「思想地図」VOL.3&原武史「滝山コミューン1974」

「思想地図」VOL.3という本の巻頭に磯崎新、浅田彰、宮台真司、東浩紀、あと「ゼロ年代」の本の人などが集まったシンポジウム記録があって、

あきらかに司会の東氏以外、誰も幸福ではないと思われる会合なのに、どうやら東氏はこの本を「こういうのを僕は作りたかった」と発言していらっしゃるらしく、こんな風にホスト役(だけ)が自画自賛するイベントというのははとても不幸な事態だと思わざるをえず、

後ろのほうには、東氏、北田暁大氏と原武史氏の団地論の鼎談があって、こっちのほうが内容的には充実していて、しかも、原武史氏の近著が大変気になって、早速読みました。

滝山コミューン一九七四

滝山コミューン一九七四

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原氏の関西私鉄論「「民都」大阪対「帝都」東京」は大変面白かったですし、

「民都」大阪対「帝都」東京 (講談社選書メチエ)

「民都」大阪対「帝都」東京 (講談社選書メチエ)

今度は、1962年生まれの著者が小学校から中学1年まで住んだ団地の小学校における学校とPTAが一体になった疑似「コミューン」の話だというので、これは、1965年生まれで小学1年から中学2年までひとつの団地に住んでいた私にとって、大変近しい環境のお話に思えたので、必読かもしれない、と思ったのでした。

でも、「民都と帝都」ほどには面白くなく、ややしんどかったです。

東京郊外の滝山団地の小学校で、1974年(著者六年生のとき)に、片山(仮名)という教師がいて、ナルシスティックな欲望に駆られた斑システムの制御が二泊三日の林間学習で完璧に機能してしまって、著者を含む六年生の生徒たちに(まるで連合赤軍の再来のような)トラウマ的ストレスを与えたことは理解できました。事実なのでしょう。

でも、これがどの程度、団地の「典型例」なのかがわからなかったです。

全体のなかでの文脈が見えなくなってしまうというのは、手記ベースの私語りノンフィクションの限界ではあると思います。

そして、この手記ベース・ノンフィクションという形式が、昔は、戦争体験ものとかごく普通にたくさんあったのに最近は意外に少ないから、免疫のない若い人(北田氏とか)が衝撃を受けたのもわからないことではないような気はします。

それから、やや不審なのは、著者が、本のなかでも明記されているように進学塾通いをして、そのような疑似「コミューン」との内的な距離を確保していて、しかも、中学受験で慶應義塾普通科に進学しているのだけれど、そして、著書によると慶應普通科は、ほぼ例外なく全員が慶應大へ進学するものであるとされているのに、著者略歴をみると、氏は再びここを脱出して東大へ進んでいるみたいです。

どうやら著者は、均質な集団から抜け出すことで自己形成をした人であるように見えます。だとしたら、均質な集団を嫌うバイアスがこの書物(というか、団地というもの)に含まれている危険を勘案すべきなのではないかと、少し心配になったのでした。

(遡って、「帝都と民都」という本も、民都・関西が、帝都(中央集権的)「ではない」というように、帝都からの脱出先として見出されたのだとしたら、それは、関東の方の勝手な都合ということになりそうで……、「帝都と民都」が「避難所探し」として読まれてしまうと、とたんに面白くなくなってしまいそうです。閑話休題。)

より広い文脈で言うと、一般論として、「団地なんて人の住むところではない」という、受験戦争を勝ち抜いた東大生が属するような社会集団では賛同を得やすいであろうような俗情におもねるところが、この本にありはしないか、と気になりました。

少なくともわたくしの住んでいた団地は、こんな風ではなかったですね。(別に団地が良いとか、擁護するわけではないですが。)

一番の違いは、高台の周囲から隔離された空間ではなく、低地の田んぼを埋め立てた団地で、近隣に開かれていたことかもしれません。

PTAより自治会のほうが存在感があって、子供を過剰に学校へ押し込めるのではなく、地域で子供をコアとする自治会・こども会ベースのイベントのほうがさかんだった印象があります。

父は、初期に自治会長をしていました。小学校教師で、だから逆に、学校に過剰な期待をしても無理と思っていたのかな、とも思います。

隣接工場の排水(おそらく不法投棄)の悪臭がひどい、という交渉にオトナたちは追われてるようでした。あと、私はあまり記憶がないのですが、近所の農家の畑の一角を借りて、子供会で野菜作りをする、のどかなイベントもあったらしいです(土いじりが好きな父の趣味という感じが多少します……)。

