21世紀の詩と散文

SNSにあまりにも特化して言葉をつむいでいると、140文字の散文詩、限定された文字数と言葉の特定の流通形態においてのみ意味や効果をもつ言葉の連なりを生成する技術が発達して、無意味もしくは非意味に逢着して消耗することが知られている。

140文字の散文詩を複数組み合わせて編集する、というやり方で自由散文の世界へ出る方法が模索されており、人間がそのような編集を行うツールとしては、古くはカードを使った発想法が流行り、最近はアウトライン・プロセッサーが結構普及しているようだし、AIによる自然言語の運用には、そのような編集を高速化してビッグデータの解析を行っている面があるようだ。

SNSが指し示す一種の「詩」(自律言語という20世紀的・「言語論的転回」以後的な意味における)の無意味・非意味のブラックホールは、そのようなやり方で上首尾にふさがるのだろうか。そしてそのとき、「近代」が発見したタイプの「詩」(とりわけ固有の韻律を確立できなかった日本の口語文によるそれ)はどうなっていくのだろう。

(これは、要するに、twitterで面白く書こうとすると誰もが増田聡になってしまう、という症状、そして twitter が一発芸的な宣伝・プロパガンダ(もっともらしくポスト・トゥルースと呼ばれることもあるような)で埋め尽くされてしまう現状に、私たちはこれからどうやってつきあっていけばいいか、ということなわけだが。)

「マイノリティはメジャーにあやかる」と断定する者:芸術学の位置を詩学のアリストテレスに遡って自嘲することから何が発見できるか?

音楽は「理論的にマイナー」な芸術なので、哲学者や思想家がちょろっと(当人にとっては非本質的な仕方で)音楽に言及した箇所を、音楽家や音楽研究者が喜んで拾い出し、過剰な解釈や意味付与を行う、という傾向がありますね。文学や美術の研究者はあまりやらない(その必要がない)ことだと思います。

「音楽」だけじゃなく、芸術全般がルネサンスまでは「理論的にマイナー」だったんじゃないのかな。

アリストテレスが詩学という書物でちょろっと(当人にとっては非本質的な仕方で=アリストテレスの他の書物とは写本の伝承からして別系統である詩学という書物で)演劇に言及した箇所を、美学者や芸術研究者が喜んで拾い出し、過剰な解釈や意味付与を行う、という傾向がありますね。倫理学者や自然哲学者はあまりやらない(その必要がない)ことだと思います。

(whataboutism 風の混ぜ返しになってしまって恐縮ですが。)

芸術において音楽がマイナーに見える、というだけであれば「西欧(もしくは人類?)の視覚中心主義」という診断を下すことができるかもしれないけれど、より広い文脈で芸術全般がマイナーだ、ということになると、「視覚中心主義」という診断の妥当性が揺らぐ、少なくとも、芸術における音楽の地位をその証左として提出する前に吟味すべきことが出てくるのではないかしら。

マイノリティであるとはどういうことか、ある現象がマイノリティであるという診断は相対的でしかあり得ないわけだが、そのような相対性から一般的な法則を取り出す思考操作は、知的・科学的であると言えるのか。それが科学的推論だと言いうるとしたら、その推論はどのような方法と理念によっているのか。ポピュリズムがそうであるような数の争い、ある事柄の支持者が多いか少ないか、という統計を推論の妥当性の判断材料にする、というのは、あまり従来の知・科学ではなかったことのような気がする。AIの活用を見据えた21世紀の科学なのだろうか?

