なにわのストコフスキー(大植英次・大フィル京都公演)

この団体、企画だけは毎回外せない。良い悪い、好き嫌いの論評はともかく、事前に予想のつかないことがしばしば起きるから、とりあえず行って聴いてみないことには話がはじまらない。そういう音楽会というのは、実際にはそれほどたくさんあるわけではないですが、でも、いくつかは存在する……と思っています。

例えばひとつは、先日打楽器の中村功さんをゲストに迎えてカーゲルを特集したネクスト・マッシュルーム・プロモーション(http://homepage2.nifty.com/kinoko2001/)。いわゆる「現代音楽」をこんな風に面白く演出してくれるグループは、少なくとも関西には今のところ他にない。

大植・大フィルの場合も、最初の頃から考えるとどんどんスタイルが変わっているので、今のやり方がいつまで続くのかわかりませんが、しばらくは、毎回なにが起きるか、行って確かめないと仕方がなさそうです。

今日の京都公演は、チャイコフスキーの第5交響曲をここまでデフォルメするか、という演奏。「この部分は管楽器の三連符と弦楽器の八分音符のズレをスローモーションではっきりさせる」「ここは金管が輝かしく鳴る場面だけれど、弦楽器のメロディーは、旗がなびくようにくっきりはっきり聞こえるべき」等々のミッションをひとつずつ遂行する演奏。

解釈のベースが人間不信的というか、前後の見境ない細部へのこだわりが「五十男の思春期」(年甲斐もなくウジウジ)という感じではありますが、やると決めたらどんなデフォルメでもやり遂げてしまうところが、ストコフスキーにちょっと似ているかもしれません。

実を言うと、今年のエイプリル・フールのネタとして、「大植英次、極秘入籍!?」(←もちろん根も葉もないホラ話です、念のため)というのをここに書こうかと思っていたのですが……(時間がなくて断念)、

指揮者が日々ひとりでスコアを勉強していると、2月のマーラーや今回のチャイコフスキーのような奇怪な音像がどんどん膨らんでいくのでしょうか。なんだかものすごいことになっています。

「普通にやれ!」と言うのは簡単ですが、収支決算はあとにして、どこまで行くのか/行けるのか、しばらく見守りたい気がします。