2016-07-01から1ヶ月間の記事一覧

芸術という規範はポピュラー音楽を虐げてきたのか?

前の記事の続きです。90年代にポピュラー音楽研究の旗を掲げた人たちは、ちょうど60年代に民族音楽学を立ち上げた人たちがそうだったように、音楽研究は西洋芸術音楽のことしか眼中になく狭量である、門戸を開け、と、やたらに攻撃していたわけだが、学問の…

ロックと演劇:芸術雑誌のなかのロックンロール

芸術新潮は当初からミュージカル・コメディを演劇の枠で扱っている。オペラは音楽だが、ミュージカルは演劇、ということである。この島での慣習に従えば、まあ、そういうことになるでしょうか。そうして1973年には、劇団四季による「ロックオペラ イエス・キ…

オペラ演出の1973年世代:芸術新潮で三谷礼二を推したのは誰なのでしょう?

芸術新潮1974年7月号の短信欄に、三谷礼二の演出による関西歌劇団「蝶々夫人」の評が写真入りで出ている。関西歌劇団の歩みのなかでの三谷礼二の取り組みの意味、東京公演が松竹との確執の煽りで実現しなかった1954年の武智鉄二演出との関係など、押尾さんが…

ベートーヴェンと石田純一

前の記事の補足だが、ベートーヴェンがナポレオンに交響曲を献呈する計画を立てて、あとでそれを撤回したのは、「音楽による政治」というようなことではないと思う。実際にそれをやったらどうなるか、可能性をおそらく具体的に水面下で探っていたのだろうけ…

音楽のTPOと政治談義のTPO

増田は、いつどこでどういう音・音楽を鳴らすかということは常に潜在的・顕在的に政治的であり得る、というTPOの話をして、辻田は、今では政治的背景に思いを馳せることなく享受されている音・音楽のコンテンツが成立時には特定の政治的文脈に置かれていた、…

古代史ブームと芸術新潮

1973年の芸術新潮は、判型とページ数は従来とほぼ同じだが、写真がきれいに印刷できるツルツルの紙に変わって、分厚く重たい雑誌になる。そして巻頭グラビアは、古代史ブームの立役者、邪馬台国の松本清張と騎馬民族征服王朝説の江上波夫の対談で、天皇陵を…

後始末

吉田秀和が20世紀音楽研究所の所長という肩書きで現代音楽祭をやった、とか、『音楽紀行』で1953/54年当時の欧米の現代音楽事情が詳細にレポートされている、とか、というのは、1960年代に生まれた私たちにとってはもはや伝説のようなもので、物心ついた1970…

過保護

SEALDsの人や津田大介は、「ネット上の批判」なるものなどどこ吹く風で、イベントに出演する意志を変えた形跡はないわけだから、これは「ネット上」の言論が「ネット外」に影響を及ぼしそうにないケースなわけで、「音楽と政治」なる議論は、出火していない…

ジャポニズム立国の可能性と限界

美術のジャポニズムからアニメのクール・ジャパンまで、視覚表象におけるエキゾティックな差異をナショナル・アイデンティティに変換するのが「ニッポン」の近代のお家芸なわけだが、これは「想像の共同体」という、言論の動員力に着目した新左翼(←今ではオ…

全称命題の怪

すべての、というのは、アイデンティティポリティクスを拡大解釈しすぎだろう。Aは〜である、と断定する行為はすべて政治である、ということになって、もはや命題が機能しない。そうやって目眩しで相手を呆れさせてその隙に、というのは、いつもの内田派の流…

イベント駆動の現状

現行のコンピュータのプログラミングは、外部からの入力・出力が独特の設計になっていて、数学的に閉じたアルゴリズムとして記述することができない。たぶんこれは、ゲームの「開始」と「終了」が、出入力という形で、ゲームに常時埋め込まれている、という…

フィクションの読み方

その広告を作ったのは広告代理店なのだから、さしあたり、追い込まれているのは「文学」ではなく、文学の広告を受注して文言をひねり出さねばならない羽目に陥った広告代理店である、と見るのが自然だろう。テクストを読むことで得られる表象が、その表象に…

それは「芸術の祭典」ではない

芸術新潮は1970年の大阪万博期間中にどういう誌面を作ったのか、興味津々で読み進めたのだが、案外、拍子抜けの印象だった。1968~69年の段階では、どうなることかと緊張している感じに、かなり大きな事前特集が複数回組まれたのだが、蓋を開けてみれば、我々…

小言を言う音楽評論家

吉田秀和が「日本人音楽家の運命」(タイトルを間違えて覚えていたので、過去の記事に遡ってすべて直した)を芸術新潮に連載したのは1965年、東京オリンピックの翌年だったんだな、ということを改めて考える。友人の柴田南雄や小倉朗に煽られるようにバルト…

カプースチン

というウクライナ出身でモスクワ在住のジャズ・ピアニストの作品を最近続けて何度か聴く機会があった。ウクライナ出身でモスクワ在住で、なおかつジャズ・ピアニスト、というのが、いったいどういうことなのか興味をそそられる人生だが、色々腑に落ちないと…

