トランスミュージック2007 江村哲二×茂木健一郎(の批評)

5/26(いずみホール)の「トランスミュージック2007」江村哲二×茂木健一郎について批評を書きまして、本日の日経新聞夕刊(大阪本社版)に掲載の予定です。

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日経夕刊をご購読でない方も、よろしければキオスク等でご覧いただければ、と思います。

ちょうど今夜は、大フィル60周年記念の大植英次指揮ベートーヴェン・チクルスの初日(交響曲1〜3番)ですし、駅で夕刊を買ってシンフォニーホールへの道すがらにお読みいただくということで、いかがでしょうか?

(この項目、たぶん、あとでもう少し書き足します。)

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(……ということで、大フィルの演奏会から帰宅しました。今夜の大植英次さんのユニークなベートーヴェン演奏のことを書いてしまいたいところですが、それは別の機会ということで、このエントリーでは、以下引き続き「トランスミュージック2007」について書きます。)

この演奏会(トランスミュージック2007)を聞く前から、茂木健一郎流の「クオリア」論には色々疑問があって、演奏会を聞いたあともほとんどその考えは変わっていません。

ただ、そうした哲学的な議論は演奏評の範囲を超えてしまうので、今度の批評では一切言及していません。

「音楽(芸術)がロジックや言語で捉えがたい性質を備えている」というのは、昔から繰り返し論じられてきた話題です。

茂木さんは、演奏会の対談で「音楽はクオリアなんです」的な発言をしていましたが、これも、そうした音楽(芸術)の非言語的性質に関わるものでしょう。そして作曲家の江村さんは、「クオリア」概念がそうした音楽(芸術)の非言語的な側面を考える有力な糸口になると信じているようです。

でも、私は、率直に言うと、このようなお二人の「共感」がひょっとすると誤解や幻影かもしれない、と思っています。茂木さんの「クオリア」概念は、どうやら概念の由来である分析哲学での文脈を越えて、かなり危ういやり方で拡張されてしまっているようですし、音楽の非言語的性質についての江村さんの考え方は、決して不誠実ではないけれど、見極めが甘いように私には思えます。

で、このあたりのこともそれなりに興味深い話題ではありますし、あれこれ調べ・考えはしたのですが、とても簡潔に話が収まることではなさそうなので、今回は今後の宿題ということでペンディングにして、批評では一切言及しないことにしました。

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それから、江村さんは最近、武満徹に強い関心を持っていらっしゃるようです。昨年は「地平線のクオリア」という作品を発表していらっしゃって、今回の演奏会も、最初の曲目が武満の「ノスタルジア」。新作「可能無限への頌詩」にもタケミツ・トーンを思わせるところがありました。どうやら、江村さんの中では、茂木さんの「クオリア」概念への思い入れと、武満徹への傾倒が結びついていて、粗雑にまとめてしまうと、「武満徹=クオリア」と思っていらしゃるみたいなんですね。

でも、これは批評の中にも書きましたが、演奏会を聞いて、二村さんはもともと武満徹とは違う資質の音楽家なんじゃないか、という印象を受けました。そして、それじゃあ、茂木流の「クオリア」概念とか、武満徹への思い入れとかいう私自身があまり共感できなかった部分を脇へ置いたときに、江村さんの音楽をどういう風に聞くことができるか、今回の批評はそこを中心に書かせていただきました。

私の批評には、かなり唐突に、ある有名曲の話が出てきます。^^;;

茂木さんは、この演奏会に関連して色々な作曲家の名前に言及しています。共著「音楽を<考える>」などではモーツァルトが話題になっていますし、事前の記者会見では、「春の祭典」のように衝撃的な初演になればと抱負を語ったそうです。演奏会内の対談では、音楽家と哲学者が切り結んだ例として、ワーグナーvsニーチェの話が出ました。

でも、実際にできあがったものを聞いてみると、サウンドは全然違うのですが、ストラヴィンスキーでもモーツァルトでもワーグナーでもなく、<あの曲>に似ている、と私は思ってしまったのです。

「可能無限への頌歌」の序奏がはじまって、茂木さんが舞台上で第一声を発した瞬間に、「ああ、これは、<あの曲>でバス独唱が歌い出すところみたいだな」と思いました。そうすると、その後も、カオスの中から新しいモチーフが生成してきたり、音楽のスタイルは全然違うけれど、まるで<あの曲>のように状況が進展していったので、ああ、そういうことか、と思いました。

仮に、哲学と切り結んだ音楽の系譜というものを考えるとしたら、たぶん、カントの友人でもあった思想家・文学者の詩に作曲した<あの曲>がその源流だろうと思います。

音で哲学に応じようとした時に、意図せずにその種の音楽の原点へ戻ってしまったところが、作曲家としての江村さんのある種の誠実さ、真面目さ、と見ていいんじゃないか。そしてそういうことをやろうとしている時点で、もう、江村さんは武満徹とは全然違う方向へ向かっているのだから、武満徹と関係なく、そして、「武満徹はクオリアなのか」なんていう議論はひとまず置いておいて、ご自身の道を遠慮なく進むのがいいんじゃないのかな、と私は思いました。

はたしてご本人がこういうかなり乱暴な見方に納得されるかどうか、まったくわかりませんが、とりあえず、客席で聞いていて私が思ったのはそういうことです。

「クオリア」と「武満徹」は、それぞれ大事なことではあるかもしれないけれど、作曲家としての二村さんがそこまで加担する話なのか、いまいち納得できませんでした。