歴史学や社会科学は個人ではなく集団を扱うから、ある推論や現象の支持者・信奉者が多いか少ないか、という統計を活用するのはごく普通の操作だと思うけれど、哲学(者)にとって、「私の思考の支持者ははたして多いのか少ないのか」という評判の自覚は何を意味するのでしょうか。哲学(者)が遅ればせながらにお年頃の思春期を迎えて、モテ/非モテを気にするようになったということなのか、そして、思春期的なモテ/非モテの自意識こそが哲学における脱近代・ポストモダンだ、ということになるのでしょうか。

哲学は、今さらそこに拘泥しなくても、もとからそういうことがひととおり読み込まれていて、成人の処世術の上に築かれていたのではないのかと思わないではない。つまり、芸術や文学のなかに、ある年齢に達して一定の経験を経ないと理解できないものがあるように、思考・哲学にも、それを理解できるようになる年齢みたいなものがあるんじゃないか。マイノリティの自意識が、そのような成人の思考に持ちこたえるか、となると、少々怪しい気がしないでもない。

うっかりすると、「マイノリティはメジャーにすがって生きていくしかない、世の中とはそういうものだ」と言っているだけになってしまいそうなのだが。

(「勉強の哲学」を読むと、ユーモアとキモ系をキーワードにして、マイナー研究の倫理についても、ヒントが得られるのだろうか。)

名前を売りたい人々

十数年前の大河ドラマ「新撰組!」に岩倉具視が伊東甲子太郎の名前を覚えようとせずに侮辱する場面があったが、今思えば、あれは京のお公家さんの陰険さの表現というより、三谷幸喜がどこかで経験したのかもしれない現代の芸能界の風景だったのでしょう。

宣伝・広報とはタレントの「名前を売る」ことである、という面がおそらくある(あった)。売名行為の語があるように、悪評であろうと名前が広まればこっちのものだ、という考え方が、今では「昭和的」と懐古的に語られてしまうかもしれない芸能界・マスコミ・ワイドショウの日常だったような記憶がかすかにある。

テレヴィジョンという最先端のメディア・技術、マス・コミュニケーションという時代の花形である舞台で、実に野蛮なことが繰り返されていた時代があったわけである。

そして次第に薄れつつある記憶をたどると、そのような野蛮な場所を物語風に描写するバックステージものでは、タレント/スターの「名前」を売るのと裏腹に、決してその名前が表に出ることのない無名のスタッフたちがうごめくことになっていたような気がする。「お前の代わりなんていくらでもいるんだ、身の程をわきまえろ」とか言われちゃうメロドラマである。

現在は、メディア状況も、文化芸能が花開く舞台も、そんな野蛮な時代とはずいぶん変わりつつあるわけだが、今でも相変わらず、「名前を売る」が宣伝・広報の本命であり、そのために身を挺する「名もなき者」がその背後には膨大にいて、日々メロドラマが繰り広げられていると信じ続けている化石のような人たちが、おそらくいるんだろうと思う。

高齢化社会なので、そのようなノルタルジー市場もある程度延命してはいるのだろう。

「私は決してお前の名前を口にしない」

というのは、もしかするとそのような後期高齢者のノスタルジックな世界では、ようやく手に入れた権力の行使なのかもしれないが、でも、実際のところは、そのように古くさい作法で売買するまでもなく確かにそこに存在している「名前」を前にして、どう対応したらいいのかわからない臆病者が、その名前を口にする勇気もなく怯んでいるに過ぎなかったりするのかもしれない。

憐れなことである。

当節のクラシック音楽の宣伝・広報では比較的よくある話な気がします。

(でも、それはそれとして、広瀬大介さんは「音楽評論家」なのでしょうか? オペラ学者の翻訳上のこだわりが成功していたかどうか、というだけの話だろうに、どうしてストレートに物が言えなくなる仕掛けをあっちこっちに作るのだろう。)

P. S.

昨年末に、演奏会の帰りの京都の地下鉄で、旧知の業界の女性たちと一緒の「彼」と同じ車両に乗り合わせたことがあった。悪戯心を起こして、私がそのなかの一人に耳打ちして質問させたら、「彼」は昔話をはじめて、「へえ、すごい」と感心されて、めでたく会話の中心に収まった。「東条さんはグルッペン(の日本での上演)を3回とも聴かれたんですか?」という佐藤千晴の問いかけは、わたしの入れ知恵なんですわ(笑)。たぶん「彼」は、こういう接待で日々を過ごしているのでしょう。