言論の設計とサイバー国学

最初にとりあえずの不用意な発言がなされて、周囲が無風であればそれがそのまままかり通り、周囲に波風が立ったときには、改めて周到に準備した鉄壁の発言を出し直す。SNSベースの情報の流通では、しばしばそういうことが起きて、そうすると、実は最初の発言…

Stadtmusikdirektor

吉田秀和が1965年に「日本の音楽家」を論じたときに、指揮者としての森正は京響の常任指揮者で「国内のオーケストラを誰よりもたくさん振っている男」という位置づけだった。また、日本のオペラに関して、二期会の歌手たちはドイツの地方劇場のアンサンブル…

読者論と観客論とゲーマー論

昼間の授業のあとで、受容美学といっても、ドラマの観客論は小説の読者論とは重ならないところが残るんじゃないかなあ、と考えていたのだが、「immersive なゲーム」という風に液体状の語彙で語られる現象は、なるほど、どちらとも違っているかもしれない。…

液状のメタファー

immerse は、要するに「浸る」という意味なんですね。動詞で言うと、merge(コンピュータで言うマージ)は液状の存在に飲み込まれてしまうイメージで、emerge (出現)は immerge (沈む)の反対語だから、液状の存在から抜け出ることなのだろうと思う。なん…

軽演劇と世紀末:吉田秀和の浅草オペラ評

吉田秀和は「日本人音楽家の運命」で浅草オペラの思い出とセノオ楽譜の竹久夢二の挿絵を関連づけて、大正期の装飾的な軽さをユーントシュティルと同時代の現象と捉える可能性を示唆している。シミキンは単なる軽薄ではないんじゃないか、と。世紀末のモデル…

人生の選択

私は私自身の人生の選択として、吉田秀和を1965年の「日本人音楽家の運命」というテクストを起点に読み直すことに決めたわけだが、それは、三谷幸喜をファンとして見続ける、「真田丸」は全部観る、と決めるのとは、ちょっと意味が違う気がしている。吉田秀…

いわゆる性善説と「読まない」理由

学問は性善説だと言われるが、それはつまり、あるテクストや対象に取り組むことについてはほぼ無際限に自由である一方で、あるテクストや対象に取り組まないこと、あるテクストや対象を排除したり抑圧したりすることを正当化できないシステムだからなのでは…

「作者の意図」の彼岸

2016年にもなって、「作者の意図」を詮索することを研究目的に掲げている芸術学者はまともじゃなかろう(笑)。しかしながら、まともな芸術学者であれば、実作者の伝記や日記が「作者の意図」の詮索とは別の用途で実に有用であることを思い知っているはずだ…

助左!

蘇ってしまったとあっては、心穏やかではいられない。(外出からようやく戻ったので、これから録画をみる。)[追記]みた! 輝く太陽!! 池辺晋一郎の音楽が聞こえてくるような! (かつてのような海に沈む落日ではなかったけれど。)[追記2]それにしても、…

吉田秀和「日本人音楽家の運命」から半世紀

たぶん全集未収録だと思うのだが、まさに彼がこのように書いた1960年代に生まれた私たちは、その後の人生を精一杯に生きた証しとして、彼が提起した様々な問題を私たちがどのように解きほぐしたか、あるいは、解きほぐそうと努めたか、きちんと書いてから死…

忘るまじ

あれから2年の歳月が過ぎたわけだが、私は「あの男」への憤りを片時も忘れたことはない。昨年に続いて、今年も授業でコンヴィチュニーの椿姫を取り上げる予定である。Verdi: La Traviata (Arthaus: 101587) [DVD] [2011] [NTSC] by Marlis Petersen発売日: …

そのデータベースの作者は誰か

既存のデータベースに自分の名前をせっせと登録するだけの簡単なお仕事に人生を捧げるわけやね。他人の名前がそのデータベースから漏れていることに気がついたら、ついでに登録してあげればいいのに。翻訳しないまでも、そういう書物があるよ、と参照するく…

オルフェオ日本初演

この話の続きです。東京1964年の「日本代表」意識 - 仕事の日記1965年の第8回大阪国際フェスティバルでオルフェオとドン・パスクワーレを上演したミラノ室内歌劇団というのが、どういう団体なのかよくわからなかったのだが、Opera da camera di Milano とい…

排気塔とコントロールパネル

東京オリンピック(いちおう芸術展示もあったことになっている)に直接的には反応しなかった芸術新潮だが、1968年から大阪万博関連の記事が出始める。グラビアで太陽の塔の岡本太郎や会場の設計や美術展示を特集するなど、大阪万博は建築・デザインのイベン…

ゾロアスターたち

前のエントリーは、熱力学からエネルギーという熱い比喩を取り出す人たちと、エントロピーという冷たいクールな比喩を取り出す人たちがいて、実は同じ土俵に乗っているのではないか、ということだと気がついた。=20世紀の人文の構造