「ミカド」のダンスとギャグのセンス

バーンスタイン「ミサ」でオペラ歌手たちがしっかり踊れていたことを考えると、「ミカド」の歌謡ショウ風のダンス(パラパラした手振り)が板に付かない中途半端なものだったのは、現在のオペラ歌手の水準云々というより、どういうダンスを作るか、方針や振付師の人選の問題ではないかと思う。

あと、もうひとつ、関西で観ていてもいたたまれない感じがしたギャグの数々は、こういうのを東京へ持っていくのか、大丈夫なのか、と戸惑わざるを得なかったが、演出家のアイデアだったのか、歌手たちがアイデアを出し合ったのか、どういう経緯でああいうことになったのだろうか。

(日本語の音楽劇の台詞の発声・発話をどうするか、というのは根深い問題で、よほど考えて取り組まないと出口は見えないだろうと思うけれど、そんな大きな話に腰を据えて取り組むことができる状態ではないプロダクションだった印象は否めない。

舞台装置(プロジェクションマッピング班)と歌手チームとオーケストラがそれぞれ別々に動いて、全体を統括して責任を取る人がいない感じも、すべて井上道義ありきで動いたバーンスタイン「ミサ」とは対照的だったかもしれない。複数のレイヤーをバランスよく重ねることで、全体をキツく統合するのとは違うクールな舞台を目指したのかもしれないけれど。)

そもそも音楽では、必ずしも拍の瞬間に音を出さなくても良いはず。特に、拍の前に音が出されることをタブー視する傾向が現代では強いが、その選択肢があっても良いのだと思う。これは音楽の推進力にも影響してくるのではないだろうか。

山田和樹が東京混声の定期演奏会の準備をしているタイミングでこういう発言をするのは、わかってるなあ、と思う。

「音」と言っているけれど、言葉(とりわけ子音で始まる音節)は拍とシンクロさせるとおかしなことになる。

先のびわ湖ホールの「ミカド」で、何人か、日本語をクリアに語り、歌う歌手がいたことは何よりの救いでした。批評は既に先週の土曜日の京都新聞夕刊に出たようです。

[追記]

声楽 の現場で、よく"#子音 のタイミングを前に出す"(=拍よりも前に発音が始まる)ということがあるが、これは発音そのもののこと以外に、流れている音楽がより自然になるための方法の一つなのかも知れない。#前打音 の扱いに近くなるのだろう。

先の山田和樹の発言は言葉の問題を意識したものだったようだ。そりゃそうだよね。