日本における Nationalities と Nationalism

「有事」という言葉が、特定の思想信条の人たちのジャーゴンではなくなって、実際に「箏が有る」状態になってしまうと、この島に住む者にとって、Nationality の定義はどうしても一部変更を迫られるわけですよね。「団」や「連」を組んでいる方々にとって、その成り立ちや定義に関わる Nation のありようが変わってしまうことになるかもしれないわけだから。

Nationalism をめぐる過去十数年のこの島での議論の盛り上がりは、そういうことを準備する上で意味があったことになるのでしょうか。

そして例えば、尹伊桑や白南準について、この島では、今後、誰がどのようなスタンスで語り、取り扱うことになるのでしょうか。

伊東信宏さんが旺盛に論じていらっしゃるようなバルカン半島、中央ヨーロッパの音楽文化の複雑な襞は、中央ヨーロッパで Bundesrepublik と Demokratische Republik を隔てる壁が取り払われたが故にせり上がり、顕在化したところがあるわけですよね。

東アジアでは、それから四半世紀以上経っても複数の人民共和国が存続していて、ひょっとすると中央ヨーロッパにおけるリゲティやクルタークと比較して考察する意義があるかもしれない音楽家や芸術家の動きを語ることは今も難しい。

この状況もまた、しかし動く、ということになるのでしょうか。

翻訳字幕は職人的経験値がものを言う

前にびわ湖ホールと新国立劇場が相次いでコルンゴルトの死の都を上演したときに、字幕の善し悪しではびわ湖ホールの圧勝だな、と思ったことがあるので、東京の音楽祭の字幕がいまいちではないか、という疑念が出ることは十分ありうるし、予測可能な問題が顕在化したのかな、という気がする。(残念ながら公演を実際にはみていないので、「気がする」だけで、断定することはできないが。)

山崎太郎さん(びわ湖のコルンゴルトは彼の翻訳ではなかったけれど)のリングのDVDの字幕は画期的に明快で素晴らしいと思う、と前に書いたことがあったと記憶する。

翻訳者や文学者が言葉のプロとして長年の経験で蓄積している翻訳技術に音楽学者(広瀬さんは評論家というより学者ですよね、彼の言動に評論家として勝負している形跡はほとんどないし)が謙虚に学ぶ。そういうことが求められる場面というのは、一般論としてありうるだろうなあと思う。

(森鴎外の中途半端にペダンティックなグルック「オルフェオとエウリディーチェ」の訳詞を東京芸大の楽理がありがたがったり、日本の音楽学者の言語感覚は、ときどき狭いマニアックな場所で暴走することがある。最近の例では、堀朋平もちょっと危うい。)

今回の東条氏の疑念がこれに該当するかどうか、断定はできないし、これは一般論に過ぎないが。

HIPな演奏、ちぐはぐな運営

今年は桜が満開の週末が雨になってしまいましたね。

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こういう結果になると、センチュリー響のハイドンが一番誠実な取り組みだった、と判定せざるを得ないかもしれない。

巨大な空間に大観衆を集めるプロムスで古楽系団体が拍手喝采を浴びる(YouTubeでそういう映像がいくつか見つかる)のに似た上手なプレゼンテーションでしたね。音友あたりのグラビアで華やかに報じて欲しいものだ。(ちゃんとカメラマンを派遣していたのだろうか?)

18世紀古典派音楽の in tempo をメトロノーム的な等速運動と解釈して、すべてを等速運動的なパルスにあてはめようとすると、ハイドンの交響曲は、おそらく18世紀には全く想定されていなかったであろう種類の超絶的に難しい音楽になる。こういう演奏スタイルは、20世紀前半の新即物主義のテンポ理解の延長上に「古楽」や「ピリオド演奏」を組み立ててしまった一昔前の Historical Informed Performance の悪弊だと思う。

ハイドン「太鼓連打」は、YouTube にコープマンがフランスの放送オケを指揮した目の覚めるように生き生きした演奏があるので、比較すれば、今回のセンチュリーのスタイルの問題点がわかる。等速運動的な in tempo では表現できないハーモニーの面白さやハイドン一流の「驚き」「不意打ち」「意外性」の多彩な効果がこの作品には膨大に盛り込まれているのに、センチュリーは、そういうものをすべてばっさり切り落としてしまっている。

