「憂鬱と官能を教えた学校」(4)

これは、この本というより、たぶんバークリー理論の弱点なのだろうと思いますが、モードの問題に、和声の側からアプローチするのは、やや無理がある気がしました。

ポピュラー音楽理論の現状がそうなっている、というのは理解できるし、現状の理論の危うさを含めて、モードの話、相変わらず、上手に説明しているなあとは思いました。

でも、やはり、モードは、本来、教会旋法にせよ、民族音楽に由来するものにせよ、ハーモニーというより、メロディの力学だと思うのです。

この本には、ハーモニーの章とリズムの章はあるけれど、メロディの章はないのですよね。(おそらく、もともとのバークリー理論にそういう項目がないのだと想像しますが、違うのかな。)

リズムやハーモニーを体系化することで、逆に、体系化できないもの(インスピレーション?)としてのメロディを特権化するというのが、近代の音楽理論の基本構図。

メロディは、音楽における近代の最後の牙城のような気がします。

ドイツの器楽は、メロディを、モチーフとその発展という理性の表現だと考えたし、オペラや歌の場合は、メロディが感情の発露ということになるのでしょうか。

どちらにしても、メロディは、音楽における「自我」の問題。

民族音楽学が近代音楽批判だった時代に、様々な旋律分析の理論が考案されたり、ポピュラー音楽にモードが導入されりというのも、「近代的自我」の超克とか、「私探し」のブラックホールをのぞき込むような一面があったように思います。

もしも、音楽における近代批判という作業をやるのだとしたら、メロディを、リズムやハーモニーと同じように突き放して眺める行程が必要でしょうし、

せっかくここまでやったのだから、鮮やかに突き抜けたメロディの理論を読みたかったかも。