西村朗の大阪、朝比奈隆の大阪、いずみシンフォニエッタ大阪第19回定期演奏会

一ヶ月前(7/3)の演奏会のことになってしますが……、この演奏会は、前半(アダムス「室内交響曲」、ヒンデミット「木管、 ハープと管弦楽のための協奏曲」)が今ひとつで(指揮者の責任ではないか?)、後半は、オリジナル編成の伊福部昭「土俗的三連画」を西洋風の「強弱アクセント」で、まるで1920年代の新古典主義のようなスタイルで演奏したのが新鮮だったです(これはコンサートマスターを受け持った高木和弘のアイデア?)。

そしてここでは、もう一曲の西村朗「室内交響曲第2番〈コンチェルタンテ〉」(再演)の話。
西村朗の3つの室内交響曲はいずれも、いずみシンフォニエッタ大阪の委嘱作品で既にCD化されています。

西村朗:メタモルフォーシスー西

西村朗:メタモルフォーシスー西

  • アーティスト: 飯森範親,西村朗,いずみシンフォニエッタ大阪
  • 出版社/メーカー: (株)カメラータ・トウキョウ
  • 発売日: 2005/08/20
  • メディア: CD
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初演のときも聴いているはずなのですが、今回の再演はかなり印象が違いました。曲を改訂しているわけではないそうなので、演奏のせいなのか、聴いているこちら側がこの数年間で変わったのか、よくわかりません。ともあれ、とても面白く聴きました。

西村朗作品については、片山杜秀さんが「音盤考現学」で90年代の作品を「オウム真理教時代の音楽」という切り口で取り上げていて、「音盤博物誌」では、最近のCDをもとに、岡倉天心を紹介しつつ、日本の音楽の「ズルズルベッタリ」をインド/アジアで理論武装するだけで本当にいいのだろうか、という趣旨の議論が展開されています。

片山杜秀の本(1)音盤考現学 (片山杜秀の本 1)

片山杜秀の本(1)音盤考現学 (片山杜秀の本 1)

片山杜秀の本(2) 音盤博物誌

片山杜秀の本(2) 音盤博物誌

私が室内交響曲の再演を聞きながら連想したのは、「ユリイカ」のスピルバーグ特集の蓮實重彦×黒沢清対談で話題になっていた「黒いスピルバーグ」のこと。(Flower Wildのインディ・ジョーンズ評(http://www.flowerwild.net/2008/07/2008-07-18_171831.php)でも、ヤヌス・カミンスキーのキャメラの「黒さ」が最後にちょっとだけ話題になっていますね。あのキノコ雲と絡めて、「黒さ/白さ」の系が「見る/見ない」の系と組み合わされる読み。)

真っ暗ななかで空から何かが降ってきて、地上をのたうちまわっているような音楽という気がして、そこから「宇宙戦争」のひたすら逃げ回るトム・クルーズみたいな光景を連想しました。

宇宙戦争 [DVD]

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その後、別のことを調べていて、橋本寛之「都市大阪 文学の風景」という本を読みまして、大阪城の東側、いずみホールがあるビジネス街から大阪城公園までの広大な一帯が、かつて陸軍の砲兵工廠だったことを知りました。

都市大阪 文学の風景

都市大阪 文学の風景

終戦まで、大阪城の東側、大阪駅から数分の都心のど真ん中に一般人が立ち入ることのできない「オフ・リミット」の区域があって、空襲ですべて破壊されたので、その実態が不明なまま、がれきの山をすすきが覆い尽くす廃墟だけが残って、昭和30年頃には、近隣にここの鉄くずを掘り出す人たちの貧民街ができて、それを描いたのが開高健「日本三文オペラ」や小松左京「日本アパッチ族」。

日本三文オペラ (新潮文庫)

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あたり一帯が公園として整備されたのはそのあと。ウィキペディアでは、大阪城公園の完成式が1970年となっているので、大阪万博にあわせて、大急ぎで「オフ・リミット」の記憶を消してしまったということでしょうか。

西村さんは1953(昭和28)年生まれで、自宅から1キロくらいのところの砲兵工廠跡地は、「(危ないから)行ってはいけない場所」だったようです。

子供の頃、危険な「アパッチ族」の廃墟だった場所が、今ではモダンなビジネス・パークになって、そこの音楽ホールから委嘱されたのが西村朗の室内交響曲。暗闇で何かがうごめく感じとか、鉄さびの臭いがしそうなメタリックな音は、そういう土地の記憶と無関係ではないのだろうな、と思いました。

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橋本寛之「都市大阪 文学の風景」という本は、城東の砲兵工廠の話だけではなく、昭和以前=関市長の御堂筋&幹線地下鉄建設以前の、大阪「旧市街」の風景を丹念に掘り起こしていて、とても刺激的な本でした。

今では、キタの大阪駅(梅田)からミナミ(難波)を経て天王寺へ至る南北の軸(御堂筋)が大阪の「背骨」とイメージされていて、地図は北が上、南を下に描かれますが、江戸時代の地図は、90度ズラして、街の東にある大阪城が上、大阪湾が下に描かれていたそうです。街の北(地図上の左)の外れが色街のあった曾根崎で、南(地図上の右)の外れは、刑場のあった千日前。明治以後に鉄道駅が作られた梅田(大阪駅)や天王寺は、街の外れだったのですね。

(鉄道に見る大阪の「官=中央集権」と「民」の興亡史は、原武史「「帝都」東京vs「民都」大阪」という本もありますね。)

「民都」大阪対「帝都」東京 (講談社選書メチエ)

「民都」大阪対「帝都」東京 (講談社選書メチエ)

例えば、朝比奈隆や大フィルの活動範囲をそういう「旧市街」の版図と照合すると、色々なことが言えそうな気がします。

戦前、朝比奈隆がヴァイオリンを弾いたり、戦争中に指揮をしていた大阪放送局(JOBK)は大阪城の西側。砲兵工廠のある城東がお城の「裏側」なのに対して、こちらはお城の「表側」です。そして戦後、関響が最初の演奏会を開いた朝日会館(今の朝日新聞社屋の隣りにあった)やフェスティバルホール、サンケイホール(産経会館)は、旧市街に接した場所なのですね。

(朝比奈隆が教えに行ったことのある大阪音楽学校(大阪音大、現在は豊中市庄内)も、最初は南船場、心斎橋からすぐ近くの塩町通りにあったそうです。これも旧市街地のど真ん中。その後、大正末に味原、現在の高津高校に隣接する場所に移ったそうですが……。朝比奈隆がヴァイオリンを教えたというのは味原時代ですね。)

1980年代、福島(大阪の旧市街から西に外れている)のザ・シンフォニーホールができたあとも、大フィルの定期演奏会はフェスティバルホールから移動しませんでしたし、朝比奈さんは、城東のいずみホールで演奏するのをあまり好まなかったとも聞いています。

朝比奈さんの演奏スタイルは小さなホールには向かないとか、現実的な理由も色々あったのだろうとは思いますが、結果的に、朝比奈さんは大フィルを「旧市街」に留めようとした人だった気がします。

今では大フィルもシンフォニーホールで定期演奏会をやっていますし、そういう風に大フィルが「旧市街」の外に出てから音楽監督に就任したのが大植英次さん。でも、大植さんは御堂筋の「大阪クラシック」や、大阪城公園の「星空コンサート」を企画したわけで、これは、大フィルが「旧市街」との結びつきを取り戻す試みのようにも見えますね。

そういう風に考えていくと、音楽ホールは、「音響」だけで云々してはいけないものなのかもしれません。土地の記憶は重要。