承前:公立学校吹奏楽部の経済学を切望する

[学校の課外活動としての吹奏楽とは何なのか、後半に部分的に追記しています。→ PM22:50 話の流れが錯綜してきたので、全体を見直して整理しました。]

直営見直しに「待った!」 市音を守って 有名作曲家ら3人が訴え http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120224/waf12022413500022-n1.htm

橋下氏が大阪府知事時代にセンチュリー響を切ろうとしたときに、センチュリー側は、「ファンの自発的な動き」という体裁で藤本義一らを存続運動の前面に立てました。

大阪市音存続で最初に声を上げた(としてマスコミに取り上げられた)のが宮川彬良さんらであることは、ほぼ、それと同じフォーマットだと思うのですが、それは、センチュリーと同じ道を歩むしかない/それでいい、ということを意味してしまうと思うのですが、それでいいのか。

吹奏楽のほうが、クラシックのオーケストラより、相対的にすそ野が広いので、存続の声が相対的に大きく盛り上がる可能性はあると思いますが、それは市長に届くのか?

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吹奏楽は、管楽器によるオーケストラ“ではない”部分を含んでいて、その一端が「軍楽隊」という出自なわけですが、他にも色々な側面があると思います。

そういう部分を上手く塩梅しながら身の処し方を考えないと、吹奏楽団としての存続は難しいのではないか? 以下、長々と書きますが、言いたいのはそういうことです。プロの吹奏楽団の生き残り策は、プロのオーケストラの生き残り策とは別ではないか、そのことを認識したうえで作戦を立てたほうがいいのではないか、と。

(1) 野外演奏かホール演奏か?

第四師団軍楽隊時代から戦前の大阪市音楽隊時代には、式典での演奏と野外演奏が多かったように思われます。(前のエントリーで紹介した大栗裕の回想にある天王寺公園の音楽堂も、当時公園内にあった屋根付きの野外ステージです。)

そして戦後、大阪市音楽団へ改称されるわけですが、富樫鉄火さんのコラム(http://bandpower.net/soundpark/04_gurushin/82.htm)にあるように、音楽ホールでの本格的なコンサートを定期的に行うのは1960年です(於毎日ホール)。戦後も、ここまで15年間、ホールコンサートをメインとする団体ではなかったわけです。

1960年のコンサートは、これも富樫さんのコラムにあるように「特別演奏会」と銘打っていました。

これはおそらく、オーケストラのように定期演奏会がメインの活動で、それとは別に開催するから「特別演奏会」だ、というのではなくて、野外や式典での活動がメインであって、ホールで演奏会を開くことが「特別」だった、という意味での「特別演奏会」だと思われます。(だって、この頃、市音はまだ、「定期演奏会」をスタートしていないのですから(笑)。)

この少し前にはパリのギャルド・レピュブルケーヌのような団体が来日公演で話題になりました。富樫さんが指摘するように同時期の東京佼成のコンサートが「泰西名曲」中心だったのだとしたら、それは、きっと、ギャルド風の吹奏楽団の影響だろうと思います。

そして当時の日本の吹奏楽関係者が注目していたと思われるもうひとつの大きな潮流として、アメリカの軍楽隊やスクールバンド、ウィンド・アンサンブル運動があります。

日本の吹奏楽が1960年代に室内=ホールへ軸足を本格的に移すときに2つのお手本があった、ということだと思います。パリのギャルドのような“管楽器によるオーケストラ”の道と、アメリカ流のスクールバンドの育成です。

(2) 中高スクールバンドとは何か?

市音がセンチュリー存続運動のフォーマットを使ってキャンペーンを張るのは、市音を擁護する側も贅沢だと批判する側も、彼らがプロのコンサート用バンドである、という認識をもっているからだと思うのですが、

でも、市音が1960年代にいちはやく吹奏楽オリジナル曲を取り上げたのは、プロのコンサート・バンドにふさわしい演奏の質の向上、ということだけでなく、アメリカをお手本とするスクールバンドという「新しい市場」を積極的に取りに行ったということではないかと思うのです。

朝日新聞社が高校野球のお膝元でもある関西で学校吹奏楽を戦前から「育てて」いた土壌があることも、こうした判断の前提のひとつかもしれません。

では、アメリカ流スクールバンドの受け皿になった日本の学校でのクラブ活動としての吹奏楽とは、どういうものなのか?

