも大きい。)

でも、無知や認識不足(そしてひょっとするとマジメすぎる想像力の少々の不足)ゆえに切り落としてしまっているものがたくさんあるにしても、ひとつの方針・コンセプトを、よくぞこれだけの精度に仕上げたものだ、と感心する。

一人の指揮者の下で、安定した運営方針を数年にわたって維持したことで、オーケストラの各部門が状況に最適化されて、効率的に動いているのだと思う。

整然と法人化・ビジネス化が進む今の日本のクラシック業界のものの見方からすると、オーケストラが4つ集まってコンサートをやるのは話題性を狙った無茶なお祭りイベントということになるのかもしれないけれど、客席は、それぞれのオーケストラの定期会員になっていらっしゃったりして、普段からコンサートに慣れたお客様が多いように思われる。ごひいきの団体を応援したり、それぞれがお互いを意識して真剣に個性を競っているのを、普段以上に聞き応えのある演奏会として楽しみに期待して来てくださっているのではないかと思う。

(そういえば、朝日新聞社の文化事業の原点とも言えそうな戦前の朝日会館ではモダニズムの精神で伝統芸能を刷新するべく流派の垣根を越えた四流合同のホール能が催されて、これが戦後の大阪国際フェスティバルの能楽公演につながったと聞いている。だから、新しいフェスティバルホールで四大オーケストラをやるのは、朝日新聞にふさわしいと言えるかもしれないし、逆に言うと、日本の洋楽クラシック業界は、かつては邦楽に対してより新しく近代的だと言えたかもしれないけれど、今ではかつての邦楽界に似た縦割りの家元制度になりかかっているところがあって、だからこういう団体横断の試みが求められているのかもしれない。)

実際、各オーケストラの首席クラスがローマの松のバンダを吹く、というのは、他ではまず望めない贅沢な布陣ですよね。

これは、在庫一掃大安売りセールではなく、現状の一番いいところを切り出したスペシャルな高額商品として売り買いされていい物件だと思うのです。(チケットは、前売りがS席8,500円、A席7,000円と通常のそれぞれのオケの定期の一回券より高く設定されているし。)

だから、学生アルバイト風のレセプショニストが、まるでバーゲンセールに詰めかける買い物客をさばくかのように、列を作れ、こっちへ進め、と連呼するのはフェスティバルホールではいつものことなので、失礼なあしらいだなあと思いつつ、もう諦めているけれど、終演後のプレゼント抽選会、というのは、さすがに、ちょっと違うんじゃないかと思った。

(今回は出演していらっしゃらなかったけれど、飯守泰次郎が出ていたら、国の文化功労者を終演後の舞台に立たせて、同じように抽選会をやらせるつもりだったのだろうか……。)

朝日放送が収録していたが、ドン・ファンとローマの松、という後半のプログラムは、シンフォニーホールができてしばらくしてカラヤンとベルリン・フィルが来演したときと同じ曲目ですね。あのときは、朝日放送が撮影した番組の出来映えにカラヤンが大いに満足したと伝えられるが、今回はどういう映像を作ってくれるのか、楽しみです。

団伊玖磨が作曲した大阪国際フェスティバルのファンファーレ(かつては毎年、開幕コンサートの最初に吹奏されていた)をプレコンサートのアトラクションの形で演奏したり、大阪の演奏家・演奏団体のほうは、主催者以上に真剣に、大阪のクラシック音楽の歴史・伝統というと大げさだが、自分たちが活動している場の成り立ちや来歴をちゃんと受け継ごうとしているように見える。

そういう心意気が、ビジネスパーソンな方々には伝わらないものなんですかね。

コンサートの前や後に「オマケ」を付け足す発想ではなく、こういうのは音楽祭本体に組み込むべきだと思う。

現在のビジネスパーソンが「常識」「お約束」「定型」だと浅い知識で思い込んでいることからはみ出るものを、「規格外」「例外」として外にはじき出してしまうのは、合理化や効率化ではない。そういうことが起きるのは、「常識」「お約束」「定型」の問題点を知らせるシグナルなのだから、これを取り込んで、「常識」「お約束」「定型」のほうをアップデートする。ビジネスでいうPDCA (Plan - Do - Check - Action) は、そういう健全なサイクルで動的にビジネスを展開せよ、という教えだったのではないでしょうか。まるで不労所得の上にあぐらをかくかのようにルーティンを回すのは、ダメなビジネスですよね。

(大阪フィルが「ドン・ファン」を演奏するのを、私は初めて聴いた。昨年の「ダフニスとクロエ」や一昨年のベートーヴェンは楽団のレパートリーになっているけれど、この曲はたぶんそうではないですよね。それをいきなり若い指揮者に託すのは、(これと見込んだ新人を無茶振り気味に大きな舞台に立たせて度量を試すのが朝比奈時代からのこのオーケストラの一種の伝統ではあるのかもしれないけれど)荷が重すぎたのではないでしょうか。他の楽団がベストメンバーで手持ちの最高のカードを切っているときに、大阪フィルだけが、二軍の若手でお茶を濁しているように見えてしまった。今回のフルートのトップは客演で元京響の清水さんだったし……。新しい姿に脱皮しようと模索中、が今の私たちなのです、ということなのかもしれないけれど。)