土曜日の夜のNHKと「昭和」の自意識

地上波総合テレビが午後9時から「チェイス」というドラマをやっていて音楽が菊地成孔で、色々なジャンルの音にほんの少しずつドーピング気味に手を加えた音が次々聞こえてきて、BS-2では、午後10時から「ドレミファワンダーランド」で宮川彬良が大活躍。往年の音楽バラエティ番組が蘇ったような手間のかかる番組が放送されていて、11時45分になると、地上波教育テレビで坂本龍一がバッハを語る。

週末の夜に、こんな風に「昭和」の香りが大々的にNHKからただようのは、偶然なのか何なのか、よくわかりませんが、坂本龍一の番組は、いつまで経っても年齢不詳の浅田彰を除いて、出てくるのが全員、みんな年取ったなあ、と思わざるを得ないオジサンばかりなのでギョッとしました。

市村正親が宮川彰良のピアノでミュージカルのさわりを次々歌って躍るのは、舞台人やスタジオミュージシャンは一生こうなんだろうな、と「昭和」や「平成」と関係なくスゴイかったですが、坂本龍一は微妙ですね。

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芸大受験の音楽塾に通っていた人が、「やっぱりバッハはすごい」というところに戻ってきてしまうのは、かなり危うい気がします。

自分自身の幼年期を、歴史の原点と重ね合わせてしまうような時間意識。自分が生まれる前の時代には意識が届かない状態で過去を意味づけてしまう心性。この際だから、そういう風に自分の来し方を正当化してしまおうという傾向は、いまどきの中年世代に曖昧に共有されている俗情に乗っかっているということでしょうか。

(「私の歴史」へ拘泥する自意識は、社会科学や文化研究風に形を整えようと、自嘲的に語ろうと、自己愛として結晶化させようと、気色の悪いものであることに変わりはない。

でも、新人類とかモラトリアムとか呼ばれたりした世代には、「書を捨てて街に出る」体験があるわけでもなく、電脳による「動物化」を完遂するほど進化(?)しているわけでもなくて、「自意識」くらいしかアイデンティティの根はないのだから、しょうがない、ということなのかもしれませんね。(坂本龍一自身は高校時代にバリケードの中でサティを弾いた、といった伝説を持つわけですが、彼を支持したのはそういう「行動」の経験のない世代ですし。))

社会学入門―“多元化する時代”をどう捉えるか (NHKブックス)

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音楽は自由にする

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門外漢の素人の見立てで、反論もありそうですが、ロックは、アンプラグドな起源を持たないジャンルなのだろうと私は思っています。ブルースやカントリーから派生してはいるけれど、歌と演奏を録音・放送したときにロックンロールが誕生して、ヴォーカルはマイクに特化した唱法を開発して、楽器はどんどんエレクトリックになり、職人技でミキシングされた音響はスピーカーを通して出力される。ロックは、おそらく20世紀の最も成功した電子音楽だし、ロックが反抗やストリートのイメージと相性がよいのは、複製メディアのなかに棲息する孤児的なジャンルだからなのではないか、という気がします。

音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ

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電子音楽in JAPAN

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で、ジャズメン菊地成孔はロック嫌いを公言していて、もちろんテクノ・ポップ等については積極的に発言しないわけですが(孤児的なもの(←モダニズムとほぼ同義)を処理する際のロックの流儀には組みしないということでしょうか)、坂本龍一は、ポジションがよくわからないのです。

アフロ・ディズニー エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで

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東京芸大目指した作曲の受験勉強をずっとやっていた人で、ロックへ入り込みつつクラシックの素養があることをチラチラ出すわけですが、「スコラ」とか箏協奏曲とかやってはいても、「ルーツ」を実体化しないし、できはしないだろうし、脆い危うさが逆説的なアイデンティティであるような人なのでしょうね。

(そういうところは、学生時代に近親憎悪的に批判していたと伝えられる武満徹とちょっと似ているのかも……。)

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隣に座っているのも、安部幸明の弟子で平成の世に「バッハの主題による変奏曲」という管弦楽作品を発表するような京都の先生に和声を習った音楽学者ですし……。

(対位法の実習で、坂本龍一がわざと破格な対旋律を書いて見せたあとで、某岡田先生は「オレはこのメロディがいい、と言い張っても……、合わないものは合わないですよね」と感に堪えぬ風でコメントしていますが、そういう風に「ダメなものはダメなの!}と音楽教師に頭を押さえられたご経験がおありなのだろうと思います。ヨーロッパをお手本にして子供を型にはめるタイプの日本の洋楽教育(近い過去の風習)と、バッハは音楽の規範(カノン)だ、とする音楽史観(遠い過去に関する見取り図の一例(必ずしも絶対普遍ではない))をごっちゃにして、自分が押しつけられた「頭ごなし」をそのまま次の世代へ押しつけるのは止めて欲しいのですが……。)

二人を高校生が取り囲んでいる絵は、土曜深夜の教育テレビで思春期の思いの丈を車座になって語り合っていた「若い広場」や「YOU」を思い出してしまいました。

そういうちょっと気恥ずかしい記憶を含めて、土曜の夜のNHKを「昭和」な音が占拠しているようですね。