(a) 戦前の中学音楽部

大栗裕が在籍していた戦前の天商バンド(天王寺商業学校音楽部)とか、ほかにも、大正末から昭和初期に、各地方の名門校で吹奏楽が作られ始めたようです(わたくしの母校も戦前の旧制茨木中学時代から音楽部ブラスバンドがありました)。学校バンドのメンバーであることは、前のエントリーで紹介した大栗裕のコメント(楽器を「掲げて」街を歩いた)にあるように、誇らしいことだったようです。

当時の進学率を考えれば、中学や商業学校へ進むことが既に地元では「優等生」ですし、私はこの時代が専門ではないので断片的に当時の記事を見かけたにすぎませんが、天商バンドは、学外の様々なイベントに出演しています。(天長節の市の式典、といったたぐいの公式行事です。)

戦前の中学校音楽部の吹奏楽というのは、エリートとなるべく期待された子供たちの晴れ舞台であったらしい、ということです。

(b) 戦後の主体は中学校から高校へ

戦後の学校でのクラブ活動は、戦前と対比して言うと、「民主化」もしくは「大衆化」していると思います。

戦後の日本の吹奏楽の歴史というと、膨大なデータを比較的容易に入手できるので、全日本吹奏楽コンクール中心に語られることが多いですが、

コンクールのフラッグシップ校が中学から高校へ移行しているのは、進学率の上昇と関係があるかもしれない、とか、私立学校の台頭は、高校野球に似た私学の経営戦略とリンクしているかもしれない、といった「社会科学的」な読みが、おそらく様々に可能だと思われます。

こうした議論は、吹奏楽の「部員」経験者がたくさんいますから、親しみをもって読んでいただける「お話」になりそうではあります……。

(3) 公立学校吹奏楽部の財政はどうなっているのか?

でも、私が常々不思議だな、と思っているのは、

「公立学校の場合、楽譜や楽器を誰がどこからお金を捻出して購入しているのだろう?」

ということです。

私の父は公立小学校の校長だったので聞いてみますと、公立学校というところには、学校単体での「予算」というものがないのだそうです。

(給食費なども、徴収すると、ただちに自治体のそういうのを管理する部署へ持っていく。備品の購入も、ひとつひとつ教育委員会へ申請して配給される形であって、学校に金庫や口座があって、それを運用する、という形になっていないのだそうです。)

思い出してみてください。音楽鑑賞会とか遠足のときは、いちいち、経費を徴収していましたよね。学校行事というのは、そういう風に、何かやるたびに、何もないところから必要なだけお金を集める形なのだそうです。

だとしたら、部として楽譜や楽器を購入する、というのは、いったいどういう「予算措置」になっているのか?

楽器を購入しようとしたら1台十万のオーダーですし、楽譜もパート譜フルセット揃えようとしたら万単位でお金が要りますし、楽器は消耗品がついてきて、経年で維持費もかかる。さらに指導者をどうするのか、という問題がありますよね。(熱心な先生が作って数年間盛りあげたのはいいけれど、移動になったときに、そのあとをどうするのか?)

公立学校の正規のカリキュラムではなく、課外活動であるにもかかわらず、これだけ全国津々浦々の公立学校に吹奏楽部があるのはどういうことなのか?

おそらくこれは、課外活動なのに何故、ということではなく、課外活動という「隙間」であるからこそ、なんとなくやれてしまって、しかも、いつの間にか大きな産業に育ってしまったのではないかと、私は想像しております。学校本来のシステムで制御できない「裁量」の部分であるがゆえに、その場その場の判断を積み重ねて大きく育ってしまったのではないか、と思うのです。

そして吹奏楽が中学より高校でよりさかんになっていったのは、公立高校が、小中学校に比べて予算のしばり緩く、学校の裁量で吹奏楽の予算を捻出しやすい構造になっている、という面があったのではないか、と私は想像するのですが、どうなんでしょう?

(歴史のある公立名門高校には、各界へネットワークを広げる強力な同窓会があるのが普通で、政治家が同窓会幹部で云々という話はありがちですよね。たとえば大阪の学校法人金蘭会学園という私学法人は、府立大手前高校の同窓会組織です。そして大手前高校は、橋下くんが昨年までトップを務めていた大阪府庁のすぐご近所です。

大阪の知事や市長は、そういう不思議なパワーをもつに至ってしまった公立学校とつきあわねばならない仕事であるようです。今はまだ、橋下氏もそこまで気づいていないかもしれませんが、そのうち彼は、吹奏楽が教育現場と関わりが深いことを認識してしまうかもしれません。どうしてそんな形で課外活動が肥大しているのか、その肥大した課外活動のトレーナー、指導者の役割を果たす団体をわざわざ大阪市が持つ必要があるのか、みたいに、ますます批判が勢いづくかもしれません。彼が出た北野高校にも、公立高校では珍しいと思われるオーケストラ部なんていうのがありますし……。)