(たぶんこの等速運動風 in tempo では、ハイドンの機略の効果は出ない。外山雄三のテンポが緩み気味になってしまうのは加齢で仕方のないところがあるのだろうし、そこを割り引いて聴けば、同じように in tempo を基本とする演奏でも「音楽」として濃密な表現が聞こえて来る大阪交響楽団のくるみ割り人形との違いはあまりにも大きい。)

でも、無知や認識不足(そしてひょっとするとマジメすぎる想像力の少々の不足)ゆえに切り落としてしまっているものがたくさんあるにしても、ひとつの方針・コンセプトを、よくぞこれだけの精度に仕上げたものだ、と感心する。

一人の指揮者の下で、安定した運営方針を数年にわたって維持したことで、オーケストラの各部門が状況に最適化されて、効率的に動いているのだと思う。

整然と法人化・ビジネス化が進む今の日本のクラシック業界のものの見方からすると、オーケストラが4つ集まってコンサートをやるのは話題性を狙った無茶なお祭りイベントということになるのかもしれないけれど、客席は、それぞれのオーケストラの定期会員になっていらっしゃったりして、普段からコンサートに慣れたお客様が多いように思われる。ごひいきの団体を応援したり、それぞれがお互いを意識して真剣に個性を競っているのを、普段以上に聞き応えのある演奏会として楽しみに期待して来てくださっているのではないかと思う。

(そういえば、朝日新聞社の文化事業の原点とも言えそうな戦前の朝日会館ではモダニズムの精神で伝統芸能を刷新するべく流派の垣根を越えた四流合同のホール能が催されて、これが戦後の大阪国際フェスティバルの能楽公演につながったと聞いている。だから、新しいフェスティバルホールで四大オーケストラをやるのは、朝日新聞にふさわしいと言えるかもしれないし、逆に言うと、日本の洋楽クラシック業界は、かつては邦楽に対してより新しく近代的だと言えたかもしれないけれど、今ではかつての邦楽界に似た縦割りの家元制度になりかかっているところがあって、だからこういう団体横断の試みが求められているのかもしれない。)

実際、各オーケストラの首席クラスがローマの松のバンダを吹く、というのは、他ではまず望めない贅沢な布陣ですよね。

これは、在庫一掃大安売りセールではなく、現状の一番いいところを切り出したスペシャルな高額商品として売り買いされていい物件だと思うのです。(チケットは、前売りがS席8,500円、A席7,000円と通常のそれぞれのオケの定期の一回券より高く設定されているし。)

だから、学生アルバイト風のレセプショニストが、まるでバーゲンセールに詰めかける買い物客をさばくかのように、列を作れ、こっちへ進め、と連呼するのはフェスティバルホールではいつものことなので、失礼なあしらいだなあと思いつつ、もう諦めているけれど、終演後のプレゼント抽選会、というのは、さすがに、ちょっと違うんじゃないかと思った。

(今回は出演していらっしゃらなかったけれど、飯守泰次郎が出ていたら、国の文化功労者を終演後の舞台に立たせて、同じように抽選会をやらせるつもりだったのだろうか……。)

朝日放送が収録していたが、ドン・ファンとローマの松、という後半のプログラムは、シンフォニーホールができてしばらくしてカラヤンとベルリン・フィルが来演したときと同じ曲目ですね。あのときは、朝日放送が撮影した番組の出来映えにカラヤンが大いに満足したと伝えられるが、今回はどういう映像を作ってくれるのか、楽しみです。

団伊玖磨が作曲した大阪国際フェスティバルのファンファーレ(かつては毎年、開幕コンサートの最初に吹奏されていた)をプレコンサートのアトラクションの形で演奏したり、大阪の演奏家・演奏団体のほうは、主催者以上に真剣に、大阪のクラシック音楽の歴史・伝統というと大げさだが、自分たちが活動している場の成り立ちや来歴をちゃんと受け継ごうとしているように見える。

