「花形座長・朝比奈隆」生誕百年

今日は、指揮者、朝比奈隆百回目の誕生日にあたる日なのだそうで、出かける前であまりはないのですが少しだけ。
岩野裕一さんがこれまでに朝比奈隆について書かれた文章をまとめた本が出ましたが、そこには、編集の仕事で晩年の朝比奈さんに出会ったこと、仕事の都合を付けて東京から大阪フェスティバルホールへ駆けつけておられたことなどが綴られておりました。

朝比奈隆 すべては「交響楽」のために DVD付

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それを読んで私が思ったのは、おそらく岩野さん(1964年生まれなので私の一歳上なのですね)にとって、朝比奈さん(1908年生まれ)が「おじいちゃん」のような存在だったのかな、ということでした。

そういえば、片山杜秀さん(1963年生まれなのでさらに一歳年上)の「音盤博物誌」には、伊福部昭氏(1914年生まれ)への「極私的追悼」の文章が収録されていて、晩年の伊福部さんと片山さんの関係にも似たところがあったのかな、と思ったりしています。(「音盤博物誌」には、その片山・岩野対談が袋とじでついていますね。)

片山杜秀の本(2) 音盤博物誌

片山杜秀の本(2) 音盤博物誌

1990年代の朝比奈フィーバーや伊福部ブームを、半分仕掛けに参加しつつ、ご本人の近くで、ただの仕事上の関係ではない「おじいちゃん子」として見守っていたのが、このお二人だったのかな、と。もちろん私は、東京の具体的な事情を全く知りませんから、本を読んで想像しているに過ぎませんが……。

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私は、このところ1950年代の大栗裕や関西の創作オペラのことを個人的な興味からあれこれ調べておりまして、その頃の、まだ40代だった朝比奈さんの書いた文章や雑誌掲載写真を見る機会が増えています。「おじいちゃん」(ご存命ならば今日で百歳になるはずの)としての朝比奈さんではなくて、朝比奈さんが50年以上前に、今の自分や岩野さん、片山さんとそれほど違わない年齢だった頃(ということは、今の大植英次さんよりも若い頃!)どんな風だったのか、というのをあれこれ想像してしまうのです。

色々な証言を照合すると、どうやら、若い頃の朝比奈さんは、端的に「いい男」だったようです。西洋人に見劣りしない体格で、俳優のようにハンサムだったそうで、若くして上海のオーケストラに呼ばれたのは、そういう「第一印象の良さ」も理由のひとつだったと考えてよさそうです。(指揮台上でヴァイオリンの方を向いたときにチラリとのぞく横顔が、客席のご婦人方にとっては朝比奈コンサートの魅力のひとつであったとも……。)

「音楽とは別のところで成功して不純だ」と言いたいわけではなくて、普通あまり正面切って話題にされることは少ないですけれど、指揮者には、やっぱりステージの中央で脚光を浴びる「役者」の側面がある(あった)、そういうものなんだな(だったんだな)と、「いい男・朝比奈」証言を読んで、改めて思うのです。

戦後の大阪には、「朝比奈が帰ってくればなんとかなる」という空気があった、という証言もあって、それも、朝比奈さんに、人々の注目を集める「スター性」があったと考えるとうまく説明がつきそうだなあ、と思ってしまいます。

もちろん、音楽家として人を納得させるだけのことをしたというのは前提ですけれど、ですから、朝比奈さんのオーケストラというのは、朝比奈隆という「スター」が同時に「座長」であるような形。かつて歌舞伎が藤十郎や団十郎の一座として興行していたり、戦後の文学座といえば杉村春子で、松竹新喜劇といえば藤山寛美だったり、本当にそういうものだったのだな、と改めて思ったわけです。

物心ついたころから既に「おじいちゃん」だった人がずっと同じオーケストラを主宰しているのは何故なのか、きっと何か過去に立派なことをしたのだろうけれどそれが具体的に何なのか、ベートーヴェンやブルックナーの「音」を聴くだけでは私にはよくわからなかったのですが、こういう説明の仕方もあるのではないか、と。

そんなことを考えながら、今夜は「二代目・音楽監督」大植英次さんの指揮でブルックナーですね。