音質至上主義のマーラー(大阪フィルハーモニー交響楽団第425回定期演奏会)、追記でマーラー・ブームと往年の「第九」ブームの似ているところ

日経新聞大阪版に演奏評を書くことになっているので、演奏そのものについて細かく書きませんが、東京公演や大阪の2日間の定期演奏会で、せっかく会場へ足を運んで、客席に座っていらっしゃったのに、何を聴けばいいのかわからないまま時間だけが過ぎていった、という不幸な体験をなさった方もいらっしゃったようですが、少なくともわたくしは、大変面白く聴かせていただきました。

映画の世界では、ストーリーを追いかけるだけが映画ではない、ということが映画ファンの間では一定の了解事項になっているように思います。しかも日本は、「小津安二郎をストーリーで観てはいけない」ということだけを言い続けてきた人が東大総長に就任してしまったりしたのですから、「映画はストーリーではない」という考え方には、文部科学省もお墨付きを与えていると言えるかも。ストーリーではないものを観るのが、「キャラ」に「萌える」われらがジャパニメーションの国の映像美学なのでしょう。(蓮實重彦が「キャラ萌え」している、という意味ではありませんが……。)

小津安二郎物語 (リュミエール叢書)

小津安二郎物語 (リュミエール叢書)

音楽も、「こんなメロディーが出てきて、次はああなってこうなって……」という段取りを追いかけるだけではつまらないし(それでは、どんなに波瀾万丈でも決まったレールの上から脱線しないジェットコースターと同じ)、例えば、すべての公演を45分で区切って、退屈する前にどんどん目先を変えてしまおうとする「熱狂の日」というイベントには(大植さんの「遅くて長い」マーラーとは正反対に「手軽」で「短い」わけですが)、音楽をストーリーで聴かない(聴かせない)ための仕掛けという側面があるのだろうと思います。(東京国際フォーラムという場所で、ああいう条件で45分ずつ演奏しろ、と言われて、音楽家が、段取り以外の有意義な何かを存分に発揮できるかどうか、というのは別に考えないといけないことだとは思いますが……。45分経てば必ず終わる、という新たな「段取り」がルーティン化してしまう懸念あり。)

それから、20世紀には、刺激的なリズムに同調して「ノリノリ」になることを狙った音楽がたくさんあって、クラシック音楽も「新即物主義」という名前でそういう感覚に接近したりしましたが(いわゆる「古楽」のなかにもまだその感覚が残っていて、何でもノリノリにするノリントンは「新即物主義」の密輸入ではないかという気がする……)、例えば、グレゴリオ聖歌にイン・テンポという概念はありえないのですから、バロック以前の教会音楽に由来するジャンルは、本質的に「即物」が不可能な領域だと私は思います。

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さて、そして大植さんの今回のマーラー5番は、多くの方の想定速度・想定演奏時間に収まらなくて、いわば、「熱狂の日」の対極のような演奏という位置づけで話題になっているらしいのですが、

  • (1) 音の「表情」は、音の「質感」によってもたらされる。(クレッシェンド=感情の高まりetc.といった紋切り型でなく)
  • (2) でも、ある音が特定の「質感」を生み出すためには、それにふさわしい速度と奏法を確定しなければならない。(同じ楽器の同じ音高でも、音の立ち上げ方、収め方、速度の違いなどによって、会場での広がり方や他の音との混ざり方が変わる。)だから緻密な設計が必要。
  • (3) そしてこのようにして、「質感」最優先で各部分の速度、奏法を決めていけば、マーラーのように細かく表情・効果が変化する音楽では、グロテスクにテンポが歪み、揺れ動かざるを得ない。