そういう心意気が、ビジネスパーソンな方々には伝わらないものなんですかね。

コンサートの前や後に「オマケ」を付け足す発想ではなく、こういうのは音楽祭本体に組み込むべきだと思う。

現在のビジネスパーソンが「常識」「お約束」「定型」だと浅い知識で思い込んでいることからはみ出るものを、「規格外」「例外」として外にはじき出してしまうのは、合理化や効率化ではない。そういうことが起きるのは、「常識」「お約束」「定型」の問題点を知らせるシグナルなのだから、これを取り込んで、「常識」「お約束」「定型」のほうをアップデートする。ビジネスでいうPDCA (Plan - Do - Check - Action) は、そういう健全なサイクルで動的にビジネスを展開せよ、という教えだったのではないでしょうか。まるで不労所得の上にあぐらをかくかのようにルーティンを回すのは、ダメなビジネスですよね。

(大阪フィルが「ドン・ファン」を演奏するのを、私は初めて聴いた。昨年の「ダフニスとクロエ」や一昨年のベートーヴェンは楽団のレパートリーになっているけれど、この曲はたぶんそうではないですよね。それをいきなり若い指揮者に託すのは、(これと見込んだ新人を無茶振り気味に大きな舞台に立たせて度量を試すのが朝比奈時代からのこのオーケストラの一種の伝統ではあるのかもしれないけれど)荷が重すぎたのではないでしょうか。他の楽団がベストメンバーで手持ちの最高のカードを切っているときに、大阪フィルだけが、二軍の若手でお茶を濁しているように見えてしまった。今回のフルートのトップは客演で元京響の清水さんだったし……。新しい姿に脱皮しようと模索中、が今の私たちなのです、ということなのかもしれないけれど。)

「○年やったら諦めろ」の件

当初想定していた長期戦のための兵糧が尽きて、続けるための支えがないのに意地で続けるくらいなら、作戦を考え直した方がいい、ということじゃないのかな。5年でも10年でも30年でも、トライし続ける体力・生活基盤があるんだったら続けたらいいし、なければ、止めるしかないよね。

「おれは○○年諦めなかったから今日がある。お前も頑張れ」

は、どうしてそんなに長い間トライし続けることができたのか、まずは、その間の経済・生活基盤を教えて欲しい。そうじゃないと、ブラックで無責任なアドバイスだ。

たとえば、私は10年近く大栗裕、関西の洋楽と言っているが、これで生活しているわけじゃない。でも、万人にとって無償無害なホビーでしかないことなのだったら、大栗裕や関西の洋楽についてしつこく調べたりはしないと思う。

調査・研究は、課題・問題を設定して、それを解決する営みなのだから、問題が解消したら、何年目とかとは関係なく、その調査・研究は終わるよね。そしてあまりにも解決までに時間がかかるのは、それが難題である場合もあるが、残念ながら調査・研究の当事者にその課題を解くための技術・能力が不足しているがゆえの遅延であるケースもあるだろうし、解決不能の疑似問題に挑んでしまっている場合も少なくないように思う。「知的な高揚」(内田樹)は、調査・研究を駆動する力になるが、無謀な挑戦や疑似問題を延命させてしまう場合がありうる。

近代社会は、世の中のほぼあらゆる事柄を市場経済の原則に合うように変換・書き換え・組み替える方向で進んだと言えるのだろうし、20世紀を席巻した労働者一党独裁の共産主義プロジェクトも、サステイナブルではないその一変種だったということで決着しつつあるように見える。

文化と呼ばれる領域は、市場経済の教科書的な原則ではうまく運用できそうにない事柄を押し込める場所であるかのような感じがあって、だから、市場経済を敵視するタイプの言論がここから繰り返し発生しているけれど、市場経済には「教科書的」ではない手練手管(必ずしも「不正義」とは言い切れないような)が色々あるようで、文化は経済と対立する、という単純な構図ではなかろうと思う。