どっちにしても団地なんて所詮は歴史を欠いた疑似コミュニティだ、という醒めた感想もありうるでしょうけれども(私のいた団地は、おみこしや金魚すくいの夏祭りをやったり強引に「ムラ」を持ち込んでいるような感じがしないではなかったですし←こんな子供時代を経たから、私は大栗裕のオーケストラによる祭囃子を悪くないと感じる「ホンモノとニセモノの区別の付かない(と団地嫌いな伝統ある街にお住まいの方から悪口を簡単に言われてしまうかもしれない)人間」になってしまったのでしょうか??)、とりあえず、団地も団地なりの多様性があったということは言えそうな気がします。

先日、父から聞いたところでは、当時、父と一緒に自治会で副会長をやっていた山本健治さん(ヤマケンと呼ばれて、関西の昼間のテレビのコメンテイターでときどき出てくる)は、今もその団地に住んでいるらしいです。団地を地盤に市議から府議になった人。反権力市民派さんで、父は支持者ではなかったし、自治会をあげて支援というようなことにはならなかったようですが。

そんなことを言われても、原さんの1974年の体験がこうであった、という事実が変わるわけではないし、書かずにいられなかったのでしょうし、こんな学校は嫌だと読んでいて思いますし、日教組批判とか、近代の見直しとか、いろいろ、今時の気分にフィットする内容でもあるのだと思いますけれど、体験記という形式は難しいですね。

私だって、大きな団地で複数の自治会にわかれていて、私のところは一番規模が小さい地区だったので、たまたま「ご近所」感が強く、少なくとも初期は割合うまくいっていただけのことかもしれませんし。教師とか司法書士とか、企業の研究職とか、比較的時間に余裕のある男手がそれなりのある幸運な環境だったのかもしれませんし、あるいは、自治会役員の息子で、地域がうまくいっていると勝手に思いこんでいただけかもしれないですし……。

「実際はどうだったか」のニュアンスは、そう簡単にはわからない。

ここまでくると文学の領域で、誰もが「ハイスクール1968」や「東大駒場学派物語」を書けるわけではないということなのかもしれません。

ハイスクール1968 (新潮文庫)

ハイスクール1968 (新潮文庫)

東大駒場学派物語

東大駒場学派物語

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[追記]

あと、「滝山コミューン1974」は、小学校のその後(=翌年には疑似「コミューン」があっさり自壊・消失したらしい)に言及する一方で、同級生たちのその後はあまり詳しく追っていないようです。

小学校が団地の子ばかりであるとしても、通常、公立中学校はもう少し校区が広いので、「地元の子」と混ざるケースが多いのではないでしょうか。だから、仮に疑似「コミューン」が小学校に存続したとしても、上の学校へ進むことで子供は否応なく別の環境で視野を広げることになる。

(生活環境が違うということもありますし、地元には、様々な地域から集まった人たちが作り上げる団地の中の比較的「中性的」な言葉ではない訛りや方言がある、ということがわかる、とか……。例えば、井上章一さんは、関西人が関西弁に固執するという定型イメージに反して、阪神間の郊外住宅街に「標準語運動」があったことを昨年12月日文研の大阪の近代化と音楽に関するミニ・シンポジウムで発表されたようです(私は直接聴いていませんが)。ただし井上先生の発表は、山の手のハイソな動機付けによる標準語運動のお話で、団地における話しことばの「中性化」とは文脈も時期も別。ちなみに私自身は、これは両親が関西出身でなく、5、6歳の微妙な時期に大阪へ転居したこと等の個人的な事情もあるかと思いますが、関西のことばを人前でうまく話せません。私の話し言葉は、ニセ関西ことばと標準語のパッチワーク(雅語的芸術音楽調と俗語的クレズマー調等々がまじりあうマーラーの音楽みたいな)になってしまっております。中学校で別の団地へ転居して、地元の「村」の子たちの通常私たちが関西言葉としてイメージするのとは随分違うキツイ方言に遭遇しました。市の中心部の旧城下町の人たちが、さらに違った(大阪ことばと京都ことばの折衷のような)イントネーションで話しているのに気づいたのは、それから20年以上経ったごく最近のことです。以上ふたたび余談。)

原さんは、遠方の私立中学へ進学したことで、そういう、団地に住んだままでの成長モデルが視野に入っていないのではないか、と本の結末を読んでそう思いました。(「思想地図」で鼎談している東浩紀さんの学校歴もそんな感じで、渋谷の進学塾へ通っておられたようですね。このあたりは、私立進学校出身者が都市論や社会制度論を語る上での盲点なのでしょうか。)