……堅苦しくまとめればおよそこんな感じで、今回の演奏が組み立てられていたのではないかと思いました。「次がどうなるか」を先読みする(=「ストーリー」を追いかけるということ)のではなくて、「今どんな音が鳴っているか」にフォーカスして聴けば(「終電は何時だから、そこから逆算すると、ここを何時で出なくては……」とかいうことはひとまず忘れて)、びっくりするようなスゴイ音の連続だったし、逆説的なことですが、「この音のあとに、あんな音が続くのか!」と退屈することなく音質の移ろいを楽しませてくれる、少なくとも私にとってはそういう演奏会でした。

大植さんは、びっくりするくらい体型が日々変化していて(←この件はやや心配)、演奏のほうも(ベートーヴェン・シリーズが終わったくらいからでしょうか)毎回どんどん変貌していますが、変化していく様子が面白いし、どんどんやればいいと思っています。(今回の演奏に至る「芽」は、今から振り返ると、大フィル就任時の「復活」のレントラーの表情づけへのマニアックなこだわりにまで遡ることができそうで、昨日今日にはじまったことではないとも思いますし。)

[追記]それにしても、長い/遅いのマーラーは、実際の演奏を聴いていない方を含めて、多くの人が何かを言いたい現象になっている雰囲気ですね。もともとマーラーの交響曲はゴテゴテした変わり種の異端の音楽と見られていたはずなのですが、今では、バッハやベートーヴェンについて教養主義的に語るのであればともかく、マーラーについて「かくあるべし」と多くの人が一家言あるようで、「古典」に昇格したということなのでしょうか。ウィーンで保守派との確執に神経をすり減らした革新派宮廷歌劇場指揮者マーラーもあの世で驚いていることでしょう。窮屈な世の中になったものです……。

[追記2]重ねて過去に遡って考えてみると、マーラーのヘンテコ(であることは分析的に論証できるはず)な交響曲(慣習的なやり方で演奏したとしても1時間を超えるほど長い!)に関して、どこかに、ストレスなくこれを楽しめる「標準型」というものが存在して、そのような(どこかにあると曖昧に想定される)「標準的なマーラー」をゆったり楽しむことこそがイケてるクラシック・ファンである、というような風潮が曖昧に広がったのがボタンの掛け違いだったのではないか、と思ったりもします。「あんな“変な”マーラーを聴かせるな、金返せ」という怒りは、もしそのように感じた方がいらっしゃったとしたら、そのお怒りは、おそらく今回の演奏者に対してではなくて、「マーラーの奇妙な音楽をクラシック音楽の基本だと私たちに思いこませたのはどこのどいつだ」というところへ向かうのが筋ではないかと思ったりします。

そういう意味で、なかなか沈静化しない「奇妙なマーラー・ブーム」(という題名の30年くらい前のドイツ語論文が実在します)は、昭和末期の「第九」ブームに似ているのかもしれません。突如として独唱・合唱が乱入してアナーキズム革命を礼讃する「第九」という曲は、おそらく老年特有の恐いモノ知らずの自由闊達(養老孟司先生が謳歌していらっしゃるような)の産物で、年中行事の風物詩として楽しむような音楽では多分ないのだけれど、いろいろな要因の絡み合いで、ある時期の日本で市民運動的なブームになった。「奇妙なマーラー・ブーム」は、それを引き継いでいるようなところがあるのかもしれません。

マーラーには、多少おかしなことが起きても驚かないタフな人しか近づかない、という処遇が丁度良いのではないでしょうか。「第九の夕べ」は絶対にやりたくない、と言い張っていた大植さんがマーラーのヘンテコな音楽を見事にヘンテコに演奏したのは、そう考えると実に筋の通ったことなのかもしれません。

年末に何度でも平然と「第九」を指揮した怪物指揮者、朝比奈隆さん(当時の写真で、中之島公会堂で四方を埋める合唱団の皆さんに囲まれて朝比奈さんが総稽古しているのを見ると、何かもの凄いことがあの頃起きていたのだなと思います)の次に、奇怪なマーラーを作り出す大植英次さんの登場。新たな大阪名物の誕生を歓迎する立場があってもいいんじゃないか、という気がします。