外山雄三のショスタコーヴィチ(1/22京都市交響楽団第531回定期演奏会、4/9大阪交響楽団第144回定期演奏会)

外山雄三さんは、昨年2009年1月に、岩城宏之さんが指揮する予定だった京都市交響楽団第496回定期演奏会でオール・ショスタコーヴィチ・プロ(交響曲第5番など)をやって、一年後の今年の京響1月定期で、今度はショスタコーヴィチの第10番をやって、4月の大阪シンフォニカー改め大阪交響楽団定期ではショスタコーヴィチの第9番。

外山雄三さんが、最近、気になるのです。

1月の京響定期プレトークでは、ソ連時代にショスタコヴィチはどういう心境だったと思われますかと問われて、「私は知らない/わからない」と、きっぱりした態度を示していらっしゃいました。

「本音」「内面」は結局のところわからない。そこを忖度する前に、楽譜に書いてあることをその通りに演奏する。……とまとめると当たり前の話のようですが、大阪交響楽団(どう略称したらいいのでしょう「大響」でしょうか)の第9番を聴いていると、楽譜に書いてある音符をその通りに演奏するのはどれだけ大変なことか、そこに命を賭けないでどうするか、という、おそらく外山さんのデビュー以来、非転向でいらっしゃるに違いない意志を感じました。

「大響」で、バスがこんなにしっかり鳴る演奏は初めて聴いた気がします。

(ふだんは、児玉さんがやっても、寺岡さんがやっても、イライラするくらいバスが弱いのに、今日は全体の支えになって、弦楽器がユニゾンで見栄を切るところはまるでチャイコフスキーみたいにたっぷりした響きを作っていました。やればできるんじゃないか、ということですが、「弾かないなら死ね!」と言いかねない外山さんの鋼鉄の意志がなければ、ここまではできないかもしれないですね。驚きました。)

考えてみれば、外山さんの若い頃はスターリン体制の実情があまりわからず、ショスタコーヴィチがソ連の国民作曲家だった時代ですし、外山さんがN響世界一周旅行に同行した頃には、「森の歌」が日本中で歌われていました。そんな時代からずっとリアルタイムでやってきた人のショスタコーヴィチは、やはり特別なのではないか。

それから、楽譜に忠誠を誓うタイプのモダンな態度が身に付いた演奏家の場合、年齢を重ねても、いわゆる「老境」とか「枯淡」というところへ行かなくて、個人の意志や体力を越えたところで、年齢と関係なく形(音楽の捉え方)の崩れない人がいるように思います。

以前、チッコリーニを聴いてそんなことを思ったのですが、外山さんもそういうタイプなのでしょうか。

いわゆる指揮者の「巨匠・翁」枠とは違う、21世紀を生きる非転向モダニスト。こういう年齢の重ね方もあるのですね。

(外山さんは、大阪フィルとも縁が深くて、大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」を早くから指揮していますし、60年代には大栗裕と交流もありました。そういう意味でも気になる人です。)