メディア論、エクリチュール論と北大西洋条約機構

世紀前半のアメリカニズムの総仕上げみたいな感じに視聴覚メディアが普及して、「書き言葉」=出版文化の地位を揺るがす可能性が見えてきたところで、お隣のカナダのしかも工業化で潤ったフランス語文化圏という微妙なポジションの司祭が、カトリックを「声の文化」だと主張してこの流れに乗っかろうとした。そうすると、そもそもエクリチュールは声と紐付けることを必須としないシステムであろう、とフランス本国の左翼が第三共和政以来の政治風習の延長で政教分離のアップデート版の論陣を張って切り返した。

大西洋を挟んで、新大陸東海岸と旧大陸旧宗主国がやりあったのが、20世紀後半のエクリチュール論、メディア論、ポストモダン談義の正体だと見てよさそうに思う。

(フランスはNATOに参加するか否か、みたいな括弧付きの「国際政治」ですね。そうこうするうちに、NATOの前提だった冷戦自体が消滅しちゃった。)

まあしかし、言葉の運用はヒトの生物としての基本能力のひとつなのだろうから、キリスト教vs共和制、旧大陸vs新大陸みたいな小競り合いと絡めるのはいかにも近視眼的な矮小化だし、この近視眼的な矮小化の色眼鏡は、どこかしら、「日本人論」=日本特殊論のうさんくささに似ている。

議論のスコープをこの水準に設定してワアワア騒ぐ欧米の言論のモードと「日本人論」は、その意味で同時代現象だったのかもしれない。

いずれにせよ、このままでは、次の世紀の学問の基礎にできる代物ではないよね。