東浩紀が、自己資金で自らがオーナー社長になって会社を経営して、自社で発行する書物のなかで「ポストモダニズムの徹底にしか活路はない」と宣言するのは、「悪い場所」に押し込められてしまっている文化の諸相を、こうすれば、もっとエレガントに市場経済に接合できるはずだ、と遂行的に提言しているんだろうし、おおむね、そういうことになっていくんじゃないですかね。

○○年やって、諦めるか諦めないか、というのも、そういう文脈で考えるのがいいんじゃないのかな。

能勢妙見山

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数日前「ちかくにかくれているゴマゾウ」を探していたら、向かって右手の茨木の竜王山から中央左寄りの能勢・箕面のあたりまで、大阪の北の稜線を一望できる崖に出た。iPhoneのパノラマなので方角がわかりにくいが、右の山の向こうは京都の亀岡で、左のなだらかに下る稜線を越えると兵庫の川西だ。

昭和の半ばくらいまでは、山間の平地を通る旧西国街道のあたりでも視界を遮るものはなかったのだろうけれど、今は国道沿いに倉庫が並んでいるし、合間に山並みが見えたとしても、たいてい電柱と電線がかぶってしまう。家の近所でこういう場所はなかなか見つからない。(ゴルフ場の跡地を造成した住宅地のへりです。)

大栗裕は中学生の頃に父親と妙見山に登って、そのとき父親(徳島出身)が歌った御詠歌の記憶を雲水讃の第2楽章(改訂稿の第1楽章)にしているが、坂田三吉が家の屋根の物干しから妙見山を拝んだ逸話があるから、かつては大阪市内からでも見えたのでしょうか。どの頂が妙見山なのか、GoogleMap と照合しても、私にはよくわからないのだけれど。

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鉄道が突き刺さっている淀川が北摂の南の境界、なだらかな稜線が北摂の北の境界ですね。

大阪を掘る者、埋める者:2017年の武智鉄二と大澤壽人

豊中市の国有地を掘ることが現在の地価に影響するとはどういうことか、というあたりが焦点になっているようだが、思えば、現在の大阪城(の石垣)は、豊臣の大坂城を徳川が埋めてその上に築いたことが知られている。(ブラタモリでは意外な事実のように言われていたが、今の大阪の人たちの間では、現在の石垣が徳川製だと比較的よく知られていますよね。)

そして今ではまだその実態を知る手がかりすら得られていない状況だと思うが、豊臣の大坂もまた、その前の石山本願寺を更地にしたあとに築かれたのだから、大阪のデベロッパーは何層にも、不都合なものを埋める作業を数百年にわたって続けているのかもしれない。

掘るところまでいかずとも、街の地形から歴史の手がかりを得るのがブラタモリのコンセプトだが、ひと頃流行った大阪学が、ブラタモリと連携できるような「高低差マニア」にシフトする分水嶺が中沢新一のアースダイバーだろうと思う。大阪は、掘れば色々なものが埋まっている土地らしい、そこに最近のトレンドがありそうだ、というわけである。

しかし、色々なものが埋まっているのは、過去の諸々を「埋めた者」がいるということ、一切合切を地中に埋めて、「なかったこと」にしなければ先に進めなかった事情が積み重なっている、ということでもある。

千葉雅也は、大阪を「闇鍋」的な街だと言うが、何が出てくるかわからないヤバさは、掘って出てきたものそれ自体がヤバいということもあるかもしれないが、それと同じかそれ以上に、「誰が何のために埋めたのか」という経緯の側に政治が露呈するからだろうと思う。

たとえば、真田丸の臆病で人情に厚いがやるときは徹底的にやる家康像、矮小な善人が一番恐い、というイメージは、徳川が豊臣の大坂の痕跡を全部埋めてしまったのは何故か、と推論した先に出てくるのだろう。掘って何かが出てくると、お江戸のセコさが露呈するわけだ。

