トロンボーンのないオーケストラ:バロック・古典派合奏音楽と科学革命

大阪フィルは昨秋の定期にシューベルト(スダーン)、ドヴォルザーク(エリシュカ)、モーツァルト(尾高)というように中欧の二管編成の作品を並べて、今年度も尾高忠明のブルックナーのあと、5月はメンデルスゾーン「イタリア」とマーラーの擬古典主義の交響曲第4番で、トロンボーンのいない定期演奏会になった(指揮はルスティオーニ)。

マーラーは色々詰めが甘いと思ったし、あの歌手でよかったのかとも思ったけれど、メンデルスゾーンは薄い響きで管楽器やバスの動きがくっきり浮かび上がり、18世紀の延長の楽器編成で新しいことをやろうとするこの作曲家の特徴がよく出る演奏だったと思う。

19世紀にベーム式フルートや金管のバルブ機構、弦楽器の強化といった楽器の「近代化」がなされたことは、渡辺裕が「音楽機械劇場」という本で主張した枠組で処理できそうだけれど、

替え管で様々な調に対応するナチュラル・ホルンや、リコーダーを駆逐した木製のバロック・フルート(管を分割して様々な調律に対応できた)は、決して「前近代」の素朴な楽器ではなく、17世紀科学革命の知見と連動して、モーダルな教会の伝統から脱却した調的和声・和声的調性という新しいシステムに対応する最新のモダンな楽器だったと言うべきだろうと思う。

そしてバロックの宮廷合奏音楽は、歌手の歌声に似た響きを奏でるだけでなく、コンチェルトで多彩なアンサンブルを実現していたヴァイオリン族をベースに、こうした最新の管楽器たちを揃えて、カストラートの奇跡の声に似た「輝き」(クラリーノ)を誇るトランペットが君臨したのだから、噴水で重力に逆らって水が下から上に吹き上がる噴水や、鉄砲・大砲の火力の源泉である火薬を色とりどりの光のページェントに利用する花火と同じく、最新テクノロジーの展示場と言うべき宮殿にふさわしいアートだったんだと思う。

こうした合奏音楽は、古代ギリシャに倣って「オーケストラ」と呼ばれた劇場のしかるべき場所で宮廷の祝祭をもり立てるのにうってつけだったし、劇場を離れて、コンサート等で演奏するときにも、いつしか「オーケストラ」と呼ばれるようになった。

オーケストラという言葉の由来は古代ギリシャに遡るけれど、オーケストラという合奏形態の起源は、ギリシャ劇の復興を目指したバロック宮廷文化にある。官僚制国家が自由・平等・博愛に先立ってアンシャン・レジームに由来するように、クラシック音楽の骨格は、渡辺裕が注目したような19世紀の市民的教養に先だって17、18世紀の宮廷で形作られたと言うべきだと思う。

そして17、18世紀の宮廷文化は、のちに市民たちが「下から目線」で揶揄するような「ゴチャ混ぜ」の混乱ではない。(「科学革命」時代の貴族たちが、そこまでアホなはずはない。)効率や発展という基準を立ててしまう近代市民の発想では、バロック/ロココの希少性の輝きや組み合わせの多彩が見えなくなる、ということだと思う。

おそらく「オーケストラ」という言葉は、規模の大小の問題ではなく、そうした希少性や多彩さ(劇場・祝祭にふさわしいような)を含意して用いられたし、今もそのニュアンスは残っている。だから吹奏楽はオーケストラと呼ばれない(ウィンド・オーケストラという言葉が不遜な下克上に見える)のだと思う。

(吹奏楽は、サクソルンやサクソフォーンがそうであるように、効率的(渡辺裕の言う意味での「近代的」)に設計されていて、外部への回路がふさがっている。だから吹奏楽とつきあっていると、ビデオ・ゲームで play 遊びを代表させようとするときの歴史の欠落に似た閉塞感がある。)

19世紀のロマンチストたちは、確かに市民的な発想で新しい価値を打ちだそうとしたのだろうけれど、でも、そういう宮廷文化の遺産をリセットして捨てたわけではなく、むしろ、巧妙機敏に利用した(宮廷文化に寄生してその遺産をリサイクルした)ように見える。

「イタリア」交響曲がA-durなのは、たぶん、ベートーヴェンの7番を踏まえていて、管長の短いA管のホルンがベートーヴェンの場合と同じように雄叫びをあげる。

一方、シューマンの「春の交響曲」はB-durで、ベートーヴェンの4番と同じ調ですね。ベートーヴェンの場合は、世界のはじまりの混沌を思わせる序奏のロングトーンを、管長の長いB (Basso) 管のホルンが不気味に響かせるし、シューマンの序奏では、同じB (Basso)のホルンが、トランペットのオクターブ下でファンファーレを支えている。

こういうポイントを拾っていかないと、オーケストラの話は面白くならないよね。

(シューマンのシンフォニーを「影響の不安」というお話に回収するような過剰に重装備のペダンティズムとか、こういう話についていけない老人に「一般人にはそういうのは難しいよ」(←往々にして、この物言いは自分が話についていけないだけだったりする(笑))と嫌味を言われたくらいのことで怯んでしまう屈折した心情とか、そういうことをやっていたら先細りでしょう。)