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時間がなくなったので、ここまでで中断しますが。

おそらく、戦後日本の吹奏楽を考えるときには、「公立学校吹奏楽の経済学」が必須の論点で、そこにどういう形でオトナたちが絡んでいるのか、ということを一度誰かが実証的に検証すべきだと思います。

放課後の塾や習い事は、教育に隣接するけれども学校のように制度化されていないことで産業として育っちゃいました。吹奏楽も多少似たところがあって、あんな大掛かりな合奏音楽を学校の課外活動の枠でやっていたら、どうしたって、顧問の先生と生徒たちだけで全部をまかなうことができませんから、外部の「何か」に頼ることがある。OBの先輩たちのボランティア、という範囲で済めばいいけれども、業者やトレーナーが関わらざるをえない形になることがあり、商売ですから、そういう方々は、至れり尽くせりにサービスしてくれるはず。

吹奏楽関連の仕事をしている方々が現場の弱みと隙につけ込むワルモノだと言っているのではなく、学校という教育の場の事情をわかったうえで、親身になってくれる業者さんがあるだろうこともわかります。個々の具体的な人・団体の善悪の話ではなく、そういう価値判断はひとまず脇へ置いて、生態系のように組み上がってしまう構造・システムをトータルに一度記述してみるべきではないかと思います。

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そして「日本で唯一の市営吹奏楽団」という大阪市音楽団の意味も、彼らがメインターゲットとしている「市場」(としてのスクールバンド)の経済・財政構造を押さえ、そうした「市場」でこの団体がどのようにプレイしているのか、ということを押さえないと、おそらく、冷静に議論することは難しいのではないかと私は思います。

(コンクールの前になると、市音の辻井市太郎大先生に地方の熱心なバンドとかが指導を仰いでいた、みたいな話は実際に耳にしましたし。)

問題は、スクールバンドという今やそれなりの産業になっている生態系の存続・育成に公共団体が直接関与すべきかどうか、ということだと思うのです。

ここまで踏み込んで初めて、橋下さんのやろうとしている「改革」らしきものと、吹奏楽という活動とがガッツリ正面から対峙している本当の土俵が見えると思うんです。

だって、子供の教育ってのは、橋下さんが格好のネタにするテーマじゃないですか。吹奏楽というシステムは、まさにその分野に食い込んでいるわけで、万が一、先方の攻撃材料になりそうな「弱み」を持っていた場合には、とうてい闘い切れないことになりますよね。市長と一戦交えるぞ、というのであれば、市音やそれを支持する吹奏楽業界な方々は、心して、永田町政治家用語でいうところの「身体検査」を事前にちゃんとやっておくに越したことはないと思うんですよね。

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わたくしは、市音問題が報道されたときに「ついに来たか」と思いましたが、その「ついに」は、そういった意味を含むと思っています。吹奏楽って何なのか、長年にわたる蓄積があるこの面妖な疑問の一端を解きほぐさなければいけない巡り合わせなのかもしれないな、と思います。

バブル景気の勢いで作られてしまったオーケストラの去就問題よりも、大阪市音という案件は、歴史的にも構造的にも、たぶんはるかに根が深い。

そして問題の根の深さに思いを致せばこそ、大阪市音楽団様におかれましては、コンサート・バンドとしての意義というところで押すのではなく(それが無理なのはセンチュリーが実証済)、スクールバンド指導者としてのあれこれ、というのも、こういう風に存廃が話題になって耳目を集めているので、あらぬ疑いをかけられないように自粛して、

そういう風に考えていくと、大正以来の「生ける洋楽史」という無形文化財的な存在意義を踏まえつつ、右傾化が叫ばれる昨今の時代風潮のなかで支持者を集めそうな線を狙って、「天岩戸の物語」や「君が代」を熱狂的に演奏する「日本音楽団」として、市長如きが手出しのできない「西の靖国神社」になっていただくのが生き残るための一案ではないかと、直前のエントリーでご提案申し上げたのでございます。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120406/p1

この際だから、いっそのこと、大阪城から生國魂神社へ本拠地を移転する、なんてのはどうでしょう。そうしたら、「神話」のみならず、「大阪俗謡による幻想曲」を演奏する団体としての意味が明確になり、盤石じゃないですか!