(私は、天王寺のあべのハルカスが東京スカイツリーの向こうを張って高さを誇ったり、梅田のグランフロントが東京的な発想でビルをデザインして、東京系企業の出店を募っているのは、悪くない試みじゃないかと思っているのだが、そういうのに「下から目線」でツッコミを入れるのが「大阪的」だと相変わらず思われているようだ。例えば、内田とその信奉者である増田が、「グランフロントっていったい何語なんだよ、あったまワルい!」といつまでも言い続ける、とかね……。こういうのは、誰かが大阪の何かを埋めてしまおうとすることへの「反知性主義的」不信感なんでしょうね。)

でも、昭和の大阪の音楽を少しずつ掘り進みつつある過去数年の乏しい経験では、だったら、あっけらかんと、掘り出してしまえばいいと思う。

昨年の芸術祭の関東の音楽部門は柴田南雄コンサートが大賞を得たが、レコード部門では、武智鉄二のSPコレクションの復刻が大賞を受けた。

武智鉄二の「発掘」では、数年前に、東京の人たちが、実験工房と組んだ前衛演劇であるとか、60年代以後の(今となっては見るのがつらいディレッタント的な)前衛エロス映画であるとか、インテリ風ではあるがキッチュでもある戦後の取り組みの再評価を仕掛けた。明治学院の四方田犬彦がその旗振り役だった。

でも、武智鉄二には、その「前」があるわけですね。戦前から関西で伝統芸能のパトロン、評論家として活発に動いていたその痕跡がSPコレクションの復刻として「発掘」されたわけで、それは、思惑で動く「仕掛け人」たちの制御を突き抜けてしまう物件を掘り当てた事例と位置づけることができるように思う。

(武智鉄二のSPは早稲田の演劇博物館に寄贈されているそうだが、井野辺潔が在職した関係で大阪音楽大学音楽博物館が所蔵していた義太夫関係の貴重資料も、昨年、早稲田に移管されている。早稲田は、大阪を研究するときにも無視できない場所になりつつあるようですね。)

また、大阪ではなく関西(神戸)の事例だが、サントリーのサマーフェスティバルで、今年は片山杜秀が大澤壽人のオーケストラコンサートを企画しているようだ。

戦後、朝日放送を拠点に中間音楽に活路を見いだしつつあった大澤壽人は、関西の有望株だったはずだが1953年に急死して、これを好機と主導権を奪った朝比奈隆と関西交響楽協会グループの躍進によって、忘却の彼方へと埋められてしまったわけですね。

2000年代に大澤壽人の「発掘」が進んだわけだが、これは朝比奈隆が2001年に死んで、彼が埋めたものを掘り出すのが容易になったのと無関係ではないかもしれない。徳川が豊臣の城を埋めたように、壮年期の朝比奈は、大澤壽人を埋めて、なかったことにした形跡があるわけだ。朝比奈が大澤について生前ほとんどコメントを残さなかったことは、自らが世に出る前に死んだ貴志康一の顕彰活動に積極的だったのと比較すると、色々考えさせられる。

(今では、朝比奈隆自身についても、晩年にマネジメントがプッシュした「ブルックナー指揮者」としての活動だけでなく、1970年代以前のオペラ指揮者としての仕事ぶりが「発掘」されつつある。)

でも、たぶん、そこで話は終わらない。

大澤壽人は、パリでコンサートを成功させる等の実績をひっさげて華々しく帰国したので、おそらく帰国当時のイメージは「フランス帰り」だっただろうと思う。深井史郎の反感を買ってしまったのは、「フランス帰り」という宣伝文句が悪く作用したのだろう。東京で自作を披露すると、ラヴェルを愛する深井から「パリ帰りというけれど、大したことはない」と言われたりしたようだ。大澤が、その後、「神風」(←特攻隊ではなく朝日新聞の民間機です)といった国威発揚の時代を経て、戦後、ジャズと中間音楽に横滑りしたのは、「おフランス」路線がうまくいかなかったせいもあるんじゃないかという気がします。

要するに、「フランス派」としての大澤壽人は、深井史郎のような東京のフランス派との競争に敗れて、「埋められた」形跡があるわけです。大澤の戦後のいかにもGHQ占領下っぽい中間音楽路線を埋めたのは朝比奈だが(朝比奈は日本の再独立後にスタートした関西歌劇団の創作歌劇を「新しい国民演劇」とナショナリスティックに宣言していた)、大澤の戦前の阪神間山の手風の「おフランス」を埋めたのは(本来ならば協力してもよさそうな)東京の在野のライヴァルたちだと思われる。大澤壽人は、かように面倒な案件なわけである。

(それにしても、戦前の在野のフランス派から東京芸大の池内楽派を経て現在の大久保賢に至るまで、「おフランス」な日本人は、どうして、お互いに足を引っ張り合うのが好きなんですかね(笑)。)

一方、今度のサマーフェスティバルで「世界初演」と喧伝されている作品は、1933/34年にボストンで作曲されている。大澤壽人は、パリへ行く前にボストンに渡り、ボストン大学とニューイングランド音楽院で学んでいる。彼は、パリ帰りというより、ボストンで修行した「北米派」かもしれない。

(ニューイングランドは、音楽取調掛の伊沢修二らが「唱歌」の構想を学び、戦後はバーンスタインを頼って小澤征爾や大植英次や佐渡裕が渡った土地だ。大澤壽人(小澤征爾に先駆けてボストン交響楽団を指揮した記録が残っている)を両者の間に置くと、日本の「ニューイングランド楽派」を語ることだって、不可能ではないかもしれない。関学や神戸女学院をはじめとして、ニューイングランドから日本へ派遣された人たちが日本にキリスト教系の学校を設立した例もあり、大澤壽人は神戸のそういう風土のなかで育った人だ。これは、大澤壽人コレクション受け入れ当時の神戸女学院付属図書館長だった濱下昌宏先生の記者発表でのスピーチにヒントを得たアイデアですが。)

今回指揮する山田和樹が昨年、東京混声で取り上げたミサ曲もボストン時代の作品だったはず。

片山杜秀が2000年代に大澤壽人を発掘できたのは、彼が日本における在野のフランス派に詳しかったからですよね。そして片山の取り組みは大変な成果をあげたわけだが、大澤壽人に関しては、「フランス派」の色眼鏡を通したイメージが表に出てしまったきらいがある。

(片山杜秀の当時の論調には、今から振り返ると、上で述べた武智鉄二再評価における四方田犬彦に似た戦略が感じられる。四方田が武智の後半生に焦点を当てて彼を「前衛」と持ち上げたのに似た、いかにも90年代サブカル的でゼロ年代クラオタ的でもある「恣意的なアングル」(宣伝・煽り目的の)だと思う。)

今回、片山杜秀が山田和樹と組んで、北米ボストンの大澤壽人を発掘して「ひらく」のは、そうしたゼロ年代的な煽り・プロパガンダの焼き直し・二番煎じではないからこそ意味がある。たぶん、山田和樹のキャラクターが片山杜秀を新しい場所へひっぱっているのだろう。

あっけらかんと掘り進めるのが、いかに大切かということである。

先輩後輩関係とは何か?

学校とか会社とか、単一の組織の内部でその組織に所属した時期がいつなのか、ということに意味をもたせる場合があるのはもちろん承知しておりますが、複数の機能集団が織りなす社会関係は、そんな個々の組織の内輪の都合をリセットしたところで形成されるし、先輩後輩関係は、積極的に無視しないと、話が複雑すぎてやっていられるものではない。

……という理解で私は生きていますが、何か問題があるのだろうか?

中年から初老にさしかかる人たちが、先輩後輩関係を思い出せ、と言わんばかりの発言をしたり、かつての先輩後輩関係を懐かしがったりするのはどういう心理なのだろう。「社会」に疲れたということなのだろうか。

あるいは、暗黙の先輩後輩関係を維持して物事を切り盛りしていた世代が背の中から本格的に退場する巡り合わせになって、いままで「後輩」であることの恩恵を受けていた人たちが、それじゃあ今度はオレが「先輩」になる番だと思っていたら、そもそもそういう約束事自体が消失して慌てている、みたいなことなのだろうか。